第2話 角を隠す日
鏡を見ずに巻けるようになったのは、いつからだったか。
カイルは両手を額の上で動かし、布の端を角の根元に挟み込んだ。灰色の麻布。薄手だが目の詰まった織りで、角の輪郭を消すには十分な厚みがある。右の角を覆い、布を後頭部に回し、左の角も包み、結ぶ。角の根元が布に押されて鈍く痛む——以前はもっと痛かった。皮膚が慣れたのだ。角を隠すことに、身体が順応している。
慣れた。
慣れたということが、少しだけ重かった。
「カイル兄、食べて」
リーネが盆を持って部屋に入ってきた。
朝食は高原麦の黒パンと干し肉、それに薬草の煮出し湯。煮出し湯の椀からは、淡い湯気が立っている。椀の底に小さな魔素灯がはめ込まれていて、冷めないように微かな熱を保っていた。精製された魔素を封じた小石——民生用の魔導具の中で最も単純なものだ。灯りを点け、湯を温め、鍛冶の炉を熾す。占領下でも許された、日常のかけらだった。
王族の食事としては質素だが、街では黒パンすら手に入らない家がある。
リーネの目はまだ腫れていた。三日経っても消えていない。しかし声は出ている。朝食を持ってきた。それだけで——充分だった。
「……ありがとう」
「食べてね。ちゃんと」
リーネは盆を机に置き、カイルの角の布を見て首を傾げた。
「少し曲がってる」
カイルの手が止まった。リーネが手を伸ばし、後頭部の結び目を直した。妹の指が、布越しに角の根元に触れる。竜人の角は感覚がある。爪に近い——押されれば圧を感じ、折られれば激痛が走る。布で覆っていても、触れられれば分かる。
こういう時、リーネの年齢を忘れそうになる。45歳——大戦が始まった頃は、人間で言えばまだ十二、三の子供だった。王宮の奥で、戦争の実情はほとんど知らされずに育った。気づいた時には占領が始まり、角を隠す生活が当たり前になっていた。
「はい、できた」
「……ありがとう」
同じ言葉を二度言った。他に言葉が見つからなかった。
王宮から上市街へ下る坂道は、朝の霧で白く煙っていた。
高原の冬の空気は薄く、乾いている。息を吸うと肺の奥が冷たくなる。標高が高いのだ。竜人の国アストラードの首都ヴェルデンは、大陸中央の山岳高原の尾根に築かれた城塞都市で、周囲を「光の谷」と呼ばれる深い谷に囲まれている。街は尾根の上に細長く伸び、一番高い場所に王宮、中腹に官庁街、裾に市場と工房と民家——そして今は、占領者の監督府がある。
石造りの回廊が街路に沿って続いていた。アストラードの石——高原の岩盤から切り出した灰褐色の石材で、数百年前に積まれたものだ。回廊の天井は、竜人の背丈に合わせて高く取られているが、角を布で隠さなければ天井の梁に引っかかる者もいただろう。もっとも、今は引っかかる者はいない。
回廊の柱には、ところどころに魔素灯が埋め込まれていた。夜になると淡く光る小さな石——地脈から採った魔素を封じた照明具で、火を使わずに回廊を照らす。アストラードの街では、炎の代わりに魔素灯が灯りの主役だった。壁掛け燭台の代わりに、石の窪みに魔素灯がはめ込まれている。占領前は道の端にも精製所の灯りにも、もっと強い光があったという。今は、許可された小規模な魔素灯だけが、かすかな光を保っている。
通りを歩く竜人たちは、皆、角を布で覆っていた。白い布、灰色の布、黒い布。中には花柄の布を巻いた若い女がいた。せめてもの抵抗か、あるいはただの装飾か。カイルには分からなかった。
竜人の体格は人間より一回り大きい。男で人間の頭半分、女でも拳ひとつは上背がある。しかし角を隠し、首を縮め、肩を落として歩く竜人たちは、その体格の優位を自ら消していた。通りの向こうからレガリオンの巡回兵——灰色の軍服に身を包んだ人間族の二人組——が歩いてくると、竜人たちは自然と道の端に寄った。兵士たちは竜人より小柄で、角もなく、首筋に鱗もない。しかし彼らの腰には剣があり、背後にはレガリオンという大国がある。
カイルの角は——王家ヴァルドラーク家の中で最も貧相だった。細く、短く、布で隠してしまえば角があるかどうかも分からない。首筋と手の甲にうっすらと鱗があるが、それも目立たない。長兄セルヴァンの左右対称の美しい角とも、戦死した次兄レイグの力強い角とも違う。カイルは角のことを気にしたことがなかった。気にしても仕方がない。
上市街と下市街の境で、レガリオン兵の検問があった。木と石で組まれた簡素な関所。通行する竜人が一人ずつ止められ、身分を確認される。
カイルの二人前で、年配の竜人の男が止められていた。商人だろう。荷車を引いている。荷は高原麦の袋と、魔素灯の空き殻——使い終わった魔導具の回収品だ。レガリオンの兵士——人間族の若い兵が、書類を要求した。竜人の商人は兵士を見下ろす格好になる。体格差がそうさせる。しかし商人は腰を折り、丁寧に頭を下げ、懐から通行証を出した。兵士がそれを確認し、顎で「行け」と示す。商人は再び頭を下げて通り過ぎた。
兵士が次の者に目を向けた瞬間、商人が連れの竜人に向かって吐き捨てるのが聞こえた。
「短命種の小僧が」
小声だったが、カイルの耳には届いた。
占領されて数ヶ月。頭を下げさせられ、角を布で隠し、精製所を接収され、王族が処刑された。それでも——竜人の根にあるものは消えていない。六十年しか生きない人間を見下す感覚。自分たちは竜の末裔であり、大陸で最も高貴な種族だという意識。
カイルはそれを聞いて、何も感じないふりをした。
——その傲慢は、自分の中にもある。
宰相府は上市街の中腹にあった。灰褐色の石造り二階建て。屋根は高原特有の急勾配で、冬の雪が滑り落ちるように設計されている。回廊で官庁街の他の建物と繋がっており、外に出ずに移動できる。大戦前は文官たちで賑わっていたというが、今は半分以上の部屋が空いている。職員の多くは処刑されたか、職を追われたか、逃げたかした。空いた部屋の扉が回廊に並んでいる。閉じた扉の向こうに、誰かの机と、誰かの記録が残されているのだろう。
「殿下、おはようございます。今日の予定は——」
宰相府の廊下で、トーヴァが書類の束を抱えて待っていた。赤みがかった茶髪を実用的に束ね、そばかすの浮いた丸顔。108歳——カイルよりかなり年長の、平民出身の事務官。角は平民の標準的なもので、灰色の布できっちりと巻かれている。
トーヴァは処刑のことに触れなかった。カイルが王族であること、三兄が処刑されたことは知っているはずだ。しかし何も言わない。代わりに書類の束を差し出す。占領者レガリオンが設置した統治機関——監督府と宰相府の間を、書類が毎日行き来している。
「翻訳の依頼が三件、宰相閣下の会議記録の清書が一件、あと——」
「分かった」
「あと、精製所の月次稼働報告書が届いてます。数字ばっかりですけど」
「机に置いておいてくれ」
「了解です。あ、殿下」
「何だ」
「お茶、淹れましょうか。顔色が悪いので」
「……頼む」
トーヴァは頷いて、足早に去った。背中を見送りながら、カイルは少しだけ息を吐いた。この人間は処刑に触れない。触れないことが——今は、助かる。
カイルの仕事は三つだった。記録すること、翻訳すること、連絡すること。
記録——宰相オルデンの会議や交渉の内容を正確に書き留める。翻訳——レガリオン語の公文書を竜人語に訳す。連絡——宰相府と監督府の間を行き来し、書類を届け、伝言を伝える。
王族としての「格」があるため、監督府の執政官と直接顔を合わせることができる。宰相府の文官では執政官との同席すら許されない。カイルが選ばれた理由の一つは、この血統だった。もう一つが何であるかは——オルデンは言わなかった。
執務室に入ると、窓際の机に朝の光が差していた。机の上にはインク壺と数本のペン、未処理の書類の束、そしてトーヴァが置いた精製所の報告書。壁には高原の地図が貼られている。地脈の流れが青い線で描かれた古い地図で、大戦前に作られたものだ。今はこの青い線の上にある採掘施設と精製所が、全てレガリオンの管理下にある。
翻訳の手を動かしながら、カイルは地脈のことを考えた。
魔素——星の光の残滓。夜空の星の光が大地に降り注ぎ、何万年もかけて地下に沈殿・蓄積されたもの。それが魔素だと、竜人は信じている。魔素は目に見えないが、地脈——魔素が集中して流れる地下の脈——の上では、夜になるとかすかな光が地表に滲み出る。あの光の谷の青白い光が、それだ。
魔素を地脈から引き出し、精製し、魔素製品に封じて使う。灯りに。暖に。鍛冶に。農業に。そして——かつては、戦争に。
アストラードの高原は地脈が豊かだった。その豊かさが竜人に力を与え、竜人の軍事力を支え、大戦を可能にし——そして枯渇が、敗北をもたらした。
今、その地脈はの上にある精製所も採掘施設も、占領軍の兵が押さえている。正式な条件はまだ通告されていないが、実態として動かせない。竜人に許されているのは、民生用の小規模な魔素利用だけだ。椀を温める魔素灯。回廊を照らす石の灯り。日常の魔法は辛うじては続いているが、かつての力は——遠い。
午後、オルデンの指示で監督府に書類を届けた。
下市街の中心にある監督府は、レガリオンの灰色の煉瓦で造られた塔だった。四階建て。アストラードの灰褐色の石とは色が違う。質も違う。石の街の中に、煉瓦の建物が一つだけ立っている。窓の形も違う——アストラードの建物は縦長のアーチ窓だが、監督府の窓は四角い。細部に至るまで、この建物は「ここは別の国だ」と主張している。
入口でレガリオンの兵士に止められた。
「角の布を確認する」
カイルは黙って頭を下げた。兵士の顔が近づく。人間族の顔——角がなく、鱗がなく、耳が丸い。寿命は六十年から八十年。竜人の三分の一以下の時間を生きる種族。兵士が布の端をめくり、角が完全に隠されていることを確認する。規則だった。角を露出させた竜人は監督府に入れない。
頭を下げながら、カイルの身体が覚えていることがある。
かつて——域外民政局では、竜人の兵が他国の民の通行証を確認していた。「竜人の保護」の名の下に駐留した周辺国で、小柄な民を見下ろし、書類を要求し、頭を下げさせていた。
今、自分が頭を下げている。
この対称を、カイルは言葉にしない。身体だけが知っている。
夕暮れの高原を王宮に向かって上る坂道は、朝より少しだけ楽だった。帰りは上りだが、監督府から離れるほど、呼吸が楽になる気がした。
上市街を抜け、王宮の門が見える場所で足を止めた。
西の空が赤く染まっている。高原の冬は日が短い。赤い空の下に、ヴェルデンの街並みが影絵のように浮かんでいる。石造りの屋根が連なり、回廊のアーチが連なり、その向こうに監督府の灰色の塔が突き出ている。
もうすぐ暗くなる。暗くなれば——光の谷が光り始める。地脈の光。あの淡い青白い光。
レイグに連れ出されたのは、もう何十年も前のことだ。あの頃——。
カイルはその記憶を押し込めた。あの頃のことは、今は考えない。あの頃の自分が何をしていたか、何の仕事をしていたか——考えない。
王宮に戻ると、リーネが回廊で待っていた。王宮の回廊には魔素灯が多い。民家より贅沢な光だ。暖かな光の中に、リーネの灰銀の髪が揺れていた。
「カイル兄、おかえり」
「……ただいま」
「ごはん、持ってくるね」
「自分で——」
「持ってく」
有無を言わさない口調だった。リーネは踵を返して厨房の方に駆けていった。角の布を巻いていない末妹の後ろ姿——まだ成長途中の細い角が、魔素灯の光を受けてかすかに光った。王宮の中では角を隠さなくていい。ここだけが、竜人が竜人のままでいられる場所だった。
カイルは少しだけ口元が緩むのを感じた。
夜、自室で記録を書いた。昨日は書けなかった。今日は書けた。ペンを動かすと、呼吸が安定する。背筋が伸び、思考が整理される。これだけが——自分の場所だと感じられる行為だった。
書くことは、沈黙の代わりだった。口で言えないものを、筆なら残せる。いや——残せるのではない。書けば「終わったこと」になるのだ。その日のうちに紙に封じ込めれば、それは「書かれたもの」になり、身体からは少しだけ離れる。完全には離れない。しかし毎夜の封じ込めがなければ、たぶん自分はどこかで壊れる。
カイルは自分が「感じる資格がない」と思っていた。次兄が前線で死に、自分は後方で生きていた時に、すでにその資格は返上したはずだった。——しかし、ペンを握る時だけは、感じていいような気がした。誰にも見せない記録の中だけなら。
リーネが隣の部屋から入ってきて、隅に座り、本を開いた。何を読んでいるのかは知らない。読んでいるかどうかも分からない。ただ、同じ部屋にいる。魔素灯の淡い光が、二人の影を壁に映していた。
窓の外で、光の谷がかすかに光っていた。
ペンを止めて、その光を見た。イルヴァンはもうこの光を見ることはない。レイグもいない。この光を見ているのは、自分とリーネだけだ。
——記録を書き終えた時、机の上にトーヴァが残していた書類があった。精製所の月次稼働報告書。数字の羅列。今は目を通す気力がない。明日にしよう。
翌朝、宰相府の机にオルデンの直筆の書状が置かれていた。
「明日、執務室に来い。話がある」
【豆知識:竜人の角】
竜人族の頭部に生える一対の角は、魔素親和性の視覚的な指標として代々見られてきた器官です。魔素を地脈から引く時に淡く発光し、軍事魔法の行使時には白く強く輝きます。角の太さや色艶は、年齢・血統・健康状態を表します。
現在、レガリオンの占領下では布で覆うことが義務付けられ、角を晒して公の場に出ることは重罪です。灰色の麻布を巻く動作が、占領下の竜人の日常の出発点になっています。




