第24話 防波堤の証明
次の交渉までの半月、カイルとオルデンは宰相府に詰めていた。
大陸地図と、コヴァルドの軍事配置の最新情報と、タルシス紛争の戦況報告と、特需の数字と、独自に集めた各国の有力者の動向——それらを全て並べ、交渉の第二ラウンドで使う手札を整えた。エテルネアの学術院から密使で届いた報告書もあった。副室長が関与していない、純粋に学術的な見解だと、オルデンは判断した。
三日目、カイルは下市街に向かった。バルトに会うために。
工房街の外れ、石工の集まる路地の奥。バルトはそこで暮らしていた。繕われた服。石の粉。家の中は狭いが、整頓されていた。バルトの妻は買い物に出ていた。娘は隣の家の子供たちと遊んでいた。
「——小僧か」
バルトは奥の部屋から出てきた。太い声は変わっていない。しかし、少し痩せたように見えた。
「お元気そうで」
「元気なもんか。——独立の話が、本当に動き出したんだな」
「はい」
「宰相は、レガリオンの庇護の下での独立を選ぶんだろう。軍事同盟と基地残留と引き換えの独立だ」
「……はい」
バルトが卓に着いた。椅子を一つ、カイルに勧めた。カイルは座った。
「お前が、あの夜、壇の下から話した言葉は——俺の頭から離れねえ。『独立は目的じゃない、手段だ』。——理屈としちゃ、正しい。俺もそう思う」
「……バルト殿」
「だが、街の連中はそう思ってねえ。あの夜、俺が退けと言ったから、退いた。しかし退いた後も、連中の頭には『完全独立』が残ってる。レガリオン主導の軍事同盟を呑まされる独立は、独立じゃねえ。本当の独立は、どの国の言いなりにもならない独立だ——連中はそう言ってる」
「それは——バルト殿自身のお考えですか」
バルトは少し黙った。
「俺の考えかと聞かれれば——そうだとも言えるし、違うとも言える。俺は『完全独立』がいいとは思ってる。しかし、それが実現するかどうか、俺には分からねえ。宰相ほどの読みはねえ。——俺にできるのは、連中の前に立って、連中の声を受け止めることだけだ。連中が求めるから、俺は壇上に立つ。連中が降りろと言えば、降りる。それだけだ」
カイルは気づいた。バルトは、「自分の意志で動いている」のではなかった。民衆の声に押し上げられて、象徴として立っている。降りようと思えば降りられるが、降りる口実がない。あの蜂起の夜、退けの声を上げた時、バルトは一度降りた。しかし、民衆がもう一度担ぎ上げた。別の旗を——「多国間保証の完全独立」という旗を——持たせて。
「バルト殿。——その旗は、誰が持ってきたのですか」
バルトの目が少し動いた。
「……連中の中の、誰かだ。俺には具体的な名前は分からねえ。何人かの『偉い人たち』が、連中の中の顔役に囁いている、という話は聞いた。コヴァルドの使節だとか、マルカの商人だとか、エテルネアの学者だとか。——全員かもしれないし、一人だけかもしれない。しかし、複数の声が、同じことを言ってる。『完全独立なら、多国間の保証が得られる』と」
「それを、バルト殿は信じていますか」
バルトは答えなかった。
長い沈黙があった。
それから、バルトは小さく首を振った。
「——信じちゃいねえ。しかし、信じるかどうかの問題じゃねえんだ。連中が信じている以上、俺はその旗の下に立つしかねえ。俺が降りれば、別の誰かが担ぎ上げられる。その誰かは、俺よりも無鉄砲な男だろう。俺が立っている限り、暴発は止められる。——それが、俺に残された最後の役目だ」
カイルは理解した。
バルトは「最後の意地」を張っていた。民衆の声を受け止め、暴発を止めるために、象徴のまま立ち続ける。それは英雄的な行為ではなかった。しかし、他に方法がなかった。バルトにとって、降りることは「後継者に暴発を許すこと」だった。降りられないのだ。
「バルト殿。——お疲れ様でございます」
カイルは頭を下げた。
「やめろ、小僧」
バルトは笑った。疲れた笑いだった。
「俺は疲れてない。ただ、不器用なだけだ。——お前は宰相府に戻れ。ここまで来てくれたのでもう十分だ」
カイルは席を立った。扉の前で振り返った。
「バルト殿。——もう一つだけ、お聞きしてもよろしいですか」
「何だ」
「その『偉い人たち』の中に——本国の人間はいますか」
バルトが少しの間、カイルを見た。それから答えた。
「——俺が聞いた限り、いねえ。全員、本国以外の、他国の人間だ。しかし、それが本当かどうかは、分からねえ。使者は使者に過ぎない。使者の背後に誰がいるかは、俺には読めねえ」
宰相府に戻って、カイルはオルデンに報告した。
バルトの状態。民衆に囁いている「偉い人たち」が複数の他国からの使者だということ。バルトはそれを信じていないこと。しかし、象徴として立ち続けなければならないこと。
オルデンは黙って聞いた。聞き終えてから、小さく頷いた。
「——バルトは、正しく立っている。しかし、その立ち方は、民衆の声の温度を下げない。完全独立の案を、物理的に崩す必要がある」
「物理的に、とは」
「各国が本当に保証を提供するか、実際に確認する。コヴァルドに使節を送る。エテルネアに密書を送る。マルカの長老会議に商人を通じて問い合わせる。——全てから『保証はしない』という回答を得る。その回答を、交渉の場で使う。多国間保証は理論上も現実上も不可能だ、と証明する。そうして初めて、民衆の声は止まる」
「……それは、今、急いでできることでしょうか」
「今、できることだ。宰相府の七年間の『仕掛け』の全てを使う。エテルネア経由の情報戦も、マルカの商人との関係も、コヴァルドへの密使のルートも——全て、この半月で、完全独立の案の不可能性を証明するために使う」
オルデンが茶を淹れた。二つの茶碗に。
「——お前は、別の仕事をしろ」
「何を」
「これから半月、王家の内側の動きを注視しろ。セルヴァン殿下の周囲が、どう動き始めているか。気づいたことがあれば、自分の中でまとめておけ」
「……はい」
交渉の第二ラウンドは、予定通り半月後に行われた。
本国の外交官、アルマン、書記官二名。前回と同じ顔ぶれ。オルデンとカイルも同じ席。
外交官が開口一番、言った。
「——宰相閣下。前回の議論を本国に持ち帰り、元老院で審議いたしました。結論は、独立の方向性は認められる、でございます」
オルデンは無表情で頷いた。
「しかし——条件がございます。まず、治安維持のため、レガリオン軍の一部基地を、独立後も残留させる。次に、軍事同盟を締結し、両国の安全保障を共通化する。そして——」
外交官が言葉を切った。
「——地脈へのアクセスを、独立後も継続する。共同管理の形で。詳細は、これから詰めてまいりたい」
オルデンはすぐには答えなかった。茶碗を持ち上げた。一口飲んだ。置いた。
「——承知いたしました。その方向で、詳細を詰めてまいりましょう。ただし、一つだけ、先に申し上げたい論点がございます」
「何でしょうか」
「——独立の方向性と交渉の条件について、本国の判断は一つに絞られているのでしょうか。あるいは、別の『物語』も、本国には届いているのでしょうか」
外交官の顔が、一瞬だけ硬くなった。
「——別の物語、とは」
「民衆の中に、『多国間保証による完全独立』という声があると伺っております。前回、書記官殿が、最後に私に囁いておられましたが——あの声が実現しうるものかどうか、各国の立場を改めて確認いたしました」
オルデンが書状の束を取り出した。三つの封蝋。異なる紋章。
「——エテルネア学術院からの、正式な見解でございます。『学術国家であるエテルネアは、政治的・軍事的な保証を提供する国力を持たない。学術的な支持は表明できるが、それ以上の保証はできない』」
オルデンが二つ目の書状を卓に置いた。
「——マルカの商人ウヴォル家からの回答でございます。『商業上の中立支持は可能であるが、政治的な保証は商人の業務範囲外である。長老会議を動かす力は、商人にはない』」
オルデンが三つ目の書状を置いた。
「——そして、コヴァルドでございます。公式の議事録を、こちらから直接取り寄せることはできません。敵対国同士ですから。しかし、先月、コヴァルドの外交官個人の見解として、以下の伝言を受け取っております。『アストラードの中立化は、コヴァルドの国益に反する。コヴァルドは、アストラードが南方のレガリオン陣営と我らの間の緩衝地帯として存在することを望む。中立化を保証すれば、緩衝地帯は消え、我らとレガリオンは直接対峙することになる。保証はしない』」
アルマンの眉が動いた。本国の外交官も、書記官と目を合わせた。
オルデンが三つの書状を並べた。
「——全ての国が、アストラードの『多国間保証による完全独立』に対して、保証を提供しないと申しております。民衆の中にある声は、残念ながら、実体のない理想でございます」
外交官が沈黙した。それから、少しだけ笑った。苦笑に近い笑いだった。
「——宰相閣下。あなたは、前回の交渉と今回の間、半月で、これだけの調査をされたのですか」
「左様でございます」
「……恐れ入りました」
外交官が書記官に目配せした。書記官が綴じ本を受け取った。読み始めた。
交渉は、その日の夕刻まで続いた。
コヴァルドに対する「防波堤」としてのアストラードの価値。エテルネア経由で収集してきた情報戦の成果。タルシス紛争での魔素製品特需の数字——降伏条件執行時に密かに名簿を作って守った技術者、方針転換後に社会復帰させた人材、紛争勃発後の特需——全てがその日の交渉に注ぎ込まれた。
終わる頃には、外交官の姿勢が変わっていた。
「——宰相閣下。本日の内容を、再度本国に持ち帰ります。次回の会合は、三日後といたしましょう。——本国元老院も、決断の時が近づいております」
交渉団が去った。大広間に静寂が戻った。
オルデンは椅子に座ったまま、動かなかった。カイルも動かなかった。
しばらくしてから、アルマンが戻ってきた。交渉団の随員の中に紛れて出ていったが、一人だけ引き返してきた。扉を閉めた。
「——宰相殿」
アルマンの声はいつもより低かった。
「先ほどの交渉で、——私は、初めて『独立させるべきかもしれない』と思った」
オルデンが顔を上げた。
「——執政官閣下」
「七年間、私は『文明化の使命』の下で、この国の統治にあたってきた。その使命は、もう——完了に近づいている、と思っていた。しかし先ほど、あなたが七年分の記録と、三つの国の回答書を並べた時、私は気づいた。——この国は、我々が『変えた』のではない。この国が、自分の意志で、次の段階に進もうとしている。我々は、もうその段階に介入するべきではない」
オルデンは深く頭を下げた。
「——執政官閣下。ありがとうございます」
アルマンは立ち去る前に、一度、カイルを見た。
「——若い王子。君の安定報告書を、読ませてもらった。見事だった。——最後まで、君は慎重だった。慎重さが、この国の独立を支えている」
アルマンは去った。
扉が閉まった。
オルデンが茶碗を持ち上げた。手は、震えていなかった。しかしカイルは、オルデンの手が、一瞬だけ止まる瞬間を見た。茶碗を口に運ぶ途中で、ほんの瞬間、動きが止まった。それから、何事もなかったように茶を飲んだ。
カイルはその一瞬を、記録に残さなかった。しかし、忘れなかった。
夜、王宮に戻った時、リーネが階段の下で待っていた。
「カイル兄。——今日、セルヴァン兄上のところに、また人が来てた」
カイルは立ち止まった。
「……誰だ」
「分からない。兵隊じゃなくて、書類を持った人。二時間くらい話してた。——兄上、とても嬉しそうだった」
カイルはリーネの頭に手を置いた。レイグの癖。
「リーネ。——今夜は、早く寝なさい。気づいたことがあれば、俺にだけ話してくれ」
「うん」
リーネが階段を上っていった。
カイルは自室に戻り、扉を閉めた。机に向かって座る。引き出しの中に、副室長からの二通の書状が仕舞われていた。一通目と、先日の二通目。閣下から王家の内側の判断を委ねられた夜に届いた書状。
今日、交渉の場でオルデンが三つの回答書を並べた瞬間を、カイルは思い出していた。七年間の仕掛けが、今、形を成しつつある。オルデンは自分の手が届く範囲のことを、見事に動かしている。
しかし——自分が抱えているのは、オルデンの手が届かない領域だった。リーネが見た「書類を持った人」、副室長の書状、セルヴァンの笑い方。断片は少しずつ増えている。しかし、まだ形になっていない。
閣下は「王家の内側を見ろ」と言った。見る、というのは、情報を集めるだけではない。形を確定させるまでが、見ることだった。
窓の外で、光の谷が光っていた。




