第30話 裏方の男
布告から五日が経っていた。
机の上に異議申立ての書簡が積まれていた。二十四通。昨日だけで六通増えた。蝋の封印と署名、慎重に整えられた文面——だが筆圧が裏切っている。特にラドマー卿の書簡は、紙が一ヶ所、筆先で裂けていた。
一通ずつ読み、日付と差出人を台帳に書き写す。窓の外で上市街の石畳を歩く足音が聞こえた。高原の朝の空気は、独立してもしなくても冷えている。
扉が軽く叩かれた。書記官の叩き方ではなかった。
「カイル兄」
顔を覗かせたのはリーネだった。朝の光の中で、布に巻かれていない角が金色の筋を見せていた。七年間巻き続けた布が、もう要らない。末妹の角がこんな形だったのを、カイルは数日前に知ったばかりだった。
「早いね」
「眠れなかった」
リーネは部屋に入ってきて、机の脇の窓際に立った。手には何も持っていなかった。用があって来たのではないのだと、カイルは直感した。
「外が歩きやすいの」
リーネが窓の外を見ながら言った。
「角を巻かなくていい。髪も結わなくていい。今まで裏道ばかり通ってたけど、今朝は中市街の表通りから行けた」
カイルは書簡の束から顔を上げた。——裏道。末妹が裏道を通っていたという事実を、カイルは今初めて言葉として聞いた。知ってはいた。しかし、リーネの口から「裏道」という単語を聞いたことはなかった。
「昨日、ミレナ姉さんのところに寄ってきた。いつも通り」
「ミレナ——」
名前はすぐに出た。母方の、従姉妹。アルブレヒト家の。幼い頃はよく遊んだ。母に連れられて中市街の屋敷に行くと、少し年上のミレナが庭で迎えてくれた。最後に会ったのはいつだったか——母の葬儀の日に黒い服で立っていたのが記憶の底にある。それから三十年以上、会っていない。顔立ちはもう思い出せない。声も思い出せない。ただ、幼い自分の手を引いて庭を歩いた時の、指の感触だけが残っていた。
「元気だった?」
「うん。元気。代書屋、忙しいって。接収の書類仕事で客が増えてるの」
リーネは当たり前のようにその名前を口にした。カイルが昔を思い出していることには気づいていないようだった。
「じゃあ、行ってくる」
リーネは窓際から離れ、出ていった。扉が静かに閉まった。下市街に絵本を届けに行くのだと、カイルは声には出さずに理解した。
扉が再び叩かれた。今度は書記官の叩き方だった。
「人を連れてきた」
オルデンの声だった。
扉が開いた。
オルデンの後ろに、見覚えのない竜人が立っていた。
九十代前半。カイルより二十以上年上だが、百七十歳の宰相と並ぶとまだ若い。中肉の体格で、背筋は伸びているが柔軟さがない。長く座り仕事をしてきた体だった。角は中程度の太さで、手入れはされているが磨き上げてはいない。旧貴族の家系だとすぐに分かった。袖口の折り返しの幅、靴紐の結び目——身体に染みついた所作が出る。だが宰相府技術局の制服を着ていて、胸の家紋はあるべき場所から外されていた。糸の跡だけが残っている。
「ルッツ・ハルベルクだ」
オルデンの声は短かった。紹介ではなく、指し示す声だった。
「この男が、特需期から裏で動いていた」
裏で動いていた。その言い方を、カイルは記録した。オルデンがこう言う時、それは称賛だ。
ルッツが頭を下げた。動作は正確で、余分なものがなかった。
「殿下。お初にお目にかかります」
よく通る声だった。だが声量を抑えている。事務的な声。ただ——速い。文官にしては速い。喋りながら次に言うことを組み立てている男の速さだった。
三人は小応接室に入った。石の壁、小さな窓、卓と椅子が三つ。内輪の打ち合わせに使う部屋だ。
ルッツが鞄から紙の束を取り出し、卓の上に広げた。
数字の表だった。
縦軸に月、横軸に項目。精製所の稼働状況、原材料の在庫量、人員配置、月ごとの生産高。一年分が一枚に収まっている。字は小さいが整っていた。定規を当てた線。インクの滲みがない。急いで作った紙ではなかった。
「タルシス諸国連合で紛争が起き、レガリオンが介入した際、アストラードに魔素製品の発注が殺到しました。占領下にありながら、我が国の工場は昼夜を問わず動いた。あれが特需です」
ルッツは前置きを一文で済ませた。事務的な男の一文だった。
「特需期の国営工場は十二ヶ所です」
ルッツの指が紙の上を滑った。爪が短く切られている。
「そのうち、特需期に軍需発注を受けていたのが八ヶ所」
指が数字の列を辿った。
「特需が終わった今、この八ヶ所が止まっています。人は残っていますが、発注がない。炉は冷えたまま」
ルッツは紙の余白に短く書いた。特需反動——と。
「特需が作った仕事の習慣と、特需の終わりが作った空白。この二つが同時に来ている。我が国は今、経済という意味では、特需前より悪い。特需前は誰も仕事がなかった。今は、仕事があったことを知っている人間が、仕事を失っている」
ルッツは別の紙を引き出した。
「これに備えて、閣下は旧貴族家の財産接収を布告されました。接収金の運用は二分されます。半分は民間緊急支援——失業した工員への一時手当、戦災家屋の緊急修繕費、冬の食糧配給補助。残りの半分は、国営工場の維持と、民生転用可能な新製品の研究費」
「二分——」
「はい。ただし、お分かりの通り、接収できる家は有限です。目ぼしい旧貴族家は今年度中にほぼ接収が完了します。民間支援の一時予算は、来年度以降は急速に細ります。閣下は——その前に、新製品を民衆の手に届ける速度を上げたいと考えておられる」
カイルは紙を見た。接収金の配分の数字。民間支援の一時予算の規模。来年度の見込み。全てが、一つの時計の針のように並んでいた。一時予算が尽きる前に、新産業が民衆を支え始めなければならない。そのための時計だった。
カイルは数字を追った。読める。七年間、オルデンの傍で交渉の数字を見てきた。軍需由来の精製炉群の月間稼働率が、半年前の九割から今月はゼロ。人員は減っていない。つまり、工場の中に人がいて、炉が冷えていて、何も作っていない。
数字は読めた。
だが——ゼロ、という数字の前に立っている技術者の顔が見えなかった。冷えた炉の前で、何を見ているのか。何を待っているのか。数字の向こうにあるはずの景色が、紙の表面から先に進まない。
「この数字が——」
言いかけて、止めた。何を問おうとしたのか、自分でも掴みきれなかった。
ルッツが一瞬だけカイルを見た。値踏みではなかった。確認する目だった。
「殿下は数字を正確に読まれます」
事務的な声だった。
「ただ、数字の裏にある現場を、まだ見ておられない」
カイルは頷いた。否定する言葉は持っていなかった。
ルッツが紙をめくった。
「ここからが本題です」
工程表だった。時間軸に沿って、作業の流れが線で繋がれている。
「特需で軍需発注が入った時、私は閣下の密命で、製造ラインの半分を民生転用可能な構造で組みました」
カイルの指が紙の端で止まった。
軍需発注の裏側なら知っている。占領期の国営工場はレガリオンの監督下に置かれ、発注も供給先もレガリオンが管理していた。だがオルデンはその裏で、マルカ商人を経由して反レガリオン派にも魔素製品を流していた。非公式ルートの整備は、カイル自身がオルデンの指示で動いた仕事だった。
——だが、これは違う。商路ではない。製造ラインの構造そのものに手を入れていた。自分が帳簿と商路を扱っていた、その同じ時期に。
「軍需の発注を受けながら——」
「ええ」
ルッツの声は変わらなかった。
「精製炉の基本構造は、軍需でも民需でも変わりません。違うのは出力の調整機構と安全弁の設計だけです。安全弁を二系統にしました。一つは軍需仕様。もう一つは、将来民間に引き渡す時に使える設計です」
指が工程表の分岐点を示した。
「表の帳簿には載せずに組み込んだ」
淡々としていた。だが——カイルが知っていた裏の、さらに下にもう一枚あったということだ。オルデンは、カイルにすら見せない手札を持っていた。
「安全弁の二重化は品質管理として説明が立ちます。出力調整機構は設計図に載せていません。現場の組立工だけが知っている」
声は揺れなかった。
壁際のオルデンを見た。宰相は目を閉じていた。命じた者の姿勢だった。
「もう一つ」
ルッツが新しい紙を広げた。名前の一覧だった。十数名。専門分野と所在地が並んでいる。
「特需期に軍需の仕事を引き受けた技術者のうち、腕が確かで、かつ民生利用に理解のある者を選んであります」
一覧の先頭に名前があった。
ヴァレン・オーフリート。旧オーフリート家末裔。精製炉設計。
ルッツの指がその名前の横で止まった。
「ヴァレン先生は精製炉の内部構造を知り尽くしておられます。安全弁の二系統設計も先生の発想です。私はそれを工程に落とし込んだだけだ」
声の速さが落ちた。事務的な声の底に、別のものが一瞬だけ混じった。敬意だった。
「先生は戦前から、魔素の技術は民に開かれるべきだと考えておられた。戦時中は軍需を引き受けるほかなかった。だが裏では——ずっと民生への道を探っておられた」
カイルはルッツの声の変化を記録した。この男は数字と工程表で語る男だ。だが、技術を守ってきた人間に対しては声が変わる。
ルッツが帰った後、カイルは小応接室に残っていた。紙が卓の上に広げたままだった。
オルデンが戻ってきた。手に茶碗を二つ持っていた。
一つをカイルの前に置いた。
茶を淹れるのはカイルの役だった。七年間そうだった。今日、それが逆になっている。
高原の薬草の香りが湯気に混じった。
「どう見た」
「……数字は理解できました。ただ、ルッツが言った通りです。数字の裏が、私にはまだ見えていない」
オルデンは茶碗を持ち上げ、一口含んだ。
「見えなくて構わぬ。今はまだ」
間があった。窓の外で鳥が一声鳴いた。
「カイル」
宰相の声が変わった。低さは同じだった。だが五日前の「今は言えぬ」にはなかったものが混じっていた。扉を開ける声だった。
「竜人族の魔素運用技術は、軍事のために在るのではない」
カイルは顔を上げた。
竜人族は魔素の運用に最も優れた種族だった。精製も、行使も、放出も、他の種族では到達できない域にある。その力で大陸を支配した。域外民政局を置き、他種族の土地を管理し、竜人の角は強さの証だった。——それが竜人族の誇りだと、誰もが信じていた。
オルデンの目が開いていた。金色の目。百七十年を生きてきた目。その中に、七年間の傍仕えの中で一度も見たことのない光があった。信念と呼ぶには静かすぎた。だが確かに、そこにあった。
「民の暮らしのために在る。それが本来の姿だ」
声は大きくなかった。だが部屋の隅にまで届いていた。
「戦の前から、そう信じてきた。——誰にも言わなかった」
茶碗を卓に置いた。陶器が石に触れる小さな音。
「独立した今、実行に移す。技術を、民の手に渡す」
カイルの左手の親指が、薬指の付け根に触れていた。だが擦ってはいなかった。触れているだけだった。七年の癖が、今、止まっていた。
五日前に閉じられた扉の向こうに、これがあった。全てではないだろう。まだ見えない扉がある。だが今日、一枚が開いた。
夜、個人の記録の紙を広げた。
「ルッツ・ハルベルク。宰相府技術局。国営工場十二ヶ所の裏方。安全弁の二系統は、ヴァレン・オーフリートの設計」
「宰相の言葉——『民の暮らしのために在る。戦の前から信じてきた。誰にも言わなかった』」
筆を止めた。もう一行、書いた。
「裏方の男——ルッツ・ハルベルク。この男が見ている景色を、私はまだ見えていない」
【豆知識:精製所と粗魔素】
第二章の復興の鍵を握る施設が、魔素の精製所です。地脈から掘り出したばかりの「粗魔素」は不純物が多く、そのままでは形成工具にかけると炉を傷めます。
精製炉で不純物を沈殿させ、純度を段階的に上げ、加工や運搬のしやすい「精製魔素」に変える——それが精製所の仕事です。アストラードには国営工場が複数あり、占領下で民需転用可能な製造ラインがオルデンの手で密かに仕込まれていました。




