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第32話 旧貴族派の反発

十日目の朝、ラドマー卿は宰相府の門前に立っていた。


 取次の書記官がカイルに知らせに来たのは、朝の執務が始まる前だった。


 「ラドマー卿が、予告なく参られています」


 カイルは顔を上げた。布告から十日。ラドマー卿の屋敷には既に財産接収の第一報が届き、接収担当官が一度目の訪問を終えている頃だった。十日間、屋敷の中で何を言われ、何を考えたかは想像できなかった。


 「閣下にお伺いすれば、通せとおっしゃるだろう」


 「では」


 「だが、通す前に、私が一度会ってくる」


 カイルは立ち上がった。





 門前の石畳の上で、ラドマー卿は直立していた。


 百代後半の竜人は、普通なら少し背が丸くなっている。だがラドマー卿はそうではなかった。背は真っ直ぐで、肩の線は戦前の写真で見た頃と変わらなかった。古い家の当主が、最後まで崩さない姿勢。角は長く、上に向かって少しだけ反っている。旧貴族の血筋に典型的な形。その角の根元に、薄い布が巻かれていた。独立した翌朝も、外していない。外すべき日を、まだ決めかねている。


 「ラドマー卿」


 ラドマー卿はゆっくり顔を向けた。


 「末王子殿下」


 「宰相にお会いになる前に、私がお話を伺いたい」


 「末王子殿下が仲介なさるか」


 「仲介ではありません。ただ、一度、私と話していただきたい」


 ラドマー卿は少し黙ってから、低く答えた。


 「承知した」





 小応接室に案内した。北向きの窓が一つきり。朝の光は机の縁までしか届かず、部屋の奥は薄暗い。石造りの古い部屋で、壁に手を当てれば冷たさが骨まで届く。この国の応接室は、どこも似たような寸法をしている。ラドマー卿の屋敷の応接室と、さほど違わないはずだった。


 茶を運ばせた。肉厚の陶器。温度を逃さない古い形式のもの。湯気が縁から薄く立ち上った。ラドマー卿は茶碗に手を伸ばさなかった。湯気だけが、二人の間をしばらく上り続けた。


 「殿下」とラドマー卿は切り出した。「あなたは、宰相の布告の意味を、ご存じか」


 「存じません」


 ラドマー卿の眉が微かに動いた。


 「十日前の広間でも、宰相に理由を問おうとしました。しかし宰相は『理由を問う者もいよう。今日は、答えぬ』——それで全てを閉じられました」


 「……それだけか」


 「それだけです」


 ラドマー卿はしばらく黙った。それから低く言った。


 「末王子殿下に申し上げるべきではないかもしれぬことを、申し上げる」


 カイルは頷いた。


 「私は、独立のために戦った」


 ラドマー卿の声には、長い疲労があった。


 「戦前、私の家は中立だった。息子を大戦で失った。次兄殿下の部隊にいた。最後まで前線を支え、退かなかった。最後の退却命令の日に、馬を降りて、後詰に残った」


 カイルは黙って聞いた。


 「敗戦後、黙って隠れていれば何事もなく終えられた。だが私は動いた。宰相に会いに行き、独立派に加わった。宰相は『来てくれたか』と静かに言った。その一言のために、私は家の残りを賭けた。賭けた結果、今、私の家は布告の対象になっている」


 「卿——」


 「末王子殿下」


 ラドマー卿の目がカイルを真っ直ぐに見た。


 「私は、裏切られたのだ」





 カイルは答えなかった。答えるべき言葉が、どれも正確ではないと思った。


 ラドマー卿は続けた。


 「殿下、一つ聞く」


 「はい」


 「あなたは、なぜ宰相にお仕えしているか」


 「……宰相が、お命じになったからです」


 「違う」


 ラドマー卿の声は低いが確かだった。


 「あなたが宰相にお仕えしているのは、王家があなたをお捨てになったからだ」


 カイルは目を閉じなかった。閉じると、何かが顔に出る気がした。


 「大戦の末期、王族は宰相に全権を委ねた。英断と呼ばれている。だがあれは英断ではない。敗戦の責任は王族が取るべきだった。陛下は退位なさらなかった。殿下方のどなたも、責任を引き受けてはおらぬ。ただ宰相一人が全てを引き受けた」


 ラドマー卿は茶碗に目を落とした。まだ口はつけていない。


 「私はそれを知っていた。知っていたから宰相を信じた。自分と同じ種類の怒りを持つ者は、旧貴族を直視できる。直視する者は、正しく裁ける。そう思った」


 声が一段低く落ちた。


 「だが宰相は、旧貴族を裁いているのではない。取り壊しているのだ。裁きには相手の顔が要る。取り壊しには要らない」





 オルデンの執務室の扉を、カイルが開けた。


 ラドマー卿は敷居を越えて一度立ち止まり、中に入った。オルデンは机の向こうに座っていた。外套の裾に埃がついていた。朝から別棟で接収の指示をしていたらしい。


 「ラドマー卿」


 「宰相」


 カイルは机の端の書机に座り、筆を取った。


 ラドマー卿は三つのことを言った。


 「一つ。私の家は独立のために賭けた。あなたの『来てくれたか』という一言がその支えだった」


 オルデンは頷かなかった。視線を動かさなかった。


 「二つ。布告は、その一言を取り消している。独立派も中立派も同じ扱いは、私の賭けを無意味にする」


 「三つ」


 ラドマー卿の声が一段低くなった。


 「あなたが旧貴族を叩く手つきには、裁きの重みがない。憎しみはある。だが裁きはない。あなたの怒りの相手は我々ではない。王家だ。王家が押し付けた責任が、行き場を失って、我々の家に向かっている」


 オルデンは最後まで聞いた。目を閉じていた。


 長い沈黙の後、目を開けた。


 「そなたの言葉の、半分は本当だ」





 「王家は責任を取らなかった。全権を宰相府に渡した。押し付けと呼ぶかどうかは受ける側の話だが、王族が引き受けなかった責任を、私が引き受けた。それは事実だ」


 「では、もう半分は」


 「旧貴族を、憎んではおらぬ」


 「では——なぜ」


 オルデンの声が変わった。ここまでの応答とは、種類が違った。


 「ラドマー卿。技術立国を目指すなら、知識は広く共有されねばならぬ」


 「知識——」


 「我が国の魔素技術は、戦前、王家と旧貴族の独占だった。各家が秘匿してきた技は、個々の家の財産であると同時に、竜人族全体の資産だ。それを各家が閉じ込めたことが、この国の技術を狭い場所に留めた」


 オルデンの目がラドマー卿を見た。


 「貴族の誇りと、竜人族の本当の誇りは、別のものだ」


 ラドマー卿の顔から表情が消えた。


 「貴族の誇りとは家柄と血統と資産だ。竜人族の本当の誇り——技術で世界をより良い場所に変えていく志——に比べれば、大した価値はない」


 ラドマー卿は長い沈黙の後、低く言った。


 「あなたは我々を憎んでいるのではなく——壊そうとしている」


 「そうだ」


 「その違いに、慰められるとお思いか」


 「思わぬ。だが事実だ」


 間があった。


 「ラドマー卿。そなたの賭けのことは、忘れていない。そなたの家の財産は、失われたのではない。国の管理下に置かれただけだ。管理の意味は、数年のうちに明らかになる」





 ラドマー卿は立ち上がった。


 「理解はした。だが、受け入れない。接収を拒む」


 「それはそなたの権利だ」


 オルデンの声がもう一段低くなった。


 「だが——接収を拒む家には、財産の全面凍結を命じる。資産の凍結。公職からの追放」


 ラドマー卿の顔色が変わった。


 「……宰相、我々は独立のために——」


 「独立のために戦ったことは忘れぬ。だが独立の先にこの国が何になるかは、私が決める」


 ラドマー卿は口を閉じた。それから、カイルを見た。何かを託そうとしているようにも、ただ確認しているだけのようにも見えた。


 「先ほど申した三つのうち、一つだけ撤回する」


 「どれを」


 「あなたが旧貴族を憎んでいる、と申した一点。あれは撤回する。他の二つは残す」


 オルデンはかすかに頷いた。


 ラドマー卿は一礼し、足音が廊下を遠ざかっていった。来た時と同じ速さだった。だが来た時にあった力が抜けていた。





 二人きりになった執務室で、カイルは口を開いた。


 「宰相閣下、内部にも反発が出ます」


 「出る」


 「それでも」


 「やる」


 迷いのない声だった。


 カイルはオルデンの横顔を見た。戦死報が届いた日、「あの母親の顔は消えぬ」と言った男が、今、旧貴族に苛烈な手を下している。人の痛みに対して最も敏感な人が、最も冷酷に見える手を使っている。


 本来人の死を嫌う人が、ここまで苛烈な手を使う。そうしなければならないほどの構造的な必然がある。この人にはそれが見えていて、他の誰にもまだ見えていない。





 夜、執務室に一人でいた。


 ラドマー卿の問いがまだ耳に残っていた。「なぜ宰相にお仕えしているのか」。あの時は「命じられたから」としか答えられなかった。


 扉が軽く叩かれた。


 「カイル兄」


 リーネだった。古い絵本を一冊、胸の前に抱えていた。外套の肩が少し湿っていた。春の夜の湿気が髪の先と角の金色の筋を濡らしていた。下市街からの帰りだろう。


 「入りなさい」


 リーネは部屋に入り、絵本を机の端に置いた。座らなかった。用件があって立ち寄ったのだと、立ち姿でカイルは悟った。


 「カイル兄。ミレナ姉さんのこと、聞いて」


 「——ミレナが、どうした」


 数日前の朝、リーネが「ミレナ姉さんのところに寄ってきた」と言った時の声が蘇った。あの時のリーネの声は軽かった。今夜の声は、少しだけ落ち着いている。


 「屋敷、接収されたって」


 カイルはペンから目を上げた。


 「爵位も、資産も、全部取られた。屋敷だけは残ってる。国から借りる形で。でも一人じゃ家賃が払いきれないから、間借り人を探してるって」


 「——いつ」


 「昨日、担当官が来たって。書類にサインして、それで終わり。一時間もかからなかったって、ミレナ姉さん、笑ってた」


 「笑っていた」


 「うん。『爵位って、紙一枚だったのね』って。嘆いてなかったの。代書屋の仕事、むしろ忙しくなってて、『改革は正しい。私は客の書類を書くだけ』って」


 カイルは何も言えなかった。


 朝、ラドマー卿は接収を拒むと言った。誇りのために命を投げうってもよい、と。同じ時代の、同じ旧貴族の没落。中市街のミレナは笑いながら屋敷を差し出し、代書屋として残りの人生を生き直すと決めた。二つの答えが、同じ石畳の街の中で、並んでいた。


 「寝る前に言っておきたかっただけ。おやすみ、カイル兄」


 リーネは絵本を抱え直して、出ていった。扉が静かに閉まった。





 王家は、責任を取らなかった。この事実を七年間知っていた。だが知っていることと直視することは別だった。父ヴェルディンの沈黙。兄セルヴァンの静かな復権の動き。姉アーシャの完全な不在。それらを「王家の形」として受け入れてきた。


 ラドマー卿が指摘したのは、その形の空洞だった。王家は形だけが残り、中身は空だった。空を埋めていたのはオルデン一人の七年間だった。


 セルヴァンの顔が浮かんだ。浮かんだ瞬間、首の後ろが冷えた。——顔を思い出しただけで、この反応が出る。独立の夜、広間の奥で見せた薄い笑み。あの時は「兄なりの安堵」だと解釈した。今、別の解釈が浮かんだ。自分が逃げ切れたことへの満足だったのかもしれない。——決めつけるのはまだ早い。だが可能性として、静かに残った。


 個人の記録の紙を開いた。


 「ミレナ。屋敷を差し出し、笑いながら代書屋として書き続ける。嘆かない。——残骸ではなく、再生か」


 「宰相府は、王家が逃げた残骸を拾っているだけだったのか」


 一行だけ書いた。結論ではなかった。問いでもあった。答えを出すには、まだ時間がかかる。


 「なぜ宰相にお仕えしているのか」——ラドマー卿の問いへの答えも、まだ出てこない。だが形だけは見えた。


 この人の仕事を、見届けたい。それが——たぶん、答えに近い。

【豆知識:裏方ルッツ】


ルッツ・ハルベルク、九十代前半。旧貴族家の三男で、宰相府技術局所属の実務家です。旧貴族の特権だった魔法を産業として組織化するには、彼のような「数字と工程表を扱う裏方」が不可欠です。

彼は魔法のロマンを信じません。代わりに帳面に並ぶのは、歩留まり・生産効率・傭兵流出の経済損失の試算など、乾いた数字ばかり。志願兵の流出が経済成長の約半分を相殺している——そんな計算式が、この章の復興の前提になっています。

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