表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/33

第22話 密約の夜

蜂起の夜から三日が経っていた。


 カイルは宰相府の執務室に向かって坂を上っていた。下市街の広場で数千人の前に立った夜から、街の空気は変わっていた。角を隠した竜人が前より多く歩いている——そう見えるのは錯覚ではないはずだった。あの夜、カイルは密輸の事実を群衆に明かし、独立は目的ではなく手段だと告げた。バルトは退けと言った。蜂起は止まった。


 しかし代償があるはずだった。オルデンへの報告はまだだった。オルデンがどう反応するか——三日間、カイルはそれを考え続けていた。


 執務室の扉の前で、親指が薬指の付け根を擦った。


 扉を開けた。


 オルデンは窓の外を見ていた。薬草茶の湯気がいつもの通り立っていた。


「——座れ」


 カイルは席に座った。


 長い沈黙があった。窓の外で、高原の風が石壁を撫でていた。遠くで工房街の鎚の音が響いていた。独立交渉が本格化するという噂が街に広がって以来、職人たちは前より早く手を動かすようになっていた。


 オルデンが口を開いた。


「——私は、お前がバルト一人を説得すればいいと考えていた」


 カイルは答えなかった。


「その認識は、間違っていたな」


 言葉の温度が低かった。怒りはない。しかし温度がない。


「お前は、群衆全体に話したのか」


「……はい」


「バルトに密輸の事実を明かしただけでなく、数千人の前で公開した」


「……はい」


「独立は目的ではない、手段だと告げた」


「……はい」


 オルデンは振り返った。目が合った。いつもの「道具を見る目」ではない。何か別のものがあった。カイルには読めない目だった。


「お前に口は要らないと言ったはずだ」


 カイルは答えなかった。答える言葉がなかった。


 オルデンは席に戻った。茶碗を持ち上げた。一口飲んだ。置いた。


「——しかし、蜂起は止まった」


 それだけ言った。


「バルトは退けと言った。数千人が広場から去った。今朝、トーヴァの筋から入った報告では、抗戦派の内部で『もう一度集会を開こう』という声は、出ていない。——お前の言葉は、届いた。届いた以上、私の『認識の間違い』は、私の責任だ」


 オルデンがもう一度茶碗を持ち上げかけた。


 そして——止めた。茶碗を置いた。立ち上がった。


 卓の上の棚から、もう一つの茶碗を取り出した。小さな竜人の土焼きの茶碗。縁が少し欠けている。——宰相府の古い道具の一つ。カイルは何度もこの茶碗を見ていた。しかし、オルデンがそれに茶を注ぐのを見たことは、一度もなかった。


 オルデンは新しい茶碗に薬草茶を注いだ。湯気が立った。


 卓に置いた。カイルの前に。


 カイルは自分の息が一瞬だけ止まるのを感じた。


「……閣下」


「飲め」


「……私は」


「飲めと言った」


 カイルは茶碗に手をかけた。縁が少し欠けている土焼きの感触。温かい。苦い薬草の匂い。——一口飲んだ。


 舌の上で、苦味が広がった。いつものオルデンの薬草茶と同じ味。しかし味が違った。同じ湯を、同じ葉から、同じ方法で淹れたはずなのに——別の飲み物に感じた。


「お前の判断は」


 オルデンが自分の茶碗を持ち上げた。


「間違っていない。しかし正しくもない。正しいかどうかは、これから決まる」


「……はい」


「お前は——『道具』ではなくなった。しかし、まだ『対等』でもない。お前は、判断する者になった。判断する者の責任は、判断の重さによって試される。——これから、お前は試される」


 カイルは茶碗を両手で包んだ。震えてはいなかった。しかし、震えていない自分の手を意識した。震えていないことが、何かを失った証しのように感じた。あるいは——何かを得た証しだったかもしれない。





 その日の午後、オルデンはカイルを執務室の奥の小部屋に連れて行った。


 普段は使われていない空間。しかし今日、その部屋は、別の空間になっていた。大陸の地図と、過去七年の条約文書と、レガリオン元老院の構成員名簿が既に並べられていた。——既に、だった。カイルが入った時、部屋の中は、何ヶ月も前から準備が進んでいたことを示していた。地図の上には細かい書き込みがあり、名簿には既に赤い印がついていた。エテルネアの学術院から届いた密書の束も、机の端に積まれていた。


「——お前をこの部屋に入れるのは、今日が初めてだ」


 オルデンが言った。


「交渉の準備そのものは、お前がバルトを止める前から、既に動かしていた。エテルネアを通じた打診、財政派との接触、本国元老院の動きの読み——全て、並行して進んでいた。お前には、まだ見せる時期ではないと判断していた」


「……はい」


「しかし、お前は昨日、私の読みを超えた。群衆全体に話し、独立を『手段』と再定義した。——ならば、お前には、手段の全容を知る権利がある。今日から、お前はこの部屋に入れる。この部屋で進んでいることの全てを、お前と共有する」


 カイルは頭を下げた。


 オルデンは地図の上に指を置いた。


「エテルネアの学術院を通じて、本国の財政派に打診した。——『占領は損だ』という数字は、過去四年分届いている。財政派は今、動き始めている。これから正式な交渉団がこちらに来る。三ヶ月以内に」


 オルデンが地図の上に指を置いた。


「交渉は、難しいものになる。向こうはできる限り多くを取ろうとするだろう。軍事同盟、基地、地脈——何をどこまで譲るかは、交渉の場で決まる。今、ここで『こうなる』と言えることは、少ない。ただ、不完全な形であれ、独立の形式は持ち帰れると、私は見ている」


 カイルは名簿を読み始めた。本国元老院の主流派、財政派、軍部派、戦後統治検分室の関係者——七年間、この国を動かしてきた名前が並んでいる。カイルが見たことのない名前もあった。


 ふと、一つの名前に目が止まった。


「——閣下」


「何だ」


「戦後統治検分室の項に、副室長の名前があります。しかし、副室長は本国元老院の主流派には属していないと、以前おっしゃいましたね」


「そうだ」


「では、今回の交渉で、副室長は——」


 オルデンが地図から顔を上げた。


「副室長は、自分の派閥のために動く。今回の独立交渉で、自分の派閥の勢力を増やすために、全ての手駒を使うだろう。——エテルネア経由の情報戦で、我々とあの男は既に『共犯』だ。七年前から、私はあの男と組んでいた」


 カイルの息が止まった。


「……組んでいた、とは」


「私はあの男に情報を流していた。コヴァルドの脅威の情報。占領コストの数字。安定報告書の要点。——あの男はそれを本国の財政派に流した。財政派は『占領は損だ』と動き始めた。——結果として、独立交渉の条件が整った。あの男と私は、目的が違う。しかし手段の一部が重なった。だから使った」


「……副室長は、私にも問いを残しました。『どちらの物語を本当だと思っておられますか』と」


「そうだ。あの男は、お前にも種を蒔いた。セルヴァン殿下にも、おそらく私にも、お前にも——同じ種だ。それぞれの人間に合わせた形で。あの男の手口は、そういうものだ」


 オルデンが茶碗を置いた。


「——今夜以降、副室長は再び動く。交渉団の随員として来るか、あるいは本国に残ったままこちらに手紙を送ってくるか。いずれにしても、動く。お前に何か来たら、隠さずに報告しろ。お前が判断する者になった以上、判断の材料を私と共有する義務がある」


「……はい」


 オルデンは地図から目を上げた。カイルをまっすぐに見た。


「——しかし、もう一つ、お前に話しておかなければならないことがある」


 オルデンの声が、少しだけ低くなった。


「お前にしかできないことが、一つある。——王家の内側を見ることだ」


 カイルの親指が止まった。


「私は、七年間、この国の外のことを引き受けてきた。レガリオン本国の元老院、各国の使節、エテルネアの学者、マルカの商人、コヴァルドの動向——外の世界で起きていることは、私の情報網である程度は追える。民衆の中に広がり始めた完全独立の声も、手立てがないわけではない。独立交渉も、これから形を詰めていく」


「……はい」


「しかし」


 オルデンが茶碗を持ち上げた。一口飲んで、置いた。


「セルヴァン殿下が最後に何を仕掛けるかは、私には読めない。あの方は、計算する者ではない。気まぐれだ。計算する者の動きは読める。気まぐれは読めない。そして——私は、王家の外の人間だ。王族ではない。王家の内側で何が起きているかは、王家の者にしか見えない。私がどんなに仕掛けを積み上げても、王家の内側には手が届かない」


 カイルは答えなかった。オルデンの言葉の重みを、受け止めようとしていた。


「お前が、私の代わりに見ろ。——セルヴァン殿下が最後に動く日は、必ず来る。形がどうあれ、来る。その日、お前は王家の者として、それを見抜かなければならない。見抜いて、判断しなければならない。私に相談する時間がないかもしれない。お前が、お前自身で決めなければならないかもしれない」


「……閣下」


「その判断がどうであれ」


 オルデンの目が、カイルの目を捉えた。


「私は、お前の判断を信じる」


 カイルは息を止めた。


 ——「信じる」という言葉を、オルデンが自分に向けたのは、初めてだった。七年間、「道具」「目と手」「判断する者」——オルデンはカイルをそういう言葉で呼んできた。しかし「信じる」は、別の階層の言葉だった。道具を信じるのではない。判断する者を信じるのでもない。——人を信じる、という階層の言葉だった。


「……身に余るお言葉でございます」


「身に余るかどうかは、お前自身が決めることだ。——しかし、私の中では決まっている。お前以外に、王家の内側を見られる者はいない。リーネ殿下はまだ幼い。セルヴァン殿下ご本人は、信じられない。国王陛下はもう表に立たれない。——お前だけだ」


 カイルは頭を下げた。頭を下げたまま、しばらく顔を上げられなかった。受け取った責任の重さが、顔を上げるのを拒んでいた。


 オルデンは何も言わなかった。待っていた。


 やがて、カイルが顔を上げた。


「……承知いたしました」


 オルデンは小さく頷いた。それ以上は何も言わなかった。カイルに地図の他の部分を見せるために、指先を動かした。打ち合わせは、もう少しだけ続いた。





 夜、カイルは王宮に戻った。


 自室に入ると、机の上に封書が置かれていた。見覚えのある封蝋。レガリオン本国元老院の下部組織「戦後統治検分室」の紋章。


 カイルは扉を閉めた。ゆっくりと席に座った。封蝋を割った。


 レガリオン語。


 「末王子殿下。前回の書状から、さらに時が経ちました。独立交渉の進展と共に、末王子殿下のお立場について、本国元老院の一部で議論が進んでおります。——独立後のアストラードの宰相府において、末王子殿下のご経験と観察力が果たしうる役割は、大きいものがございます。本国元老院の中には、末王子殿下が宰相府の要職を担われることを期待する声がございます。加えて、戦後統治検分室において、末王子殿下のための席をご用意する運びとなりました。名義上は分析官の席でございますが、本国元老院の中枢に極めて近い立場でございます。——アストラードの宰相府と本国元老院の両方にお立場を持ち、両国に跨る橋として、竜人族の未来を直接お語りいただける——そのような形を、私どもは用意いたしております。独立後、お考えをお伺いしたく。お返事は、急ぎません。——副室長より」


 カイルは書状を二度読んだ。


 一度目は、文字を追うだけだった。意味が入ってこなかった。書状のレガリオン語の文字の形だけが、目の中を通り過ぎていった。


 二度目で、意味の輪郭が見え始めた。


 三度目で、カイルは自分の手が震えていることに気づいた。


 ——宰相府の要職。


 ——戦後統治検分室の分析官の席。


 ——両国に跨る橋。


 カイルは書状を机に置いた。置いた手が、置いた後も震えていた。


 副室長は、カイルをアストラードと本国の両方に足場を持つ人間として据えようとしていた。単なる本国の分析官ではない。アストラードの宰相府でも重要な役割を担い、本国元老院の中枢にも近い立場を持つ——両国に跨る立場だった。


 カイルは椅子の背にもたれた。天井を見上げた。天井の梁の影が、揺れて見えた。揺れているのは影ではなく、自分の視界の方だった。


 ——自分の周囲で、自分の知らないうちに、自分の未来が形作られていた。


 この事実を、カイルは受け止めかねた。オルデンの隣で七年間、記録し、分析してきた。しかし、それは「道具」の七年間だったはずだ。道具の未来を、他人が、自分の知らない場所で設計しているとは、考えもしなかった。


 カイルはもう一度、書状を手に取った。四度目の読み方は、最初とは全く違う読み方だった。単語の一つ一つが、重みを持って胸に落ちてきた。


 「本国に来れば、お前自身の言葉で分析できる場がある」——あの日、宰相府の応接室で、副室長がカイルに残した「別の物語」。二年以上経って、その物語が、予想もしなかった規模で戻ってきた。単なる本国での分析官の席ではない。アストラードの宰相府と本国元老院の両方に跨る立場として、自分の未来を差し出されていた。


 息を整えるのに、時間がかかった。


 カイルは引き出しを開けた。去年、最初に届いた密書があった。あの時は、焼くべきか、オルデンに渡すべきか、決められなかった。ただ引き出しに仕舞った。その一通の上に、今日の封書を重ねた。


 焼けなかった。


 なぜ焼けないのか、カイルには分からなかった。——いや、分かっていた。自分が、この提案を、完全には拒絶できていないからだ。「両国に跨る立場」という言葉が、胸の奥で、まだ残響を保っていた。


 オルデンに報告するべきだった。今日、オルデンは「隠さずに報告しろ」と言った。しかし——カイルの手が、引き出しの上で止まった。


 書状の文面を全部、そのまま閣下の前で読み上げることを想像した。「本国元老院の中には、末王子殿下が宰相府の要職を担われることを期待する声がございます」——この一文は、その場で閣下に何を感じさせるだろうか。閣下は表情を変えないだろう。何も言わないだろう。しかし、胸の奥では、自分の引退の時期が本国で話題になっていることを、初めて知ることになる。


 オルデンは、自分が疲れていることを、まだ誰にも言っていない。今日、関係の転換の場で、カイルに二つ目の茶碗を差し出した時も、オルデンの手は一度も震えなかった。オルデンは、自分の疲労を、まだ「表」に出していない。その閣下に、書状の全文をそのまま渡すのは——


 カイルは引き出しを閉めた。


 ——明日、報告する。今夜は、考える時間が欲しい。そう自分に言い聞かせた。


 言い聞かせながら、カイルは気づいていた。「明日、報告する」は、今夜、報告しない理由として使われているだけだった。そして明日、報告する時も、自分は全文を伝えないかもしれない。「宰相府の要職を担われることを期待する声」の一文は、隠すかもしれない。それは、閣下に聞かせる言葉ではないように感じた。





 翌朝、宰相府に向かう途中、カイルは下市街を通った。


 広場の入口に、数人の男たちが立って話し込んでいた。元魔法兵らしい。声が大きい。カイルは足を止めずに通り過ぎようとした。しかし、断片が耳に入った。


「——多国間の保証だ。コヴァルドにも、エテルネアにも、マルカにも話を通す。レガリオンだけを頼らない独立だ」


「しかし、誰がそれを言っている」


「何人かの偉い人たちが、民の代表に囁いているらしい。『完全な独立には、複数の国の保証が必要だ』と。理にかなっている。俺たちはレガリオンのために戦いたくない。軍事同盟を結べば、次はレガリオンの戦争に駆り出されることになる」


「バルトさんは、どう言っている」


「バルトさんは——静かだ。あの蜂起の夜から、あまり話さなくなった。しかし、広場の動きは止まっていない。バルトさんがいる限り、俺たちは動ける」


 カイルは通り過ぎた。親指が薬指の付け根を擦っていた。


 ——バルトが静かになっている。しかし、民衆の声はバルトを象徴のまま担ぎ続けている。あの蜂起の夜、カイルが群衆の前に立ち、独立は手段だと告げた。バルトは退けと言った。蜂起は止まった。しかし、「完全独立」を求める声は止まっていない。別の形で流れている。


 誰が民衆に囁いているのか。「何人かの偉い人たち」——具体的な名前は、元魔法兵たちも知らないらしい。しかし、理にかなった話として、民衆の中に広がっている。


 カイルは宰相府に着いた。階段を上りながら、考えた。


 今朝、オルデンに副室長の密書を報告する。副室長の第二の密書——これは、オルデンの言う「お前に来たら隠さずに報告しろ」の対象だ。


 しかし、焼かずに引き出しに仕舞った、という事実——これは、どう報告するのか。





 執務室に入ると、オルデンは既にそこにいた。


 カイルは報告した。副室長から二通目の書状が届いたこと。戦後統治検分室の分析官の席を具体的に提示されたこと。名義上は分析官だが、本国元老院の中枢に近い立場であること。両国に跨る形で、竜人族の声を本国元老院に届けられる——そういう誘いであったこと。


 カイルは、「宰相府の要職を担われることを期待する声がございます」の一文については、報告しなかった。


 言葉にしなかった理由を、カイル自身が完全には説明できなかった。しかし、その一文は、閣下の引退をほのめかす言葉でもあった。あの朝、関係の転換の場で、カイルに二つ目の茶碗を差し出してくれた閣下に、その言葉は、渡せなかった。


 オルデンは黙って聞いた。聞き終えてから、目を閉じた。


「——焼いたか」


「……いえ」


「引き出しに仕舞ったか」


「……はい」


 オルデンが目を開けた。カイルを見た。


「それで、よい」


 カイルは驚いた。「焼け」と言われるかと思っていた。


「——焼けば、お前はあの男と縁を切ったことになる。しかし、縁を切る時期は、今ではない。あの男の動きを読むためには、あの男との繋がりを残しておく必要がある。——お前が、あの男の差し出した未来を受けるか受けないかは、最終的にお前が決めることだ。今は、決めなくていい」


「……はい」


「ただし」


 オルデンが茶碗を持ち上げた。


「いずれ、お前はあの書状の山を見ることになる。焼くか、受けるか、そのどちらでもない第三の道を選ぶか。——その時、お前が何を選ぶかで、お前という人間が決まる。——道具はその選択を迫られない。判断する者だけが、迫られる」


 カイルは二つの茶碗を見た。オルデンの茶碗と、自分の茶碗。昨日から並んでいる二つの茶碗。


「閣下」


「何だ」


「下市街で、民衆が『多国間保証による完全独立』を話していました。『何人かの偉い人たちが民の代表に囁いている』と。バルトは静かになっているが、象徴として担がれ続けている、と」


 オルデンの眉が動いた。


「……そうか」


「何人かの偉い人たち、とは、誰でしょうか」


「——様々な国の、様々な人間だ。コヴァルドの使節。マルカの商人。エテルネアの学者。それぞれが自国の思惑で囁いている。『中立化すれば守れる』と。——しかしそれは、それぞれの国がアストラードを自分の陣営に引き寄せたい、あるいは緩衝地帯として利用したいだけだ。本気で中立保証する国は、ない」


「民衆はそれを知らない」


「知らない。だから、理にかなった話として広がる。——これで、独立の形を巡る声が、三つに分かれることになる。私が進めている、レガリオンとの合意による独立。民衆の中に広がる、多国間保証の完全独立。——そしてもう一つ、まだ表に出ていないものがある」


「もう一つ、とは」


「セルヴァン殿下だ。このところ王宮で、人の出入りに気配の変化がある、と聞いている。——具体的に何が動いているか、形はまだ見えない。しかし、動いている。三つの声が、これから同時に動き出す」


 カイルは記録した。


 しかしその夜、自室の引き出しを開けた時、カイルは気づいた。二通の密書の上に、自分の「閣下に提出しない記録」の綴じ本が置かれていた。三つの声のことは、その綴じ本にも書いた。そして——今朝、閣下に報告しなかった「宰相府の要職を担われることを期待する声」の一文のことも、書いた。


 閣下は、この一文を知らない。


 カイルは自分の指先が冷たくなるのを感じた。——閣下が「まだ形が見えない」と言ったセルヴァン兄上の動き。副室長の設計は、まだ形が明確ではなかった。しかし、自分が両国に跨る立場に置かれようとしていることは、確かだった。閣下が知らない場所で、何かが動き始めていた。その何かの一端を、自分は、閣下より早く見ていた。


 見ていて、報告しなかった。


 それが意味することを、カイルは綴じ本の余白に書きかけて——止めた。書くべき言葉が、自分の中でまだ形になっていなかった。ただ、一つだけ確かなことは、今夜から、自分は閣下に隠し事を持つ身になったということだった。


 「焼けなかった」という自分の感覚は、書かなかった。


 書けなかった。


 窓の外で、リーネが階段を下りてくる足音がした。リーネが扉をノックした。


「カイル兄、いる?」


「いる」


「——今日ね、セルヴァン兄上のところに、また知らない人が来てたの。三人。本国の人じゃなくて、もっと遠くから来たみたいな服だった」


 カイルは綴じ本を閉じた。


「リーネ。——もう遅い。早く寝なさい」


「うん。——でもね、カイル兄。兄上、最近、前より笑ってるよ。昔みたいに、何かいいことがあった時の笑い方」


 リーネが去った。


 カイルは長い間、扉を見ていた。


 セルヴァンが笑っている。昔みたいに、何かいいことがあった時の笑い方で。——セルヴァンの動きが、形を持ち始めている。カイルはそれを感じた。体の奥で、ゆっくりと何かが冷たくなっていく感覚があった。


 窓の外で、光の谷が光っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ