第21話 兄ならば
集会の夜が来た。
カイルは机の上を整えた。羊皮紙を重ね、ペンを戻し、インク壺の蓋を閉めた。これがカイルの癖だった。決断の前に、物をあるべき場所に戻す。
今夜、この机に戻ってこられるかは、分からなかった。
外套の内側に、一枚の羊皮紙を忍ばせた。密輸の数字を写した紙。昨夜、書庫の鍵のかかる引き出しを開けて、オルデンの原本から写したものだった。写しを作った瞬間に、カイルは既に命令違反を犯していた。それでも取り消せなかった。
宰相府を出る前に、書庫の隅にいるトーヴァに会った。トーヴァはこの二ヶ月、抗戦派の男たちの話を聞いてきた人だった。抗戦派の男たちを、一人一人の顔と声で知っている人だった。カイルがトーヴァに声をかけると、トーヴァは何も聞かずに、ただ、小さく頷いた。
「——殿下」
「うん」
「私が知っている男たちが、今夜そこにいます。名前は言えませんが、顔は覚えています。——彼らは、悪い人たちではありません。疲れた人たちです。聞いてもらえなかった人たちです」
カイルは頷いた。
「——行ってきます」
「お気をつけて」
トーヴァの手が、一瞬、カイルの袖に触れた。母親が息子を送り出す時のような触れ方だった。ヨアン・ラスマールを送り出せなかった母親の、今夜の手だった。
カイルは宰相府を出た。
下市街の広場までは、徒歩で四半刻の距離だった。
歩きながら、カイルは身体を観察した。手は震えていた。呼吸は浅い。足の裏の感覚が薄い。意識して整えようとしても、整わなかった。
坂を下りる途中、王宮の東庭の方角を、今夜も見上げなかった。セルヴァンとの「二ヶ月後、ただの弟として来い」の約束は、二年半の先送りで自壊した。行かない決定は、やがて行けない事実になる。カイルは自分の手で、一本の綱を、行かないことで断ち切った。今夜、もう一本の綱を——オルデンとの綱を——切ろうとしていた。
綱を編んだのはオルデンだった。しかし歩かせたのはオルデン一人ではなかった。カイル自身が五年かけて、その綱の上を歩く訓練をしてきた。今夜、訓練の成果が、訓練した者への背きとして現れる。
そしてその背きは、オルデンを傷つけるためではなかった。——目的を守るためだった。形式と目的が、今夜、分離する。分離したどちらを取るかが、今夜の選択だった。
坂の途中で、カイルは頭の中で言葉を組み立てていた。しかし組み立てようとするほど、言葉が崩れた。五年間、沈黙で仕えてきた。沈黙の底に自分の言葉が残っているのか——まだ、分からなかった。
ただ、一つ、確かなことがあった。今夜、自分が広場で話す相手は、バルト一人ではない。
オルデンは「バルトを止めろ」と命じた。宰相にとって、この状況を抑えるには抗戦派の代表を説得すれば足りる、という計算だった。象徴を止めれば、背後の男たちも従う——それが温度管理の論理だった。
しかし、カイルは知っていた。オルデンが知らない情報を、カイルは持っていた。トーヴァが二ヶ月かけて抗戦派の集まりに通い、一人一人の顔と声で集めてきた男たちの話。家族を失った者、身体を壊した者、心を壊した者、戦後生まれの若者、そして自分の罪を抱えた者——それぞれが別の理由で、別の痛みで、集まりに来ている。彼らは「バルトに従って」蜂起するのではない。それぞれの痛みが、今夜、バルトという器の中で噴き出そうとしている。
バルト一人を止めても、彼らの痛みは消えない。痛みが消えなければ、遅かれ早かれ、次の火が上がる。
だから話すべき相手は、群衆全体だった。数千の男たちの、一人一人の痛みに、別々の言葉を届けなければならない。——オルデンの温度管理の論理では、足りなかった。
生まれてから一度も、カイルは群衆に向かって話したことがなかった。王族として生まれはしたが、末席の王子として育ち、公の場で何かを語る役目を与えられたことはなかった。長兄は政治を、次兄は軍を、三兄は外交を語ってきた。末弟のカイルだけが、話す必要のない席に座り続けた。そしてその席は、宰相府に移ってからも——記録する者の沈黙として——保たれてきた。
広場に近づくにつれ、空気が変わった。
熱気だった。松明の光、人の声、金属を擦る音、足音の重なり。広場の入り口の少し手前で、カイルは一度立ち止まった。耳を澄ませた。
群衆の声の中に、歌が混じっていた。
新しい歌だった。占領が始まってから、どこかの元軍人が作ったと噂される歌。大戦前には存在しなかった歌。歌詞の一部が聞き取れた。「角を晒せ、誇りを取り戻せ、大地は我らの記憶を受ける」。占領下で生まれた、失ったものを数え直す歌。その歌を、今、広場に集まった数千の男たちが歌っていた。
カイルの身体が、一瞬だけ、揺れた。揺れを止めて、歩き出した。
広場の入り口に入った。
松明の海だった。数百の松明が、広場を昼のように照らしていた。数千の竜人たちが広場を埋め尽くしていた。
カイルは歩きながら、群衆の顔を見た。
数千人の群衆。その大半は、トーヴァが二ヶ月通って話を聞いてきた核の男たち——衰退期を通じて毎回集会に残っていた百人前後の者たち——ではなかった。核は全体から見れば少数だった。数千人の大半は、普段は集会に来ない者たちだった。かつて抗戦派の周辺にいたが工房の仕事と家族のために足が遠のいていた元兵士、社会復帰した元魔法兵、レガリオンへの反感を日常の中に飲み込んできた工房街の職人、家族を持つ普通の民、若い商人。それぞれが自分の生活のために怒りを抑え込んでいた者たちが、今夜、タルシスの同胞の死と両陣営供給の噂に背を押されて、抑えていた感情を外に出した。集会は彼らが日常から一時的に出てきた場所だった。
しかし、その数千人の中に、カイルが知っている顔が、点々と混じっていた。トーヴァが手帳に書き留めた男たちだった。
広場の左手、壁際に、一人の老兵が立っていた。竜人で百六十代——人間換算で六十代くらいの見た目。目の下に深い隈。家族を失った目だった。妻子の名を唇だけで呟く癖が、群衆の熱気の中でも止まらない。トーヴァが最初に語った男たちの一人だった。
その後ろに、若い男がいた。背が高い。声は出していないが、松明の光の下で口が動いている。歌の歌詞を追っている。しかしリズムが周りとずれていた。心が壊れた元兵士の、崩れたリズム感。
さらに奥に、片腕のない男がいた。左腕がない。右手だけで拳を握っていた。身体を壊した元兵士。
広場の右手、壇に近い位置に、戦後生まれの若者たちの一群がいた。眼差しが違った。まだ何も知らない目で、しかし何かを取り戻したがっている目で。父親が語る「誇り」を、この夜、初めて自分で掴もうとしていた。
そして——広場のあちこちに、もう一組の男たちがいた。静かな男たち。叫ばず、歌わず、ただ立っている男たち。自分の過去の罪を抱えたままの者たち。目が一点を見つめていた。その一点は、松明の光ではなかった。もっと遠い、あるいは内側の何か。
カイルは彼らを見た。見ながら、自分の身体の中に、彼らと同じ一点があることを感じた。
彼らはトーヴァの手帳の核だった。しかし、彼らを取り囲む数千の群衆は、別の動機で立っていた。核の男たちの痛みと、新規参加者たちの怒り——二つの別の火が、今夜、同じ広場で燃えていた。カイルはその二つに、同時に、別の言葉を届けなければならなかった。
広場の中央に、石の壇が置かれていた。壇の上に、バルトが立っていた。
カイルの入場に、最初に気づいたのは、壇の近くの若者たちだった。彼らの視線が、カイルに集まった。視線は次々に広がり、やがて広場の半分が、カイルを見た。
歌が、止まった。
沈黙ではなかった。ざわめきだった。ざわめきの中に、罵声が混じり始めた。
「王家の恥が——」
「売国奴の手先が——」
「角を布で隠した犬が——」
石が投げられた。一つ、二つ。カイルの足元に落ちた。三つ目は、カイルの外套の肩に当たった。軽い石だった。痛みはなかった。しかし当たった事実が、カイルの背中に重く残った。
カイルの手は震えていた。止めようとは、もうしなかった。震える手で、前に進んだ。広場の奥へ、壇の下へ。
群衆が道を開けた。開けたくて開けたわけではなかった。王族の末弟が、震えながら、しかし止まらずに歩く姿に、群衆が一瞬、呆気にとられた。その隙間を、カイルは歩いた。
壇の下に立った。
バルトは壇の上にいた。カイルを見下ろしていた。片方の角の刀傷が、松明の光で白く光っていた。
「——小僧」
バルトの声は、太かった。
「何をしに来た」
カイルは壇を見上げた。そして——壇には上がらなかった。壇は、バルトの場所だった。カイルが上がれば、それはバルトの権威を奪う行為になる。カイルは壇の下に立ったまま、顔だけを上げた。
「お話があって——参りました」
「話」
バルトは鼻で笑った。
「話か。——今ここに立ってるのは、数千の怒れる同胞だ。元兵士だけじゃねえ。工房の連中も、家にこもってた者も、今夜は皆ここにいる。お前一人の話を聞くために集まったんじゃない。俺たちは、五年以上飲み続けた屈辱を吐き出すために集まった」
群衆から同意の声が上がった。バルトは片手を上げた。声は収まった。
カイルは壇の下から、顔を上げたまま、立っていた。逃げなかった。逃げる力もなかった。
——さあ、と自分に言い聞かせた。
呼吸を整えた。震える声で、最初の言葉を出した。
「私は——宰相の手足として、ここに参りました」
カイルの声は震えていた。遠くまでは届かない声だった。しかし前列の男たちには聞こえた。
「宰相の指示で来ました。それは事実です。——しかし今夜、ここで話すことは、宰相の用意した言葉ではありません」
カイルは一度、呼吸を整えた。
「皆さんは、五年以上、耐えてこられました。角を布で隠し、魔法を封じられ、家族を失い、職を失い、誇りを奪われ——それでも生き延びてこられました。この街が静かだった五年間は、皆さんが耐えたからです。皆さんの痛みは、本物です。その痛みを、宰相も、私も、ただの数字に還元する権利はありません」
群衆の空気が、微かに変わった。ざわめきが少しだけ、静かになった。カイルの言葉の初めの方に、「痛みを認める」という姿勢があったことが、前列の男たちに届いた。
カイルは続けた。
「皆さんの中には——大戦で家族を失った方がおられます」
カイルは左手の壁際の老兵の方を見た。直接名指しはしなかった。しかし見た。
「心を壊して静かな日常に戻れない方がおられます」
さらに奥の若い男を見た。
「身体を壊して工房の仕事に就けない方がおられます」
片腕のない男を見た。
「戦争を知らずに育ち、父親の屈辱の背中を見てきた若い方がおられます」
壇の近くの若者たちを見た。
「そして——自分の過去の罪を抱えたままの方が、おられます」
カイルは広場のあちこちに散った静かな男たちを見た。最後に、その視線を広場全体に戻した。
「私は——五年前から、皆さんを宰相府の窓から遠くに観察してきました。観察することしかしてきませんでした。しかし先月、宰相府の年配の事務官が、皆さんの集まりに通い始めました。ヨアン・ラスマールという名の息子を前線で失った母親です」
群衆の一部がざわめいた。トーヴァの存在を知っている男たちだった。
「その人を通じて、私は初めて、皆さんの一人一人の話を、間接的にですが、知ることができました。家族を失った話。心を壊した話。身体を壊した話。若者たちが取り戻したがっているものの話。——そして、罪を抱えたままの話」
カイルの声は震え続けていた。しかし言葉は明確になっていた。
「私は、その話を、軽々しく扱うつもりはありません。軽々しく扱える話では、ないからです」
カイルはここで一度、長く呼吸を整えた。続けるかどうか、一瞬、迷った。迷ってから、続けた。
「——私は」
声が、最初の言葉で一度、途切れた。しかし続けた。
「私は、皆さんの中の——自分の過去の罪を抱えたままの方々と、同じ場所に立った者の一人です」
群衆が、静かになった。
カイルは何も具体的には言わなかった。域外民政局の名も出さなかった。徴用命令書の話もしなかった。しかし、バルトはそれを聞いた。バルトの視線が、一瞬だけ、別の温度を持った。バルトは知っていた。カイルが何を言っているかを。
「——大戦中、私も、あの時期に、あの場所で、書類を並べていました。王族としてではなく、一人の文官として。あの書類の中には、皆さんのご家族の名前が、含まれていたかもしれません。私はそれを正確に並べていました。正確に並べることで、自分の中の何かを保とうとしていました」
震える声だった。しかし嘘のない声だった。
「その時の自分を、私はまだ整理できていません。整理できないまま、宰相府で働き続けてきました。工房の煙突が戻り、子供の笑い声が戻っても、私は心から祝福できずにいます。祝福する資格がないと感じています。——同じ痛みを抱えたままの方々と、私は構造が同じです。場所が違い、立場が違い、結果が違うだけで、抱えているものは同じです」
群衆から、息を飲む音が聞こえた。広場のあちこち、静かに立っていた男たちからだった。彼らがカイルの言葉を受け取った音だった。
バルトは壇の上で、動かなかった。しかしバルトの目が、カイルを見る目が、それまでと少しだけ、違う目になっていた。
「私は——今夜、皆さんを説得するために来ました。しかし説得する前に、一つ、皆さんにお伝えしなければならないことがあります。私は、皆さんの痛みを『外側から』語る資格を持っていません。私は、皆さんと同じ場所に立った者として、語るしかありません。それ以外の語り方は——今夜は、しません」
カイルはここで言葉を止めた。
広場が、一層、静かになった。
カイルは次の言葉に入る前に、呼吸を整えた。震える声が、一瞬、不思議と安定した。自分でも気づかない安定だった。
「皆さんの中には、大戦で家族を亡くされた方が、おられます。前線で息子を亡くされた方、兄弟を亡くされた方、親を亡くされた方。敗戦後の占領下で、配給制限と魔素医療禁止で、妻子を失われた方」
カイルの声の調子が、ここで変わった。震えは残っていたが、その下に、別の音が混じり始めた。カイル自身が気づかない音だった。遠い、記憶の中の、誰かの声に似た音だった。
「死んだ者たちは——国のために、仲間のために、家族のために、死にました。その死こそが、彼らの誇りでした。誇りは、血で示された事実です。死んだ者たちは、既に、誇りを示し切りました」
カイルの声に、一瞬、力が宿った。群衆の前列が、その力を感じた。それはカイルの声ではなかった。あるいはカイルの声の中の、普段使われていなかった部分だった。
「——では、我々生きている者に、残された仕事は何か」
震える声に戻った。しかし続けた。
「死者が血で示した誇りを、空に返さないことです。——死者が『何のために』死んだか。そこに立ち返ることです。死者は、名のために死んだのではありません。国の『形』のために死んだのでもありません。——死者が守ろうとしたのは、日々でした」
カイルの声が、少しずつ、言葉を確かにしていった。
「子供が角を隠さずに朝の挨拶をする日々。工房の煙突が止まらずに煙を吐く日々。家族が夕食を共にする日々。井戸端で老婆が世間話をする日々。——その日々のために、死者は死にました。死者が守ろうとした『国』とは、その日々の集まりです」
カイルは呼吸を置いた。
「そしてもう一つ、生きている者に残された仕事があります。——その日々を、自分たちの手で取り戻すことです」
カイルはここで、広場全体を見渡した。
「独立は——その手段です」
広場が、一層、静かになった。
「独立は、目的ではありません。誇りを取り戻すための呪文でもありません。独立とは、我々が次の日々を、誰に従うでもなく、自分たちの手で設計するための、道具です。目的は別にあります。——子供の朝の挨拶。工房の煙。家族の夕食。井戸端の世間話。その日々こそが、目的です。独立は、その日々を守るための、手段に過ぎません」
カイルの声に、もう一度、力が宿った。カイル自身が気づかないうちに。
「——しかし、今夜の蜂起は」
カイルは言葉を切った。
「その手段を、自分たちの手で、燃やします」
群衆がざわめいた。「燃やす」という言葉が、波紋を広げた。
「今夜、皆さんが蜂起すれば、街は燃えます。レガリオン本国は口実を得て、占領を強化します。配給緩和は撤回されます。精製所は再接収されます。復帰したばかりの元兵士たちは、また職を失います。工房の煙突は消えます。子供の笑い声は消えます」
カイルの声は震えていた。しかし言葉は続いた。
「そして、二度と、戻りません。一度、独立という手段を失えば、次は来ません。アストラードは、永遠に属国として、歴史から消えていきます。——属国の民に、日々はありません。朝の挨拶も、工房の煙も、家族の夕食も、井戸端の世間話も——全て、他人のものになります」
カイルはここで、群衆全体をもう一度見渡した。
「死者が守ろうとした日々を、今夜、我々の手で、永遠に失うわけにはいきません。——それが、私が皆さんにお伝えしたい、一つ目のことです」
カイルの声は、ここで再び震えた。震えが戻ったことで、カイル自身が、先ほどの力強い瞬間に気づかなかった。しかし、壇の上のバルトは、気づいていた。聞いていた。
「それから——」
カイルはここで、外套の内側から羊皮紙を取り出した。折り畳まれた紙だった。しかし、まだ開かなかった。
「二つ、付け加えます。一つは、皆さん自身が、誰よりもご存知のことです」
カイルは壇の下で、群衆に向かって言った。
「今夜ここで蜂起しても——我々には、武力がありません。魔法は禁じられ、武器は接収され、魔法兵団は解散しました。対するレガリオンは、大陸最大の常備軍を持っています。——ここに集まっておられる皆さんは、それを、私より遥かによく分かっておられるはずです」
群衆の一部が、視線を落とした。しかし反論の声は上がらなかった。事実だったからだ。元魔法兵たちは、軍事的な力関係を、誰よりも知っていた。彼らが蜂起を決めたのは、軍事的な勝算があったからではなかった。勝算がなくても蜂起しなければならない理由があったからだった。カイルはそれを理解していた。だから軍事的不可能性を「説教」としてではなく、「共有されている前提」として言った。
「しかし、もう一つ」
カイルは羊皮紙を開いた。
「宰相が、皆さんに知らせていない事実があります」
群衆が、一層、静かになった。
「レガリオンは、占領後、ずっと、接収した精製所からアストラードの魔素を秘密裏に本国へ持ち出しています。精製量の約三割。数年間に渡って。宰相府は、この証拠を握っています。独立交渉の切り札として、温存してきました。——私は今日、宰相の許可なく、この事実を皆さんにお伝えしています」
バルトが壇の上で、一瞬、動いた。驚きの動きだった。カイルが命令に背いていることを、バルトは理解した。
群衆がざわめいた。「盗まれていた」という言葉が、波紋を広げた。
「この事実は、独立交渉の時に、レガリオンに対して決定的な一撃になります。しかし、今夜の蜂起で街が燃えれば——この切り札は、永遠に使えなくなります。宰相が五年以上かけて温存してきた武器が、今夜、消えます」
カイルは羊皮紙を畳んだ。
「武力で戦うのではなく、情報で戦うのが、今の我々にできる唯一の戦い方です。その情報を、今夜、潰すのか、守るのか。——皆さんの選択です」
カイルは羊皮紙を懐に戻した。しかし次の言葉を、すぐには出さなかった。一瞬、広場全体を見渡した。松明の光の下に、数千の顔があった。疲労と、期待と、怒りと——もう一つ、名前のつけにくい何かが、その顔の中に混じっていた。
カイルの声は、まだ震えていた。しかしその震えの中に、今までとは違う温度が入り始めた。
「——皆さんのお気持ちを、私は、分かっているつもりです」
広場がわずかに静まった。
「皆さんが、今夜、この広場で、失われたご家族とご仲間の思いを、一度に果たしたいと思っておられること。五年以上、一人ずつ、誰にも見られずに抱え続けてきた思いを——今夜、一度に、吐き出したい。その気持ちは、理解できます」
カイルは呼吸を置いた。
「——しかし、皆さんご自身が、気づいておられるはずです。それは、無理です」
群衆の中で、誰かが短く息を吐いた。
「独立への道は、今夜のような夜ではありません。確かな形も見えず、何年も続く、苦難の道です。誇りを取り戻したという実感も、すぐには得られません。今日、少しだけ前に進む。明日も、少しだけ。その積み重ねの、終わりの見えない道です」
カイルの声が、一段、低くなった。
「——その長い道に、耐え切れなくなったから。今夜、玉砕という形で、一度に決着をつけようとしている。違いますか」
沈黙が広がった。広場の奥まで、沈黙が届いた。
「今夜の蜂起は——あなた方の誇りも、死者の誇りも、全て、火にくべて、灰塵に変える行為です。それが、本当の中身です」
カイルの声が、震えを残したまま、強くなった。カイル自身に気づかない強さだった。
「——それでも、本当に、竜人ですか」
広場が、凍った。
「竜人の魂と誇り、気高さと強さを——今夜、ここで、捨てるおつもりですか」
カイルは広場全体を、もう一度、見渡した。
「先人たちは、もっと厳しい時代を、歩いて越えてこられました。苦難を苦難とせず、ただ強く歩き続けた——それが、先人たちの姿です。皆さんは、今、その血を継いでおられます」
カイルの声に、震えが戻った。しかし言葉は続いた。
「あなた方が今、抱えているのは——苦難の末の、逃げ道です。それは、誇りではありません。誇りとは、歩き続けることです。今夜の蜂起は、歩くことを放棄することです。放棄の名を『誇り』と呼ぶことは——先人たちへの、最も深い裏切りです」
カイルは息を整えた。
「——本当の竜人の誇りを、取り戻してください。今夜、ここで、歩き続けることを、選んでください」
カイルはここで、声の相手を変えた。群衆から、壇上のバルトへ。
バルトは壇の上にいた。カイルは壇の下にいた。距離があった。しかしカイルは、バルトにだけ聞こえる声で、最後の言葉を言った。
「バルト殿」
カイルの声が、低くなった。壇の下まで届く距離では、群衆にはかすかにしか聞こえない声だった。
「お嬢さんは——今夜、お父上を待っておられます」
バルトの目が、一瞬、止まった。
「先月、裏庭で、あなたは懐から干し果物の包みを出されました。『娘に持って帰る』と仰いました。——あの包みの重さを、私は今も覚えています」
バルトは何も言わなかった。
「今夜、蜂起すれば、あなたは家に帰れません。明日も、その次の日も。——お嬢さんに、もう一度、父親が帰らない夜を、経験させますか」
バルトの拳が、壇の手すりを握った。強く握った。握りすぎて、拳が白くなった。
カイルはそれを見ていた。見ながら、自分が今、バルトの最も弱い場所に触れていることを知っていた。攻撃ではなかった。しかし攻撃と同じくらい、バルトを動かすものだった。
カイルは最後の言葉に入った。震える声で。
「——兄上なら」
声が、最後の一言で、一瞬だけ、安定した。カイル自身にも理由が分からない安定だった。
「レイグ兄なら——今夜、この広場にいたら、何と言ったでしょうか」
バルトの目が、カイルを真っ直ぐに見た。
「兄上は、前線で誇りのために死にました。——私は、そう信じてきました。五年以上、そう信じてきました」
カイルは、自分の言葉の中に、兄の声が混じり始めていることに、気づかなかった。しかし前列の男たちは、気づいた。カイルの声の中に、昔聞いた声が、微かに、混じっていた。
「しかし、今夜、この広場に立って、私は気づきました。——兄上は、誇りのために死んだのではありません」
カイルは呼吸を置いた。広場が、静まっていった。
「兄上は、殿軍で、若い兵たちが一人でも多く生き延びられるように、死にました。兄上にとって、死は、目的ではありませんでした。仲間が明日の朝を迎えるための、手段でした」
カイルはここで、広場全体を見渡した。震えを残したまま、しかし、今夜で一番、はっきりした声で。
「兄上が今夜、生きてここに立っていたら——こう言ったと、私は信じています」
カイルは一拍、置いた。
「——『独立は、目的ではない。手段だ』」
広場が、凍った。
「——『お前たちは、その手段を、今夜、自分の手で燃やしてはならない』」
カイルの声に、昔聞いた兄の声が、最も濃く、混じった瞬間だった。前列の元魔法兵たちが、息を飲んだ。何人かが、目を伏せた。その目の伏せ方が、かつて戦場でレイグの声を聞いた者たちの、記憶の中の仕草と、重なっていた。
カイルの震えが、戻った。最後の言葉を出した。
「——『歩き続けろ。苦難を苦難とせず、先人たちのように』」
その言葉を言い終えた時、カイルは自分が言ったことに、少し驚いた。「苦難を苦難とせず」——それは、さっき自分が広場に向けて言った言葉だった。その言葉が、なぜ今、兄の声として戻ってきたのか。カイルには分からなかった。しかし言葉は、既に出ていた。
「——それが、兄上が今夜、この広場で、皆さんに伝える言葉だったと、自分は信じています」
広場が、静かになった。
長い沈黙だった。
バルトは壇の上で動かなかった。しかし、目が、遠くを見ていた。過去を見る目だった。レイグと戦場で並んで立った日々を見る目だった。殿軍を志願したレイグを止められなかった自分を、見る目だった。
やがて、バルトは壇の手すりから手を離した。ゆっくりと、降りてきた。カイルの前に立った。
バルトはカイルより頭一つ大きかった。しかし、今、二人の顔の高さの差が、カイルには気にならなかった。
「——お前の話は、宰相の話だ」
バルトは低い声で言った。
「宰相の論理で、宰相の戦略を説いている。——しかし、お前は、宰相の命令を破って、密輸の情報を出した。それは、宰相の口ではない。お前の口だ。——そして、お前は、自分が罪を抱えた連中と同じ場所に立った、と言った。それも、お前の口だ。——そして、レイグの名前も、お前の口だ」
バルトの声が、一段、低くなった。
「お前の口から、俺は、三つの声を聞いた。宰相の声と、お前自身の声と——あいつの声と」
あいつ。レイグのことだった。バルトはレイグの名を、今夜、直接出した。
「俺は今夜、あいつの声に負けた」
バルトはそう言って、カイルの肩に片手を置いた。重い手だった。石工の手だった。
それから、壇の上の群衆に振り向いた。片手を上げた。
「——退け」
低い声だった。広場の隅まで響かない声だった。しかし最前列の者たちが聞いた。隣に伝えた。伝わっていった。波紋のように、広場の奥まで、「退け」という言葉が広がっていった。
「今夜の集会は——中止だ」
群衆がざわめいた。一斉に動いた。しかし動きは、怒りの動きだけではなかった。困惑と、不満と、諦めと、そして——一部の者たちの中の、密かな安堵と——それらが混じった動きだった。カイルの段階二と段階三の言葉が、群衆の一部に届いていた。完全にではない。しかし確かに届いていた。
若者たちの中から、抗議の声が上がった。
「バルト殿、なぜだ」
「我々は、五年以上待った」
バルトは答えなかった。ただ、壇の上から降りて、群衆の間を歩いた。広場の奥へ向かった。数人の側近が後に続いた。バルトの背中は、普段よりも一回り小さく見えた。
カイルはその背中を、見送った。
見送りながら、気づいた——バルトは今夜、自分の統率力の一部を失った。若者たちの中に、「バルトは裏切った」という不満の種が残った。その種は、いつか芽吹く。しかし同時に、バルトは街の未来を選んだ。その選択の重みを、バルト自身が誰よりも理解していた。
得たものと失ったものが、同じ重さだった。
カイルは広場の中央に一人立っていた。松明の火はまだ燃えていた。しかし熱は、急速に、冷めていた。
広場を出る前に、一瞬、振り返った。
トーヴァの手帳の男たちを、もう一度、目で探した。家族を失った老兵は、まだそこに立っていた。しかし少し、肩の力が抜けていた。心を壊した若い男は、歌の歌詞を呟くのを止めていた。片腕の男は、拳を握るのを止めていた。戦後生まれの若者たちは、困惑の顔だった。——そして、罪を抱えた静かな男たち。彼らは、カイルの方を見ていた。そのうちの一人が、カイルに対して、わずかに頭を下げた。ほとんど分からない程度の頷きだった。しかしカイルは見た。
カイルは彼に対して、同じくらい、わずかに頭を下げ返した。
それが、今夜の、唯一の「対話」だった。言葉ではなく、頭の動きだけで行われた対話。「私はあなたを知っている。あなたも私を知っている」という確認だけの対話。
カイルは広場を出た。
王宮に戻る道は、来た時よりも長く感じられた。足は震え続けていた。しかし歩けた。歩きながら、カイルは自分の身体の変化を観察した。五年前、オルデンに拾われた時の自分は、今夜を歩けなかっただろう。三年前の自分も、歩けなかっただろう。一年前の自分も、多分、歩けなかった。
今夜歩けたのは、五年間の積み重ねだった。オルデンの横で、オルデンの思考を内面化し、オルデンの言葉を自分の言葉として使えるようになった五年間。その積み重ねが、今夜、オルデンに背くための力になった。オルデンが育てた力で、オルデンに背いた。
しかし、もう一つ、カイルは気づいていた。今夜の言葉の中に、オルデンの声ではない、別の声が混じっていた。バルトが指摘した「あいつの声」——レイグの声。カイルは五年間、オルデンから学んできた。しかし同時に、もっと前から、次兄から受け継いでいた何かが、今夜、使われた。カイル自身も気づかないうちに。
兄が残したものが、自分の中にあった。兄が星を見せてくれた夜から、今夜まで、ずっと沈殿していた。沈殿物が、今夜、言葉の中で一瞬だけ光った。
宰相府には、寄らなかった。
閣下への報告は、明日でもよい。いや、明日ですら早いかもしれなかった。今夜、カイルが閣下の前に立てる言葉を、カイルは持っていなかった。命令に背いたという事実と、街が燃えなかったという事実と——その二つの間に、どんな言葉を並べれば閣下の金色の目に応えられるのか。分からなかった。
今夜は、ただ、王宮に戻る。それだけを、自分に許した。
坂道の途中で、カイルは一度、立ち止まった。
振り返らなかった。前も見なかった。ただ、その場に立っていた。
身体の震えが、ようやく、止まり始めていた。震えが止まると、疲労が来た。疲労の奥に、何か、別の感覚があった。名前のない感覚だった。喜びではない。安堵ではない。達成感でもない。——もう少し、冷たいものだった。
「何かを越えた」という感覚に、最も近いかもしれなかった。
しかし何を越えたのか、カイルにはまだ分からなかった。オルデンとの関係の一線か、自分の中の「道具」という自己規定か、あるいは「沈黙を守ったまま判断する」という境界か。
分からないまま、坂を上り続けた。
王宮の回廊で、リーネが待っていた。
いつものように、小さな盆を持って。煮出し湯とパン。
「カイル兄、遅かったね」
「……ああ」
「顔が——」
リーネはカイルの顔を見た。しばらく見ていた。それから、何も聞かなかった。ただ、盆を差し出した。
「——熱いうちに、飲んで」
「……ありがとう」
カイルは盆を受け取った。湯の椀を両手で包んだ。手がまだ微かに震えていた。湯の温度が、手のひらから、ゆっくりと身体に伝わった。
リーネは隣に立っていた。何も言わずに。カイルが湯を飲み終わるまで、ただ、そこにいた。
カイルは湯を飲み干した。
「——リーネ」
「うん」
「今日、兄として、一つ、何かをしたかもしれない」
「……兄として?」
「分からない。——ただ、そう感じた」
リーネは少し首を傾げた。それから、小さく頷いた。
「うん。——カイル兄がそう感じたなら、それは本当のことだと思う」
カイルは空の椀をリーネに返した。
窓の外で、光の谷が光っていた。夜の地脈の光。レイグが子供の頃に自分を連れて見せてくれた光と、同じ光だった。
今夜、その光を、カイルは守った。——あるいは、守ろうとした。結果はまだ分からない。しかし、試みたことだけは、今夜、記録に残る。
公式の記録には、書けない夜だった。「閣下に提出しない記録」にも、書くのは明日にしよう。今夜は、身体が動かない。ペンも持てない。
カイルは自室に入り、寝台に倒れた。眠れるかどうかは、分からなかった。しかし、倒れた。
窓の外の光は、朝まで、ずっと光っていた。




