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第3話 敗戦の記録

宰相オルデンの執務室は、宰相府の二階の奥にあった。


 宰相府で働いていても、オルデンと直接言葉を交わす機会はほとんどない。カイルが知っているのは廊下で見かける後ろ姿と、宰相府の文官たちの噂話だけだ。「あの方は腹心にすら本心を見せない」「怒った顔を見た者はいない——怒る代わりに丁寧になる。丁寧になったら逃げろ」「大戦の前から宰相府にいるのに、友人がいた試しがない」。


 敗戦後、王家から全権を委任された男。毒杯を——自ら飲んだのか、飲まされたのか。どちらなのかすら、宰相府の文官たちは知らない。


 廊下の突き当たりに、重い樫の扉がある。ノックをすると、低い声が返ってきた。


「入れ」


 扉を押すと、薬草の匂いがした。


 部屋は広くなかった。宰相の執務室としては質素だ。壁一面に棚があり、書類と綴じ本が隙間なく詰まっている。窓は一つ。高原の朝の光が、斜めに差し込んでいた。


 窓際の机にアストラードの宰相——170歳の老竜人オルデン・ドレーヴェンが座っている。


 第一印象は——静かさだった。


 白髪を短く刈り込み、深い皺が刻まれた顔。旧貴族の出身だという。長身だが痩せている。姿勢が崩れない。170歳の老体がそこに座っているのに、椅子に「もたれている」という感じがしなかった。座っているのではなく、そこに在るという感覚。角は太く、後方に反るように伸びている。老いてなお立派な角だ。——布は巻いていなかった。この部屋では巻かないのか、あるいは巻くつもりがないのか。顎から首にかけて銀灰色の鱗が目立つ。竜人の中でも、年を重ねた者は鱗の色が深くなるという。


 机の上に茶碗がひとつ。小さな陶器の急須と、乾燥した薬草の束が脇にある。湯気が立っている。薬草の匂いの正体だった。自分で淹れたのだ——宰相が。給仕に任せず、薬草を選び、湯を注ぎ、待ち、自分の手で淹れる。その所作だけが、この男の中に残る旧貴族の名残なのかもしれない。


 カイルが入ってきても、オルデンは顔を上げなかった。手元の書類に目を落としたまま、左手を背に回している。旧貴族の立ち姿の名残だとカイルは後に知るが、この時はただ「待て」と言われている気がした。


「座れ」


 ようやく声が出た。低く、遅い。一語ずつ重さを量っているような話し方だった。無駄な言葉がない。挨拶がない。世間話がない。必要な言葉だけが、必要な分量だけ出てくる。


 カイルは部屋の中央にある椅子に腰を下ろした。


「お前が書いていた記録がある。大戦の記録だ」


 カイルの手が止まった。左手の親指が、無意識に薬指の付け根を擦った。


「……はい」


「見せろ」


「——お持ちします」


「今日中に」





 王宮に戻り、自室の棚から記録の束を取り出した。羊皮紙に細かい字で書かれた、数年分の記録。大戦末期の戦況、敗戦の経緯、占領の始まり。誰に見せるためでもなく、自分が忘れないために書き留めたものだ。


 記録を抱えて宰相府に戻る道で——カイルは次兄レイグのことを考えていた。


 なぜ今、レイグなのか。三兄イルヴァンを失ったばかりだからだ。イルヴァンの処刑が、もう一つの喪失を呼び覚ました。





 レイグ・ヴァルドラーク——王家ヴァルドラーク家の第二子。大戦中に前線で戦死した、王族で唯一の軍人。


 カイルにとってのレイグを語るには、まず自分の幼少期を語らなければならない。


 カイルは王家の第六子として生まれた。末席の王子。王位継承とは無縁であり、政治にも軍事にも——何にも関わる理由がなかった。


 長兄セルヴァンは生まれた時から「次の王」として育てられた。次兄レイグは軍人の道に進んだ。三兄イルヴァンは外交官。姉アーシャは門閥との婚姻で王家と経済界を繋ぐ駒。五兄ネイルは神官として王宮の奥に入った。全員に役割があった。カイルだけが「まだ何者でもない末弟」だった。


 王宮でのカイルの立場は、空気に近かった。


 使用人たちは丁寧に接したが、それは王族の血への敬意であってカイル個人への関心ではなかった。「六番目の殿下」と呼ばれた。名前ではなく、序列で。長兄セルヴァンは幼いカイルを見る時、値踏みをする目をした——この末弟にどんな利用価値があるか、計算する目だ。父である国王ヴェルディンは、カイルに関心を持つこと自体が稀だった。王宮の広い回廊を一人で歩いている時、カイルは自分がこの建物の装飾品の一つに過ぎないと感じることがあった。角が小さく、鱗が薄く、体格も王族としては貧弱なカイルは——見た目すら装飾品として役に立たなかった。


 兄弟の中で、カイルに「名前」をくれたのは二人だけだった。


 一人はイルヴァン。三兄は穏やかな外交官で、王宮の回廊ですれ違う時に「カイル」と声をかけてくれた。しかしイルヴァンは忙しかった。各国を飛び回る外交官には、末弟と過ごす時間は限られていた。


 もう一人が——レイグだった。レイグは声をかけるだけでなく、連れ出した。





 レイグは王族らしくない男だった。


 竜人の軍・竜牙衛に入ることを自ら志願した。王族が軍に入るのは異例だった。セルヴァンは「物好きな」と言い、父王は黙認した。レイグにとって王宮は窮屈だったのだろう。政治の駆け引きも、外交の婉曲話法も、門閥との付き合いも——合わなかった。声が大きすぎた。嘘がつけなすぎた。感情がそのまま音量になる人間に、宮廷は向いていない。


 軍ではレイグは水を得た魚だったという。王族の肩書きを使わず、一兵卒と同じ訓練を受けた。平民出身の兵士と同じ寝床で寝た。上官に「王族の坊ちゃんが来た」と言われれば「坊ちゃんでも剣は振れます」と笑った。その笑い方が——声が大きくて、隣の天幕まで聞こえたという。


 やがて実力で魔法兵団の前線指揮官にまで昇進した。王族の血ではなく、戦場での判断力と、部下に慕われる人柄で。


 しかし幼いカイルにとって、レイグは軍人ではなかった。ただの「兄」だった。


 レイグが王宮に戻る日は、回廊に声が響いた。大きな声で使用人に挨拶し、厨房に顔を出して飯を催促し、庭を横切る時に花壇を踏みそうになって庭師に叱られた。王宮の空気が変わった。静かな建物に、風が入ってくるようだった。


 そしてレイグは、必ずカイルを探した。


「カイル。元気にしてたか」


 名前で呼んだ。序列ではなく。「六番目の殿下」ではなく、「カイル」と。王族の中で、カイルの名前を呼ぶことに何の意味も持たせなかったのは、レイグだけだった。セルヴァンが「末弟」と呼ぶ時、そこには序列の確認がある。イルヴァンが「カイル」と呼ぶ時、そこには優しい兄の配慮がある。レイグが「カイル」と呼ぶ時——そこには何もなかった。ただの名前。ただの弟。それが——一番重かった。


 レイグは手先が不器用だった。報告書は常に部下が書き直していたし、王宮で使う筆記具を握ると指が攣った。しかし手が大きかった。カイルの肩に置かれる手は、大きくて温かかった。肩に手を置くのがレイグの癖だった。カイルにも、部下にも、初対面の兵士にも、同じようにした。身分で人を分けない人だった。


 星を見に行ったのは、カイルが二十歳にもならない頃だった。人間で言えば七つか八つの子供。レイグが王宮の裏手から丘に連れ出した。カイルはレイグの手に引かれて、息を切らしながら坂を登った。レイグの肩には暗金色の鱗があった。鱗に触れると硬くて温かかった。


「見てみろ」


 レイグの声は、夜の高原にも遠慮なく響いた。


 丘の上から見下ろすと、光の谷が光っていた。地脈の光——青白い、かすかな光が、谷底の草の根元から滲み出ていた。星明かりの下に、大地が自分の光を返している。


「きれいだな」


 レイグはそう言った。軍人が「きれい」と言った。王宮では誰も使わない、飾りのない言葉を。


 あの夜、カイルは初めて「自分がここにいてもいい」と思った。王宮では何者でもなかった自分が——レイグの隣にいる時だけは、ただの弟でいられた。それは役割ではなかった。期待でも、利用でもなかった。ただ——一緒にいた。





 しかしレイグは、竜牙衛の魔法兵団の指揮官でもあった。


 あの大きな手が、戦場では何をしたか。あの声が、何を命じたか。カイルはそこから目を逸らす。温かい記憶の影に、見たくないものがある。イルヴァンを失ったばかりの今、レイグの記憶がなおさら鮮烈に浮かぶ——だからこそ影も濃い。


 この記憶は正確だろうか。四十年以上前の夜の光を、自分は本当に覚えているのか。レイグの手の温かさを。声の大きさを。「見てみろ」という言葉を。覚えていたいように、記憶を書き換えてはいないか。





 レイグの訃報を受けたのは、大戦の末期だった。


 あの時、自分は——


 ——カイルの思考が止まった。


 あの時、自分は何をしていたか。どこにいたか。誰の隣にいたか。


 記憶はある。正確に覚えている。しかし今は——書けない。語れない。あの場所の名前を、あの時していた仕事の内容を、口にすることができない。


 兄は誇りのために死んだ。


 自分は——恥のために、生きている。


 イルヴァンは処刑で死に、レイグは戦場で死に、自分はまだ生きている。名前をくれた二人の兄を失った。





 宰相府に戻ると、オルデンの執務室の扉が開いていた。


 記録の束を差し出した。オルデンは無言で受け取った。片手で受け取り、もう片方の手は茶碗に添えたまま——同時に二つのことをする人間の手だった。


 最初の一枚を読み始めた。目を動かす速度が速い。ペンを取り、余白に何かを書き込む。カイルの記録に——書き込んでいる。数枚をめくり、途中の一枚で手を止め、何かの数字を指でなぞった。唇が微かに動いた。数字を暗算しているのか。


 カイルは椅子に座ったまま、待った。オルデンはカイルを見ない。記録だけを見ている。カイルという人間がこの部屋にいることを、忘れているのではなく——必要がないから見ない。そういう沈黙だった。


 茶碗の湯気が消えた。薬草茶が冷めていく。どれほどの時間が経ったか分からない。


「——使える」


 オルデンが目を上げずに言った。


 カイルの内側で何かが軋んだ。


 喉の奥が乾いた。唾を飲み込もうとして、飲み込めなかった。奥歯が一度だけ、小さく鳴った。


 この記録は、誰かに見せるために書いたのではない。忘れないために書いた。自分が見たものを——自分がいた場所を——消さないために書いた。個人的な、ほとんど祈りに近い行為だった。


 それを「使える」と言われた。


 道具にされる覚悟は、あった。末席の王子の務めはそれだと、子供の頃から理解していた。しかし祈りを道具にされるとは——思っていなかった。祈りは、祈る者と受け取る者の間のものだ。カイルにとって、その「受け取る者」は誰だったのだろう。次兄か、三兄か、未来の誰かか、それとも書くこと自体が祈りの宛先だったのか。答えは出ないまま、祈りは今夜、別のものに変わった。


「明日から、お前は監督府の交渉に同席する」


 オルデンは記録から目を上げず、言った。


「……交渉、ですか」


「占領軍の執政官がまもなく正式に着任する。交渉の場で、やり取りを正確に記録する人間が要る。レガリオンの言語もできるな」


「……はい。多少は」


「多少ではなく、実務で使える程度にはできると聞いている」


「お前の目と手が欲しい。口は要らない」


 オルデンの目が初めてカイルを見た。金色に光る鋭い目。深い皺の奥に、何かが光っている。計算か。期待か。あるいはもっと別の何かか。カイルには読めなかった。


「……はい」


 間があった。その間に飲み込んだ言葉がある。





 宰相府の廊下に出ると、同僚のトーヴァが書類を抱えて待っていた。


「殿下、長かったですね。宰相閣下と何かありました?」


「……記録を見せた」


「あの大戦の? 殿下がずっと書いてた記録ですか。宰相府では有名ですよ、王宮の王子様が毎晩一人で何か書いているって」


「……そうか」


「で、宰相閣下はなんて?」


「使える、と」


「あー、宰相閣下らしい」


 トーヴァは笑った。屈託のない笑いだった。処刑の数日後に、この同僚は笑える。それは鈍感さではないだろう。占領下を生きるとは、悲しみ続けることを生活が許さないということだ。


 宰相府を出て、王宮への坂を上る。


 レイグがいたら——「使える」と言われた自分に、何と言っただろう。たぶん笑っただろう。大きな声で。「よかったな、カイル」と。意味も分からず、ただ嬉しそうに。


 もうその声は聞こえない。

【豆知識:地脈の恵み】


アストラードは大陸中央の高原に築かれた国で、その地下には大陸有数の豊かな「地脈(魔素の源)」が走っています。首都ヴェルデンの王宮は高原の尾根の最高点にあり、王宮の三方を地脈の露頭——「光の谷」が天然の防壁として囲む地形です。

谷沿いには精製所が並び、そこから首都の工房・家々へ魔素が供給されます。竜人族の先祖がこの厳しい高原を選んだのも、地脈への近さが理由でした。独立を阻む最大の理由も、この地脈への占領軍の執着です。

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