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第25話 水面下の設計

交渉の第二ラウンドが終わった翌朝、アストラードは静けさに包まれていた。


 次の会合は三日後。本国元老院も決断の時が近づいているという外交官の言葉のまま、短い間隔が設定された。それまでの間、交渉の現場で動く事柄はない。


 カイルは自室の引き出しを開けた。副室長からの二通の密書が、並んで仕舞われていた。二通目を広げる。何度目かの読み直し。文面は頭の中に刻み込まれている。それでも、もう一度、文字の一つ一つを追った。


 「本国元老院の中には、末王子殿下が宰相府の要職を担われることを期待する声がございます」


 この一文を、閣下には伝えていない。


 「要職」という曖昧な言葉。その中に、閣下のご引退を前提とした未来の形が、透けている。あの朝、二つ目の茶碗を差し出してくれた閣下に、その予感を渡すことが、できなかった。


 ——お前が、私の代わりに見ろ。


 委ねられた責任。委ねられたということは、自分で判断していい、ということだった。閣下から見えない領域で、自分は、いつ何を報告するかを、自分で決めていい。その権限を、自分は今、使っていた。


 使いながら——それが権限の正しい行使なのか、ただの怯えなのか、カイルには区別がつかなかった。


 書状を引き出しに戻した。閉じた。





 夕刻、王宮の階段の下で、リーネが待っていた。


 末妹の顔に、いつもと違う色があった。


「カイル兄。——今日、セルヴァン兄上のところに、知らない人が三人来てたの」


「……どんな人だ」


「本国の人じゃないと思う。長い袖の、見たことない模様の入った服。東の方の国みたい。ずっと前、お父様がお元気だった頃、東の国の使者が来たことがあって——あの時の服に、少し似てた」


 カイルは階段の途中で止まった。


「兄上は、その三人と長い時間話してた。声が——楽しそうだった。大きな計画を話してる時の、昔の声」


 リーネの目が、カイルを見上げていた。不安と、興味と、何かを察する賢さが、混ざっていた。


「リーネ。——今日のことは、誰にも話すな」


「うん」


 リーネは頷いた。それ以上は何も聞かなかった。末妹は、カイルが思っているより、ずっと多くのことを理解していた。


 カイルは階段を上った。足が重かった。





 自室に戻り、扉を閉めた。


 机の上に、新しい封書が置かれていた。


 カイルの背筋が冷たくなった。見覚えのある封蝋。レガリオン本国元老院戦後統治検分室の紋章。——通算で三通目だった。


 封蝋を割った。レガリオン語の、短い文面。


 「末王子殿下。独立交渉の進展を、遠くから拝見しております。——先日、あなたの長兄殿下にも、新たな書状を差し上げました。王家の名義上の復権の支持と、文化交流使節としての正式なご招待でございます。末王子殿下のお立場と併せて、兄弟それぞれが、独立後のアストラードと本国元老院の両方に足場を持たれることが、両国の未来のために、最も安定した形になると、私どもは考えております。兄弟二人、ご一緒できる日を、心待ちにしております。——副室長より」


 カイルの息が止まった。


 ——兄弟二人。


 ——王家の名義上の復権の支持。


 文字が、頭の中で、一気に線を引いた。


 リーネが見た「知らない服の三人」——東の国の使者。副室長が自分の筋で動かせる人脈。セルヴァンの楽しそうな声。書状の「支持」という言葉。そして、自分の手元に届いた二通目の「宰相府の要職」。


 全部が、一つの絵に収まった。


 副室長は、自分を、アストラードと本国の両方に足場を持つ駒として据えようとしている。セルヴァンにも同じ構造——儀礼的な立場と、文化交流使節。二人の竜人族が、両国に跨る副室長の情報源になる。それが副室長の基本設計だった。


 そしてセルヴァンは、その基本設計の上に、一つの絵を重ねている。


 「支持」という言葉が、カイルの目に焼き付いた。副室長が自発的に王家の復権を言い出したのではない。「支持」するためには、誰かが先に「こうしたい」と言い出している必要がある。セルヴァン本人が、副室長に持ちかけたのだ。——「王家の名義上の復権」を。「兄弟二人」を。


 副室長の書状には「宰相府の要職」としか書かれていない。しかし、セルヴァンの頭の中では、それは「宰相の椅子」として具体化されているはずだった。兄が象徴としての王位を取り、弟が閣下の後継として実権を継ぐ。兄弟二人の手で、王家が戦前の姿を取り戻す——それが、セルヴァンの描いている絵。


 ——戦前の姿。


 その一語が、カイルの体の奥で、静かに弾けた。


 王宮の南の回廊。朝の光が白い石畳に斜めに落ちていた頃。父王ヴェルディンが玉座に座り、謁見の合間にカイルの頭に大きな掌を置いて、一言だけ「励め」と言った日の光景。その手は温かかった。言葉は素っ気なかった。しかし、温かかった。


 次兄レイグが駐屯地から戻ってくる日の朝。厨房に駆け込み、料理長に「飯だ」と大声で叫ぶ声。使用人たちが笑い、料理長が「殿下、まずは風呂です」と呆れながらも嬉しそうに言う声。カイルは回廊の陰から、その声を聞いていた。レイグが廊下に出て、カイルを見つけると「カイル」と名前で呼んだ。序列ではなく、ただの名前として。そして、カイルの肩に手を置いた。大きな、熱い、武人の掌。


 三兄イルヴァンが各国から帰ってきた日の夕方。書庫で地図を広げて、「次はマルカに行く」と言った声。カイルが「どうして?」と聞くと、イルヴァンは笑って、「戦争を止めるためだ。戦争は外交の失敗だから、失敗する前に直しに行く」と言った。その言葉の意味は、当時のカイルには分からなかった。ただ、兄の笑顔が記憶に残った。


 長兄セルヴァン——あの頃はまだ、ただの「お兄様」だった時期。東庭の薔薇の下で、幼いリーネを肩に乗せて歩いていた姿。リーネが笑っていた。セルヴァンの笑い声も、まだ、計算のない笑い声だった。


 そして、王宮の外。


 上市街の広場で、朝、竜人の職人たちが自分の店の前で挨拶を交わしていた。「おはよう」の声が、高原の空に響いていた。角を隠した者は、一人もいなかった。誰もが、自分の角を誇りのまま、朝の光の中に晒していた。


 下市街の石畳。子供たちが走り回り、母親たちが井戸端で水を汲み、老人たちが日向で語り合っていた。井戸端の老婆の一人が、カイルが通りかかると頭を下げた。カイルは「六番目の殿下」と呼ばれていたが、その呼び方にも、侮蔑はなかった。ただ、序列の事実としてそう呼ばれていた。


 竜牙衛の兵士たち。朝の演習で、地脈から引いた光を手に纏い、整列していた姿。レイグが先頭に立ち、声を張り上げていた。兵たちの角が、朝日に光っていた。誰もが、まだ——誇りを持っていた。後に「傲慢」と呼ばれることになる、あの誇りを。負ける前の、疑いのない、真っ直ぐな誇りを。


 あの頃のカイルは、何者でもなかった。王家の末席の、除け者の、小さな角の末王子。名前を呼ぶ兄は二人だけ。父はカイルに関心を向けなかった。使用人は血への敬意で接した。カイルは王宮の装飾品の一つに過ぎないと、自分で感じていた。


 ——しかし、幸せだった。


 名前がなくても、役割がなくても、除け者であっても、カイルはあの王宮の中で、兄たちの声を聞き、父の掌の温もりを知り、上市街の朝の挨拶を聞き、下市街の子供たちの走る音を聞いて、生きていた。それは、幸せだった。自分が幸せだったということに、今、初めて気づいた。気づいた瞬間、胸の奥の何かが、軋む音を立てた。


 ——セルヴァンの絵は、それを取り戻す絵だった。


 戦前の王家の姿。兄たちの声。父の掌。竜牙衛の兵たちの整列。上市街の朝の挨拶。下市街の子供たち。あの全部が、もう一度、息を吹き返す絵。カイルが宰相の椅子に座れば、その絵の中心に、自分が立つことになる。あの頃を取り戻した世界の、中心に。


 ——取り戻したい、と、カイルの体の奥が、一瞬だけ、答えた。


 体の奥からの答えに、カイルは息を呑んだ。答えたのは思考ではなかった。もっと深いところだった。名前のない、深いところから、ただ一つの言葉が湧き上がった。——取り戻したい。あの頃を。兄たちの声を。父の掌を。上市街の朝の挨拶を。自分が「六番目の殿下」と呼ばれて、除け者のまま、幸せだったあの頃を。


 カイルは封書を机に置いた。手が震えていた。震えを止めることもできなかった。


 閣下は、この形を知らない。


 閣下の七年間の仕掛けは、外の世界を動かすためのものだった。外交官、財政派、情報戦、特需——その全てが、オルデンの網の中にあった。しかし、王家の内側——セルヴァンの気まぐれの計算——だけは、閣下の網の外にあった。だから閣下は、それを自分に委ねた。


 委ねられた領域の、まさに核心が、今、自分の手の中にあった。


 ——しかし、これはまだ推測だ。


 カイルは自分に言い聞かせた。副室長の書状には「宰相府の要職」としか書かれていない。セルヴァンが宰相の椅子を持ちかけたというのは、自分の推理に過ぎない。確定していない情報を、閣下に渡すわけにはいかない。閣下の「信じる」という言葉を、曖昧な材料で消費するわけにはいかない。


 確定させるのは、自分の仕事だった。


 ——明日。


 明日の朝、監督府に行く。書記官リュセルから、セルヴァンのところに通っている人間の名前を確認する。そして、東庭に向かう。二年半以上前の約束を、やっと果たしに行く。セルヴァン本人の口から、全容を聞く。その上で、宰相府に戻り、閣下に全てを報告する。


 順序を、カイルは自分の中で決めた。


 引き出しから一通目を取り出した。三通を机の上に並べた。一通目、二通目、三通目。副室長が段階的にカイルの中に蒔いた種の、三つの形。


 カイルは三通を重ねて、懐に入れた。明日、これを持って動く。





 その夜、カイルは眠れなかった。


 天井の影を見ていた。明日、自分は動く日だった。明日の夜には、全てが終わっている。どの方向に終わっているかは、まだ分からない。


 目を閉じた。懐の中の三通の書状の感触が、体の左側で、静かに重かった。

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