表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/33

第23話 宰相の手札

レガリオンの交渉団が到着したのは、六月の終わりだった。


 七年前、アルマンが初めて監督府に着任した日と同じ季節。しかし空気はもう、あの頃のものではなかった。高原に吹き始めた夏の風が、工房街の煙突の煙を北へ流していた。精製所の炉は昼夜の区別なく回っていた。タルシス紛争の魔素製品特需はまだ続いていた。


 カイルは宰相府の窓から、街道を上ってくる交渉団の馬車を見ていた。三台。先頭の馬車に、アルマン。二台目に、本国から来たという外交官。三台目に、随員と書記官。——副室長の姿は、なかった。


 オルデンが隣に立っていた。


「——副室長は、来ませんね」


「やはり本国に残っているようだ。——こちらの交渉団には、別の筋の人間を送ってきた。あの男の性質を考えれば、不思議ではない。自分の手を汚さない男だ。本国で待っている」


「待っている、とは」


「結果を。——独立がどの形で決まっても、自分の派閥が情報源を得る構造を作った。だからこちらには来ない。こちらに来れば、どの筋に肩入れしているか、見えてしまうからだ」


 オルデンが窓から離れた。


「——交渉が始まる。記録係として同席しろ。ただし、今日は単なる記録ではない。お前の手元にある安定報告書を、私が合図をしたら出せ。合図なしでは出さない」


「……はい」


「覚えておけ。交渉とは、相手に『もう降りる場所がない』と思わせる技術だ。相手が降りる場所を探している時に、最後の一押しをする。今日の我々は、その最後の一押しのための準備をする」





 午後、宰相府の大広間で、交渉の第一回が始まった。


 長机の片側にレガリオンの交渉団。アルマン、本国の外交官、書記官二名。向かい側にオルデンとカイル。カイルの手元には、四年分の安定報告書に、その後の三年分を加えた七年分の綴じ本が置かれていた。


 先に口を開いたのは、本国の外交官だった。年齢は五十代ほど。髭を整えた細面の男。レガリオン語。


「宰相閣下。お招きいただき、感謝いたします。——先般、貴宰相府より本国元老院にお送りいただきましたご提案について、慎重に審議を重ねてまいりました。結論から申し上げますと——独立の方向性そのものは、検討に値するとの認識でございます」


 オルデンは無表情で頷いた。


「——しかし、懸念がございます。独立後のアストラードが、再び本国にとっての脅威にならないという保証が、必要です。竜人族は、かつて大陸の覇権を握っていた種族です。占領開始時に降伏したとはいえ、七年の間に再び軍事的な力を蓄えている可能性を、否定できません」


 アルマンが少し眉を寄せた。しかし口は開かなかった。


 外交官が続けた。


「つまり——竜人がまだ危険ではない、ということを、どう証明されるのか。その証明がない限り、本国元老院は独立を許可できません」


 オルデンは答えなかった。茶碗を持ち上げた。一口飲んだ。置いた。


 そして——壁の棚から、一冊の綴じ本を取り出した。


「外交官殿。——こちらを御覧ください」


 綴じ本を交渉団の前に置いた。レガリオン語で書かれていた。


「執政官閣下の、四年目の月次報告書の写しでございます。——恐れながら、閣下ご自身のお言葉を、そのまま引用させていただきます」


 オルデンが頁を開いた。指で一文を示した。


「『アストラードの治安は、過去半年間で顕著に改善している。元軍人の社会復帰政策が効果を上げており、街の不穏な空気は減少した。宰相府の協力的な姿勢を評価する』——執政官閣下の、御報告でございます」


 アルマンの顔が動いた。自分が書いた文章が、自分の前で読み上げられている。


 オルデンが頁をめくった。


「『アストラードの統治は安定の段階に入ったと判断される。竜人族は、占領以前と比べ、明らかに変化している。組織的な抵抗は事実上消滅し、文官機構は機能している』——これも、執政官閣下の御言葉でございます」


 さらに頁をめくった。


「『総じて、これらの数字と観察は、アストラードが本国の指導の下で成功裏に変化を遂げつつあることを示している』——執政官閣下が、本国に宛てて、毎年、御報告されてきた言葉でございます」


 オルデンが綴じ本を閉じた。


「——竜人がまだ危険ではないという証明を、外交官殿はお求めでございますが。その証明は、既に貴国のお手元にございます。執政官閣下が、六年余りの御任期の間、毎月、本国に送り続けてこられた報告書がそれです」


 沈黙があった。


 本国の外交官が、アルマンを見た。アルマンは真っ直ぐ前を向いていた。否定の言葉も、肯定の言葉も出さなかった。しかし、カイルにはアルマンの中で何かが固まっていくのが見えた。——アルマンは、自分の言葉が武器として使われることを、初めて理解した。理解しながら、否定できなかった。自分が書いた言葉だったからだ。


 外交官が咳払いをした。


「——執政官閣下の御報告は、確かに存じ上げております。しかし、個別の報告と、本国元老院の総合的な判断は、別のものでございます」


「承知しております」


 オルデンが頷いた。


「——しかし、総合的な判断の材料として、執政官閣下の御報告が最も重いことは、外交官殿もご承知のはずでございます。本国元老院が『現地の執政官の判断を最も重視する』とお決めになったのは、占領開始の初年度の元老院決議でございました。私は、その決議文も持っております」


 オルデンがもう一冊の綴じ本を取り出した。


「必要でしたら、こちらもお読みいたします」


 外交官が手を上げた。


「——結構です。それは、存じております」





 交渉団が短い休憩を取った。


 オルデンは椅子に座ったまま、動かなかった。カイルも動かなかった。長机の向こうで、外交官が書記官と小声で何か話していた。アルマンは窓の外を見ていた。


 休憩が終わり、外交官が戻ってきた。


「——では、次の論点に移ります。仮に独立を認めるとして、治安の維持は誰が保証するのか。占領軍が撤退すれば、治安が悪化するという懸念があります。過去に例があります」


 オルデンが目配せをした。


 カイルが綴じ本を開いた。七年分の安定報告書。親指が薬指の付け根を擦った。しかし手は震えていなかった。長机の上に綴じ本を置いた。


「——七年分の安定報告書でございます」


 カイルの声は小さかった。しかし、震えてはいなかった。


「犯罪発生率の推移。経済指標。降伏条件の遵守状況。そして——占領二年目の自浄の実績。元軍人の若手が監督府の兵士を殺害した事件で、宰相府は犯人を自ら占領軍に引き渡しました。この記録も含まれております」


 カイルは頁をめくりながら、一つずつ指で示した。


「犯罪発生率は、占領二年目の事件以降、一貫して下降傾向にございます。経済指標は、特需の始まった六年目から急速に改善しております。降伏条件は、全て遵守されております。——七年間の記録が、こちらにございます」


 外交官が綴じ本を受け取った。頁をめくり始めた。


 カイルは席に戻った。手が震えていないことが、少し寂しかった。七年前の自分なら、震えていたはずだった。記録係として記録することしかできなかった男が、今、自分の手で作った記録を、交渉の武器として差し出している。——道具の使い方を、自分自身が知っている。


 オルデンが静かに言った。


「——外交官殿。この七年間の記録が、我々の回答でございます」


 カイルの中で、何かが震えた。手ではない。もっと深いところ。——「お前の目と手が欲しい」。七年前、オルデンがカイルに初めて言った言葉。あれは、この瞬間のための言葉だった。カイルが綴じ本を作るために与えられた役割。記録するという能力が、独立の根拠になる瞬間。自分は、この瞬間のために、七年間記録してきた。


 そう気づいた時、カイルは自分の足の裏が床に吸い付いていくような感覚を覚えた。立ち上がれなくなる感覚。しかしそれは、重さではなかった。——根が下りていく感覚だった。





 交渉は二時間続いた。


 外交官は綴じ本を何度も読み返し、書記官に数字を確認させ、アルマンに意見を求めた。アルマンはしばらく黙った後、短く答えた。「——数字そのものには、異論はございません」。支持でも否定でもなかった。ただ、事実を事実として認める言葉だった。アルマンの目は、どこか複雑だった。——自分の報告書が、今日のこの場で、自分の知らない使われ方をされている、という気配を、軍人の勘として感じ取っている目だった。


 外交官が綴じ本を閉じた。


「——宰相閣下。本日の議事は、密使により本国元老院にお送りし、ご審議いただきます。次回の会合は、半月後といたしましょう」


「承知いたしました」


 オルデンが頭を下げた。外交官たちが立ち上がった。


 帰り際、一人の書記官——若い男——が、オルデンに近づいて、小声で何か言った。カイルには聞こえなかった。しかしオルデンの眉が、一瞬だけ動いた。書記官は頭を下げて去った。


 交渉団が大広間を出ていった。扉が閉まった。


 オルデンはしばらく動かなかった。それから、茶碗に手を伸ばした。冷めていた。一口飲んだ。


「——カイル」


「はい」


「書記官が、最後に、私に囁いた」


「……何と」


 オルデンが茶碗を置いた。


「『国内には完全独立を求める声があると聞いている。宰相府は国内の声を統合できるのか』——それが、書記官の言葉だ」


 カイルの親指が、薬指の付け根を擦った。


「……完全独立の声が、本国に届いているのですね」


「届いている。誰が届けたかは分からない。副室長の筋か、セルヴァン殿下の筋か、あるいは両方か。——しかし、届いている以上、次の交渉では、必ず論点になる」


 オルデンが窓の外を見た。


「次は——防波堤の話をする、と外交官殿に予告しておいた。しかし、防波堤の前に、国内の声の話をしなければならない。『多国間保証による完全独立は実現しない』と証明する必要がある。——それが、次の交渉までの半月の仕事だ」


「……はい」


「お前は、バルトに会え」


 カイルは顔を上げた。


「バルトは、既に象徴として担がれている。バルト自身の意志ではない。しかし、象徴として立っている以上、バルトの動きが完全独立の声の温度を決める。バルトに会って、今のバルトの状態を、確認しろ」


「……何をすればいいのですか」


「何もしなくていい。——ただ、会って、顔を見てこい。バルトが今、何を考えているか。お前にしか読めない」


 カイルは頷いた。





 その夜、カイルは自室で記録を書いた。


 交渉の経過。オルデンの手札。自分が差し出した安定報告書。アルマンが「数字そのものには異論はない」と呟いた時の、あの複雑な目。書記官の完全独立の声についての囁き。


 閣下に提出する記録に、全てを書いた。


 しかし、もう一つの綴じ本——「閣下に提出しない記録」——に、一行だけ書いた。


 「今日、七年間の意味が、一つの瞬間に集まった。私は、その瞬間の道具だった。しかし——道具であることに、痛みを感じなかった。むしろ、根が下りた気がした。これは、何を意味するのか」


 ペンを置いた。


 書いた言葉を、もう一度読んだ。


 ——「道具であることに、痛みを感じなかった」。


 これは、良いことだろうか。悪いことだろうか。カイルには分からなかった。ただ、この感覚は、七年前の自分には理解できないだろう、とだけ思った。


 窓の外で、光の谷が光っていた。

【豆知識:ヴァルドラーク王家】


国王ヴェルディン(210歳、「裁可王」)を頂点とするアストラード王家、ヴァルドラーク家。王太子セルヴァン(150歳)、戦死した次兄レイグ、処刑された三兄イルヴァン、四子アーシャ、神官で禁書庫管理者の五子ネイル、六子カイル、末子リーネの七人の子からなります。

敗戦時、王家の一部は占領軍に協力して保身を図り、宰相への「全権委任」という責任回避を実行しました。その王家の中で、カイルは「何者でもない末弟」として振る舞い続けてきました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ