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第33話 工場は残っている

宰相府の門を出た時、風が変わった。


 石畳の回廊を吹く風には壁の匂いがある。書類と蝋と古い石の匂い。七年間、カイルの世界はこの匂いの中にあった。門の外の風は違った。土と草と、遠くの炉の煤の匂いが混じっていた。


 ルッツが馬を用意していた。


 「殿下、半刻ほどです」


 ヴェルデンの南西、光の谷の手前にある第一工場。特需期に最も稼働率が高かった工場の一つだと、ルッツの台帳には書かれている。


 カイルが宰相府の外に出るのは、独立以来初めてだった。記録者の仕事は、報告が運ばれてくる側にいることだった。今日、初めて、報告が生まれる場所に行く。





 工場は、想像より大きかった。


 石造りの壁。高い天井。壁の上部に窓が並び、朝の光が斜めに差し込んでいた。光の筋の中に埃が舞っていた。


 中に入った瞬間、音が来た。


 精製炉の低い唸り。弁から蒸気が抜ける細い音。配管の中を何かが流れる音。人の声——工員たちの短い掛け声、道具を置く音、足音。宰相府にはない種類の音だった。紙の上には載らない音だった。


 ルッツが先を歩いた。


 「ここが第一精製炉です」


 大きな炉が壁際に据えられていた。炉の表面は黒く、使い込まれて光沢が出ていた。三人の工員が炉の前で作業をしていた。灰色の作業着。額に汗。腕まくりの下に、鱗が見えた。


 「この炉は特需期に軍需品の精製を行っていました。設備は健在です。昨日から試験的に、ヴァレン先生の指示で民生品の精製を始めています」


 カイルは炉に近づいた。手を伸ばした。


 炉の表面に触れた。


 温かかった。


 掌の下で、金属が微かに振動していた。炉の中で何かが動いている。粗魔素が管を通り、純度を段階的に上げられ、絶縁容器へと送られていく。その振動が、掌を通じて腕に伝わった。


 七年間、帳簿の上で「精製炉一基、稼働率六割」と読んできた。数字は正確だった。だが数字には温度がなかった。振動もなかった。数字の向こう側にこの温かい塊があり、この塊の前で人が汗をかいていた。


 帳簿にはそれが書いていない。


 手を離した。掌に温かさが残っていた。





 ルッツが台帳を開きながら歩いた。


 「精製炉は計四基。稼働可能三基。一基は部品交換が必要ですが、在庫があります。工員は三十八名。特需期の六十名から二十二名が離職。離職者の半分は農村、残りは——」


 「募兵所ですか」


 ルッツの歩みが一瞬止まった。


 「……はい。若い補助工員のうち数名が志願しています。仕事がなくなったからです」


 カイルは工場の中を見回した。工員たちは作業を続けていた。彼らの中に、仲間が募兵所に行った者がいる。残った者は、仕事があるから残っている。


 ルッツが炉のそばに立ち止まった。壁に目をやった。


 「殿下、金は消えました。特需の利益は消えた。だが——」


 手で工場の中を示した。炉。配管。分離槽。絶縁容器の並ぶ棚。壁に掛かった計器。


 「これは全て残っています」





 工場の門の前に、小さな広場があった。


 数人の民衆が座っていた。工場の周囲に住む人々だった。カイルの外套を見て、一人が立ち上がった。


 「旦那、宰相府の方ですか」


 「はい」


 「仕事をください」


 直截だった。


 「特需の時は毎日、工場から仕事が出ていました。運搬、清掃、食事の用意。日当をもらえた。特需が終わってから何もありません」


 カイルは目の前の人を見た。壮年の竜人の男。手が荒れていた。横に若い女性と、足を引きずる老人がいた。


 「宰相府に陳情は——」


 「出しました」


 「承知しました。確認します」


 「確認して、それから何がありますか」


 言葉に詰まった。確認はできる。だが確認の先に、この人に何を渡せるのか。帳簿の上で「失業者」と書くことはできる。だが帳簿の「失業者」と、目の前の「仕事をください」は同じものなのに、重さが違う。


 「——この広場だけじゃありません」


 老人が低く言った。


 「第二工場の前も、第三工場の前も、みんな同じです。特需が終わってから、どの工場の前にも人が座っている。宰相府の方は、一つの工場だけ見て帰られる。だがこの国全体がこうなのです」


 カイルは頷くしかなかった。老人の言葉は、数字より先に、現実の大きさをカイルに伝えていた。一つの工場の問題ではない。一つの町の問題でもない。ルッツの紙に書かれた「止まった八ヶ所」の前に、全てこれと同じ広場があるのだ。





 広場の隅で、もう一人に出会った。


 小柄な獣人だった。猫型の亜種。荷物を背負っている。マルカ諸国から来た商人らしい。特需期に工場の周辺で小さな商いをしていたが、客が消えた。


 「旦那、何か買ってくれませんか」


 カイルは首を振った。商人はそれ以上勧めなかった。代わりに少しだけ世間話をした。


 話の途中で、商人が言った。


 「旦那、私はこの国に五年いますが、帰れないんです」


 「帰れない——」


 「故郷に——造形の間、という場所がありまして」


 声が少し落ちた。


 「そこで昔、何かがあったんです。私はそのことに——」


 急に首を振った。


 「すみません。忘れてください」


 カイルは黙って待った。だが商人はそれ以上語らなかった。代わりに、去り際に振り返って言った。


 「旦那、一つだけ。あなた方の角は——本当に生まれつきなんですか」


 意味を掴みかねた。


 「古い言い伝えです。気にしないでください」


 商人は去っていった。


 「造形の間」。「角は生まれつきか」。二つの言葉が残った。繋がりは分からなかった。だが何かが引っかかっていた。紙には書かなかった。まだ書くべきかどうか分からない言葉だった。





 帰路、馬の背の上で、カイルは自分の掌を見た。


 工場の炉の温かさが、まだ残っていた。もう消えているはずだった。だが指先の感覚が、あの温度を覚えていた。


 七年間、書類の向こう側を見ていなかった。見る必要がなかった。記録者の仕事は、報告を正確に記録することだった。書類の外に出ることではなかった。


 今日、外に出た。


 数字は正確だった。だが正確な数字の向こうに、温かい炉があった。仕事を求める人がいた。帰れない商人がいた。数字はそれを教えてくれない。


 馬が宰相府の門に近づいた。石畳の回廊の匂いが戻ってきた。書類と蝋と古い石。七年間の匂い。


 だがもう、この匂いの中だけにはいられない。外の風を知ってしまった。炉の温度を知ってしまった。数字の外にあるものを、一度見てしまった目は、元には戻らない。





 報告を終えた後、オルデンが呼び止めた。


 「カイル」


 「はい」


 「工場を見て、何が足りないと思った」


 「……現場を見ていなかった。帳簿の外にあるものを、何も知らなかった」


 オルデンは少し間を置いた。


 「ヴェルデンの外を回れ。この国の工房を、商家を、農村を、自分の足で見てこい。技術者を探せ。商売の相手を探せ。民衆の暮らしを見ろ。半年かけてよい」


 「半年——」


 「帳簿はトーヴァに預けろ。記録はお前の頭の中でしろ。紙の上の国ではなく、土の上の国を見てこい」


 カイルは頭を下げた。


 宰相府の門を出た時、外の風が吹いていた。明日からは、この風の中を歩く。

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