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第26話 王家の裏切り

翌朝、カイルは夜明け前に王宮を出た。


 懐に、三通の書状があった。体の左側で、静かに重かった。坂を下りながら、カイルは自分が宰相府ではなく、監督府の裏手に向かっていることを、意識していた。


 確定させてから、閣下に渡す。それが、信じると言ってくれた閣下への、自分なりの応答だった。そのためには、まず、具体的な名前と顔を確かめる必要があった。





 監督府の警備室に、リュセルがいた。若い人間族の書記官。一年前、カイルの翻訳書類に署名するために何度か顔を合わせた、顔見知り程度の関係。


 カイルは空いている応接室に通された。扉が閉まった。


「——実は、長兄セルヴァンのところに監督府の方が頻繁に通っている、と家の者から聞きました。どなたか、存じ上げているなら」


「公務の範囲のお話でしょうか」


「公務ではございません。私個人が、兄の動きを把握しておきたいだけでございます」


 リュセルは少し考えた。それから、小声で答えた。


「——文書官ラテール殿と、交渉団の書記官アルバン殿。ラテール殿がアルバン殿を仲介しております。ここ半年、ほぼ毎日、セルヴァン殿下のところに書類を届けに。本国の元老院印の押された封書でございます」


 カイルの息が、一瞬、止まった。


 ——アルバン。第一回の交渉でオルデンの耳に「国内には完全独立を求める声がある」と囁いた、あの若い書記官。本国元老院の財政派。副室長の筋。


「ありがとうございます、リュセル殿。——この話は、私の記憶にだけ留めます」


 カイルは頭を下げた。





 監督府を出て、王宮の東庭に向かった。


 薔薇の囲いの奥、東屋。二年半以上前、セルヴァンが「二ヶ月後に来い」と言った場所。カイルはその言葉を、引き出しの奥にしまって開けなかった。今日、自分から開けに来た。


 薔薇の囲いを抜けた時、東屋にセルヴァンがいた。一人で、果実酒の杯を手にしていた。カイルが近づくと、顔を上げた。


 そして、笑った。


 カイルの背筋に、冷たいものが走った。リーネが言っていた通りの笑い方——何かいいことがあった時の、昔の兄の笑い方。


「——末弟」


 セルヴァンが杯を置いた。


「来たか。——お前が来なかった二年半以上の間、私はずっと、この東屋で待っていた」


「……兄上」


「座れ。酒はいるか」


「結構です」


 カイルは席に着いた。セルヴァンがじっと見つめてきた。


「——お前は、一度も来なかったな、末弟」


 声に責める色はなかった。ただ、事実を確認する声。


 ——お前が来なかった瞬間に、お前はオルデンの側だと確定した。セルヴァンが言いたいのはそれだった。二ヶ月後の約束は、最後の試験だった。カイルが失敗したから、セルヴァンは独自に動き始めた。この一年半の全ての動き——副室長との結託、アルバンを通じた交渉内部への潜り込み、文化交流使節の席——全てが、カイルが東庭に来なかった結果として起きていた。


「……兄上」


「いいのだ。お前は賢い子だ。宰相殿に仕えるべきだと、お前自身が判断したのだろう。私はそれを責めない。——しかし、お前が来なかった分、私は自分で動くことになった。それだけのことだ」


「……兄上は、何をなさっておられるのですか」


 セルヴァンは少しの間、黙った。それから、微笑んだ。


「——お前に、良い知らせを伝えようと思っていた」


「……良い知らせ」


 セルヴァンが、ゆっくりと杯を置いた。


「——末弟、副室長殿から、お前のところにも書状が届いているはずだ。宰相府の要職と、本国元老院での分析官の席。両国に跨る立場として、お前を据えるという話。——そうだな?」


 カイルは答えなかった。しかし、否定もしなかった。セルヴァンの目が、カイルの沈黙を肯定として読み取った。


「それが、副室長殿の最初の話だ。私のところにも、同じ頃に書状が来た。私の場合は、文化交流使節としての本国元老院への招待と、独立後のアストラードで儀礼的な立場を持つことについて。——あの方は、竜人族の出身者を、両国に跨る形で自分の情報網に組み込もうとしておられる。兄弟二人に、それぞれ両国に跨る席を用意する。それが、あの方の設計の基本だった」


 セルヴァンが微笑んだ。


「しかし、私はそれを聞いた時、もっと大きな絵が描けると考えた」


 カイルの親指が、薬指の付け根を擦った。


「——私は副室長殿に、一つの条件を持ちかけた。『末弟を、単なる宰相府の要職ではなく、オルデン殿の後継として宰相の椅子に据えてほしい』と。副室長殿にとって、その違いは大きな問題ではない。宰相府の要職であれ、宰相の椅子であれ、末弟が両国に跨る立場を持てば、あの方の情報網は機能する。むしろ宰相の椅子の方が、情報の質は高くなる。副室長殿は、私の提案を受け入れてくださった」


 セルヴァンが身を乗り出した。


「——末弟。分かるか。この変更で、絵が完成する。私が王家の名義上の元首として立ち、お前がオルデン殿の後継として宰相の椅子に座れば——王家は、戦前の姿を取り戻す。象徴としての王位は兄が、実務の政治は弟が。二つの柱が、両方とも王家の手の中にある。父上の時代と同じだ。いや——父上の時代よりも、純粋に『王家の時代』になる。あの頃はまだ、旧貴族の勢力や、宰相府の独立性が王家を牽制していた。しかし独立後は、オルデン殿の『全権委任』の名残として、宰相府に権力が集中する。その宰相府を、我ら兄弟が引き継ぐ。——王家の復権は、名義上ではない。実質上の復権だ」


 カイルの中で、何かが音を立てて動いた。——確かに、その通りだった。セルヴァンの言葉には、嘘がなかった。構図を整理すれば、完全にその通りだった。副室長の基本設計(両国に跨る駒二人)は、それ自体としては王家の復権を意図したものではなかった。しかしセルヴァンが「末弟を具体的に宰相の椅子に」という一点を加えただけで、絵の意味が変わった。オルデンの七年間の仕掛けが築き上げた「宰相府の権力」は、そのまま次の宰相に引き継がれる。その次の宰相が王家の者であれば——王家は、形を変えて、戦前以上の権力を得る。


「副室長殿の筋で、本国元老院に圧力がかかっている。独立交渉の条件の中に、『王家の名義上の復権』が盛り込まれる見込みだ。そして、お前の宰相ご就任を支持する動きもある。——独立後のアストラードにおいて、本国元老院の支持は、宰相の正統性を決める一つの柱になる。副室長殿は、その柱を、お前のために用意してくださる」


 セルヴァンが杯に触れた。


「——兄弟二人で、王家を取り戻す。私は象徴として、お前は実権として。戦前の父上の時代を超えて、独立後の新しいアストラードを、我々自身の手で作り上げる。——宰相府の七年間の仕掛けは、そのまま我々の資産になる。オルデン殿が築いたものを、我々が受け継ぐ」


 セルヴァンの声は穏やかだった。


「——だろう?」


 カイルは答えなかった。


 セルヴァンの目が、少しだけ柔らかくなった。


「私はな——お前を恨んではいない。昔から、お前は『書く者』だった。末弟として、記録係として、寡黙に生きてきた。しかし、お前には、もっと大きな場所がある。——急いで答えなくていい。ただ、この東屋で、私がお前を待っていた時間を、無駄にしないでほしい。私はお前の兄だ。兄として、お前の未来を考えている。——それだけは、信じてほしい」


 カイルは立ち上がった。


「……兄上。——お話をお聞かせいただき、ありがとうございます」


 セルヴァンは少し寂しそうに笑った。


「——考えておけ。私は、お前の答えを待っている」





 カイルは東庭を出て、王宮の回廊を歩いた。


 歩きながら、体の中で何かが激しく揺れていた。セルヴァンの微笑み。昔の、家族がまだ揃っていた頃の笑い方。全てが、カイルの記憶の柔らかい部分を撫でていた。


 カイルは石柱に手を置いた。息を整えた。


 ——自分は、宰相の席が欲しいのか。


 答えは、意外なほど早く出た。欲しくない。自分は記録する者でありたい。判断する者になることは、オルデンに強いられて、少しずつそうなってきただけだった。宰相の席は、自分の最奥の望みからすれば、距離の遠いものだった。


 それなら、なぜ、こんなに揺れているのか。


 ——兄たちだった。


 イルヴァン。処刑されて死んだ三兄。「戦争は外交の失敗だ」と言った兄。レイグ。殿軍で死んだ次兄。「カイル」と名前で呼んだ兄。その兄たちが死んで、王家は壊れた。父王は表に立てなくなり、長兄は身の安全を保つために動き、姉は沈黙し、自分とリーネだけが王宮の隅に残った。


 セルヴァンの提案は、その壊れた王家を取り戻す機会だった。自分がその席に座ることは、兄たちが守ろうとしたものの、形を変えた復活のように見えた。


 ——兄たちのために、自分が望まない椅子に座るべきではないのか。


 義務の問いだった。


 カイルは石柱に額を押し当てた。


 長い間、動かなかった。


 やがて、顔を上げた。


 ——副室長の計画が実現しても、アストラードの独立の形は変わらない。軍事同盟、基地残留、地脈共同管理——外向きの条件は、閣下の案と全く同じだ。変わるのは、誰がその下で国を運営するか、だけだった。


 閣下の道では、七年間の仕掛けが国民に向かう。下市街の子供たち、工房の職人たち、角を隠した老婆たち、バルトの家の干し果物、ヨアンの残した痛み——あの人たちに流れていく。


 副室長の計画では、同じ仕掛けの行き先が、王家の栄誉と副室長の派閥に付け替えられる。国民のものが、別の場所に回収されるだけの話だった。


 兄たちは、それを望むか。


 イルヴァンは国と民のために働いた。レイグは戦友のために死んだ。どちらも、王家の栄誉を求める人ではなかった。民を犠牲にして家を飾ることを、選ばない人だった。


 兄たちが死んだ後、王家が壊れたのは事実だ。しかし、兄たちは「壊れた王家を取り戻せ」と言って死んだのではない。民のために生き、民のために死んだ。王家の復権は——兄たちの死の代償として、自分が「正当化してしまえる」ものだった。「兄のために」という言葉で、自分の迷いを封じ込めることが、できるものだった。


 しかし、それは、自分の弱さだった。


 兄たちの死を、自分の選択の免罪符にすることは、兄たちを二度使うことだった。一度目は王家の犠牲として。二度目は、自分が王家に戻るための理由として。


 ——兄たちは、私がこの椅子に座ることを望まない。いや、もっと正確に言うなら——兄たちの名前を、自分の選択の言い訳に使うことを、望まない。


 カイルの中で、答えが固まった。


 固まった瞬間、体の中の揺れが止まった。





 宰相府に戻り、カイルはオルデンの執務室に直行した。


 扉を開けた。オルデンが地図から顔を上げた。


「——カイル。どうした」


「閣下。お前に委ねられた、王家の内側の領域について、ご報告申し上げます」


 オルデンの顎が、微かに動いた。席を勧めた。カイルは座った。卓の上には、二つの茶碗。


 カイルは懐から三通の書状を取り出し、机の上に並べた。


「副室長から届いた、三通の書状でございます」


 オルデンの目が、書状を見た。


「——一通目は去年の秋。曖昧な誘い。二通目は、閣下がお前に王家の内側を委ねると仰った夜に届きました。そして三通目が、昨夜。——ここに、全てがございます」


 カイルは二通目の書状を指した。


「閣下。まず、お詫びしなければならないことがございます。二通目の時点で、副室長は『本国元老院の中には、末王子殿下が宰相府の要職を担われることを期待する声がございます』と書いておりました。——この一文を、私は、あの朝、閣下にお伝えしませんでした」


 カイルは顔を上げた。オルデンの目を見た。


「『要職』という曖昧な言葉の中に、閣下のご引退の予感が含まれている——そう感じたからでございます。二つ目の茶碗を差し出してくださった朝に、その予感を渡すことが、できませんでした。——しかし、それが正しい判断だったかどうか、今の私には分かりません。委ねられた領域の内側での独立した判断だったのか、それとも、自分の躊躇を『責任』という言葉で隠しただけなのか。——その両方かもしれません」


 オルデンは黙って聞いていた。


「三通目が昨夜届き、リーネの情報と合わせて、副室長の設計の輪郭が見えました。今朝、監督府でラテールとアルバンの名前を確認し、東庭でセルヴァン兄上から全容を確認いたしました」


 カイルは一呼吸置いた。


「——副室長の基本設計は、兄上と私を両国に跨る駒として配置することでございました。しかし兄上は、副室長に一点の変更を持ちかけておられました。『末弟を、宰相府の要職ではなく、オルデン殿の後継として宰相の椅子に据えてほしい』と。副室長はそれを受け入れたそうでございます」


 オルデンの目が、わずかに細くなった。


「この一点の変更で、絵が完成いたします。——兄上が名義上の王位に就き、私が宰相の椅子に座れば、王家は戦前の姿を取り戻す。対外的な独立の条件は、閣下の案と全く変わりません。軍事同盟も、基地残留も、地脈共同管理も、同じでございます。変わるのは——誰がその下で国を運営するか、だけでございます。閣下の七年間の仕掛けの行き先が、国民から、王家と副室長の派閥に付け替えられる——それが、副室長と兄上の絵でございました」


 カイルはオルデンをまっすぐに見た。


「私は、この計画を受けません」


「……理由を」


「宰相の席そのものが欲しかったのではございません。私は、今も、記録する者でありたい。しかし、兄上の提案は——戦前の王家を取り戻す絵でございました。私が椅子に座れば、死んだ兄たち——イルヴァン殿下とレイグ殿下——が守ろうとしていたものの、形を変えた復活のように見えました。一瞬、そう見えたのでございます」


 カイルの親指が、薬指の付け根を擦った。


「——しかし、兄たちは、王家の栄誉を求める人ではございませんでした。イルヴァン殿下は国と民のために働かれ、レイグ殿下は戦友のために死なれました。お二人が守ろうとしていたのは、王家ではなく、民でございました。——私が副室長の推薦で宰相になることは、閣下への裏切りであると同時に、兄たちの本当の望みを裏切ることでもございます。そして、兄たちの死を、自分が王家に戻るための道徳的な言い訳として使うことになります。兄たちを、二度使うことになります。——それだけは、できません」


 オルデンは長い間、動かなかった。


 やがて、小さく頷いた。


「……来たか」


 それだけだった。


 しかしカイルは、その短い言葉の中にある全てを読み取った。オルデンは、セルヴァン殿下が最後に何かを仕掛けることを予想していた。形までは見えていなかった。見えるのはカイル一人だった。そして今、カイルが形を確定させ、判断を下して、ここに報告に来た。


 閣下が「信じる」と言ってくれた言葉の、受け取る側としての最初の仕事。それが、今、終わった。


 オルデンは茶碗を持ち上げた。一口飲んだ。置いた。


「焼け」


 オルデンが立ち上がり、卓の上の燭台を手元に寄せた。火をつけた。


 カイルは一通目を取った。封蝋を剥がし、火にかざした。紙が焦げ、黒い縁が広がった。暖炉に投じた。


 二通目。同じ動作。


 三通目——「兄弟二人」の書状。一瞬、手が止まった。止まった自分の手を意識してから、火にかざした。燃え始めた書状を、暖炉に投じた。


 三通の書状は、暖炉の中で灰になった。


 オルデンは黙って見ていた。燃え終わってから、言った。


「——セルヴァン殿下の件は、私が処理する。お前はもう、東庭に行くな。お前の役目は、ここまでだ」


「……はい」


「しかし、一つだけ、お前に聞きたいことがある」


 オルデンがカイルを見た。


「——お前は、セルヴァン殿下を売ったな。イルヴァン殿下を売った兄を、今度はお前が売った。その対称に、お前は気づいているか」


 カイルの足が、一瞬、床に吸い付いた。


 七年前の、イルヴァンの処刑の朝。セルヴァンがイルヴァンを売ったと疑われた朝。カイルはその疑惑を、内面でだけ抱え続けていた。そして今日、自分の口でセルヴァンを売った。対称が、完全に一致する形で繰り返された。


「……はい」


「気づきながら、売ったのだな」


「……はい」


 オルデンは長い間、カイルを見た。


 それから、茶碗を持ち上げた。カイルの分の茶を、もう一度淹れ直した。新しい湯。新しい葉。湯気が立った。


 カイルの前に茶碗を置いた。


「……ご苦労」


 それだけ言った。


 しかし、その「ご苦労」の中に、カイルは初めて、感謝に似たものを感じた。感謝ではない。労いでもない。ただ、自分がオルデンの隣で、同じ重さの判断を一つ引き受けた、という事実への——静かな肯定。


 カイルは茶碗を両手で包んだ。温かい。一口飲んだ。苦い薬草の味。しかし、いつもの苦さの奥に、別の何かがあった。


 名前はまだ、つけられなかった。

【豆知識:長兄セルヴァン】


王太子セルヴァン(150歳)は、王家の実質的当主として振る舞いつつ、占領軍に迎合することで自らの地位を保とうとしています。敗戦直後から各国の要人との繋がりを独自に築いており、宰相オルデンと並行する形で政治工作を進めてきました。

王宮内でも街でも、角を布で隠さない日があります。監督府が彼には何も言わないことを、本人が知っているからです。兄弟たちの処刑・排除を生き延び、王家の中で独立した権力構造を形成しつつある——カイルにとっても警戒対象の長兄です。

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