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第31話 血の代価

朝の執務室に、薄い紙が一枚届いた。


 レガリオン本国元老院からの公式通知。紙の上端に共和国の紋章が押されている。文字は印刷で、末尾の署名だけが手書きだった。一行ずつ、短い。


 名前。年齢。出身地。死因——戦死。場所——タルシス諸国連合東部紛争地域。日付は一ヶ月前。


 トーヴァが机に置いた時、声は平板だった。


 「殿下。公式の戦死報、第一号です」


 カイルは紙を手に取った。


 軽かった。紙一枚。人の命が紙一枚に収められている。名前の横に出身地が書いてあった。ヴェルデン下市街。元工房の見習い。


 記憶を辿った。この名前に覚えはなかった。宰相府の記録にもない。この若者は、宰相府の視界に一度も入ることなく、募兵所で登録し、船に乗り、タルシスの戦場で死んだ。


 「独立前は、これが出ませんでした」


 トーヴァの声が続いた。


 「秘密派遣でしたから。家族には『遠方で病死』と伝えていた。独立して募兵所が公然化された分、戦死報も公式に届くようになった。——これからは、数が見えるようになります」


 数が見えるようになる。


 カイルは紙を机に置いた。紙の端が少しだけ巻いていた。薄い紙だった。





 午後、宰相府の門前に女性が一人立っていた。


 取次の書記官がカイルに知らせた。


 「戦死者の母親と名乗る方が、面会を求めておられます」


 カイルは立ち上がった。迷ったのは、会うかどうかではなかった。何を言えるのか、だった。


 「お通ししてくれ」





 小応接室に通された女性は、百二十代の竜人だった。壮年期。服は清潔だが地味で、下市街の工房の家庭の人だと分かった。手が荒れていた。長年、手仕事をしてきた手だった。角は細く、布を巻いていなかった。独立後、外した人なのだろう。


 カイルは机を挟んで向かい合った。


 女性はしばらく何も言わなかった。言葉を探しているのではなかった。口に出す前に、一つずつ、自分の中で確かめている動作だった。


 「末王子殿下」


 「はい」


 「息子は、どこで死んだのですか」


 静かな声だった。怒りはなかった。恨みもなかった。ただ、知りたい、という一つのことだけが声に載っていた。


 カイルは手元の戦死報を見た。「タルシス諸国連合東部の紛争地域にて」。場所の名前はあるが、それがどこなのか、カイルも知らなかった。地図を広げても正確な地点は分からないだろう。


 「書簡には、タルシス諸国連合の東部、とあります」


 「どの町ですか」


 「……書かれておりません」


 女性は頷いた。頷きの中に、予想通りだった、という静けさがあった。


 「息子は志願しました」


 「はい」


 「止めませんでした。生活が苦しかったのです。工房の仕事が減って。息子は『自分が出れば給金が届く』と」


 カイルは黙って聞いた。手の中の紙の重さが変わっていた。朝、手に取った時には軽かった紙が、今は指先に食い込むように重かった。


 「給金は確かに届きました。毎月、少しずつ。息子が死んだ後も、三ヶ月分の未払いが届きました」


 女性は手元を見た。


 「殿下、恨んではおりません。息子は自分の意志で行きました。ただ——」


 声が、初めて揺れた。揺れは一瞬で、すぐに戻った。


 「ただ、息子がどこで死んだのか。どんな場所だったのか。——知りたいのです。知っても何も変わりませんが、知りたいのです」


 カイルの喉が詰まった。


 答えを持っていなかった。タルシスの東部のどこか。一枚の紙に書かれた地名。それ以上の情報を、宰相府は持っていなかった。レガリオンの通知は一枚きりで、詳細はない。一人の竜人の若者がどの丘で、どの道で死んだのか。母親が知りたいその一点を、誰も記録していなかった。


 「今の段階では、詳しい場所をお伝えすることができません」


 声が掠れていた。


 「お伝えできるようになった時には、必ず、ご連絡いたします」


 女性は頷いた。


 「ありがとうございます」


 立ち上がり、深く頭を下げた。


 「殿下。一つだけ、お願いがあります」


 「何でしょうか」


 「息子の名前を——どこかに、残してください」


 カイルは頷いた。


 「必ず、残します」


 女性は去った。応接室の扉が閉まった後も、彼女が座っていた椅子の上の空気が、しばらくの間、動かなかった。





 オルデンの執務室に向かった。


 足が重かった。石畳を踏む音がいつもより硬く響いた。


 オルデンは机の前にいた。カイルが入ると、顔を上げた。


 「母親が来たと聞いた」


 「はい」


 カイルは、母親の言葉を短く報告した。どこで死んだか知りたい。名前を残してほしい。二つだけだった。


 オルデンは最後まで黙って聞いた。


 長い沈黙があった。窓の外の光が、少しだけ傾いでいた。


 「レガリオンの軍事協力要求を受け入れたのは、私の判断だ」


 低い声だった。いつもより低かった。


 カイルの手が止まった。軍事協力要求。その言葉は知っていた。占領下で若者の一部がレガリオンの戦線に送られていたことは知っていた。だが「受け入れた」——オルデンが、自ら、その判断を下していたということは、今、初めて聞いた。


 「占領下で全てを拒むことはできなかった。精製所を締め上げられ、技術者を引き渡せと言われ、地脈の利用権を奪われる——それを避けるために、若者の命を差し出した」


 差し出した。カイルの指が膝の上で強張った。この人が選んだのか。技術と引き換えに、命を。七年間そばにいて、そんな判断があったことを、一度も聞かされなかった。


 「必要な犠牲だと分かっていた。死ぬ者が出ることも、分かっていた」


 オルデンの目が、机の上の何かを見ていた。何かを——あるいは何も見ていなかった。


 「だが——」


 言葉が途切れた。


 カイルは初めて、オルデンの言葉が途切れるのを聞いた。七年間、この人の言葉が途中で止まったことはなかった。言い切るか、黙るか。途切れることはなかった。


 今日、途切れた。


 「あの母親の顔は——計算の外だった」


 それだけだった。


 カイルは頭を下げ、執務室を出た。





 廊下で立ち止まった。


 壁に手をついた。石の壁は冷たかった。冷たさが掌から腕に伝わった。


 手が震えていた。独立の調印の頃に安定したはずの手だった。


 七年間、この人のそばにいた。記録を取り、茶を淹れ、書類を運んだ。自分はオルデンの考えを理解していると思っていた。少なくとも、近くにいる者としての手応えは持っていた。


 違った。


 五日前の布告の意味を、まだ分かっていない。ルッツという男がいたことを、昨日まで知らなかった。製造ラインの裏に民生転用が仕込まれていたことを知らなかった。オルデンが五十年間抱えてきた信念を、五日前まで聞いたことがなかった。そして今日——若者を戦場に送ったことへの後悔が、あの声の底にあった。あの母親の顔を、オルデンはずっと一人で見ていた。


 カイルには見せなかった。


 七年間のそばにいた時間は何だったのか。近くにいたのに、何も見えていなかった。信頼はある。揺らいでいない。だが信頼していることと、理解していることは違う。その距離を、この五日間で知った。


 戦死報を懐に入れていた。薄い紙一枚。朝は軽く、午後は重く、今は——体温で温まっていた。死んだ若者の名前が、カイルの体温で温められている。


 記録棚に収めなければならない。公式の記録に。正式な場所に。


 だが今夜は、もう少しだけ、懐に置いておく。

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