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第1話 三兄の朝

三兄の角が、朝の光を受けて白く光っていた。布で隠す必要は、もうなかった。


 竜人の角は、かつて大陸を震わせた力の証だった。地脈から魔素を引き、大地を裂く——その力を背景に、竜人の国アストラードは大陸の覇権を握りかけた。「竜の末裔」を自負する種族の傲慢は、周辺国への介入となり、やがて大陸全体の反発を招いた。大戦が起き、敗れた。今、角は布で隠され、国は人間の大国レガリオンの占領下にある。


 三兄が処刑の朝に角を晒しているのは——これが最後だからだ。


 高原の冬の朝は空気が薄い。吐く息が白くなり、石畳に霜が降りている。カイルは王宮の門を出て、坂を下り始めた。上市街の石造りの回廊を抜け、下市街へと続く道。その両側に、レガリオンの兵士が等間隔に立っていた。


 灰色の軍服。手には長槍。占領者——人間の大国レガリオンの兵士は竜人より小柄だが、彼らの背後にある灰色の煉瓦の塔——レガリオンの占領統治機関、監督府の塔が、この街で最も高い人工物として空を塞いでいた。竜人の国アストラードの石ではない。レガリオンから運ばれた煉瓦で、占領の翌月に建てられた。街の中に、別の国が刺さっている。


 道の両側には竜人たちが立っていた。角を布で覆い、顔を伏せ、声を出さない。白い布、灰色の布、黒い布。巻き方は人それぞれだったが、隠しているという事実だけは同じだった。


 今日、布を巻いていない角は——死刑囚のものだけだ。


 カイルの左手の親指が、無意識に薬指の付け根を擦っていた。


 二年前、この道に立っていたのはレガリオンの兵ではなかった。アストラードの兵——竜人の軍、竜牙衛の兵士が、周辺国の道に同じように立っていた。角を隠さず、胸を張り、通り過ぎる民に身分証の提示を求めていた。


 あちらの民も、こんな目をしていたのだろうか。


 その考えが浮かんだ瞬間、カイルはそれを押し込めた。今日は、そんなことを考える日ではない。今日は——三兄が死ぬ日だ。





 処刑場は下市街の広場だった。監督府の塔の影が、冬の低い陽光で広場を半分に切っている。日向と日陰の境目に、木の台が組まれていた。


 面会は許されていた。レガリオンの執行官が「十分間」と言い、石造りの牢の扉を開けた。


 三兄イルヴァン——カイルと同じ竜人の王家ヴァルドラーク家の王族で、大戦中に和平交渉を試みた外交官——は、壁にもたれて座っていた。


 三兄は穏やかな顔をしていた。125歳——竜人の寿命は200年から300年に及ぶ。まだ壮年の手前だ。外交官として各国を歩いた顔には、牢の中にあっても、ある種の落ち着きがあった。角は磨かれてはいないが、光を受けて白く輝いている。布で隠す日々から、最後に解放された。


「カイル」


 三兄が名前を呼んだ。王家では珍しいことだった。長兄のセルヴァン——王太子であり王家の実質的な当主——は「末弟」と呼び、父である国王ヴェルディンは呼ぶこと自体が稀だ。名前を呼んでくれた兄は——大戦で戦死した次兄レイグと、このイルヴァンだけだった。


「兄上」


 声が掠れた。何を言えばいいか分からなかった。謝るべきか。怒るべきか。泣くべきか。どれも違う気がして、どれも正しい気がした。


「お前が来てくれて良かった。セルヴァンは来ないだろうと思っていた」


 イルヴァンは微かに笑った。カイルは頷くことしかできなかった。長兄は来ていない。


「カイル。お前に一つ、言っておきたいことがある」


 三兄の目は真っ直ぐだった。


「戦争は外交の失敗だ。私はそれを止められなかった。レガリオンとの交渉に時間を使い、和平の道を探った。だが——間に合わなかった。止められなかった者が、その代償を払う。だからこれは正しい」


 正しくない、とカイルは思った。


 イルヴァンは外交官だった。武器を取ったことも、命令を出したこともない。和平を探った人間が殺され、戦争を煽った者たちの多くは既に死に、生き残った者の一部は——処刑リストから外されている。


 正しいはずがない。


 しかし、口が開かなかった。正しくないと叫ぶ言葉が、喉の奥で固まって動かない。


 この沈黙の中に、カイルが飲み込んだものがある。しかしそれが何であるか、カイル自身にもまだ言葉にできなかった。


「——時間だ」


 扉の外から、執行官の声がした。





 広場に出ると、冬の光が目を刺した。


 広場は人で埋まっていた。竜人たちが、角を布で隠したまま、押し黙って立っている。数百人。老いた者、若い者、子供を抱いた母親。誰も声を出さない。しかし沈黙の中に、何かが渦巻いていた。怒り。悲しみ。恐怖。——そしてカイルが最も感じたのは、屈辱だった。自分たちの王族が、自分たちの広場で、他国の者に殺される。それを見ることしかできない。拳を握り、唇を噛み、それでも動けない。動けば——次に殺されるのは自分かもしれない。


 広場の周囲にはレガリオンの兵士が二列に並んでいた。灰色の軍服に長槍。整然とした隊列。竜人たちよりも一回りも二回りも小柄な人間族の兵士が、竜人の群衆を囲んでいる。——だが彼らの顔にも緊張があった。角を隠した数百人の竜人に囲まれている。熟練の竜人兵一人の魔法戦闘力は人間兵百人に匹敵するという。魔素が枯渇した今でも、体格では竜人が上だ。兵士たちの手が長槍を強く握っている。彼らもまた——怖いのだ。


 その恐怖を押し隠すように、兵士たちの姿勢は崩れなかった。揃いの軍服。揃いの立ち方。個では竜人に劣る人間族が、組織として優位を保つ方法——それが「揃える」ことだ。


 木の台の上に、イルヴァンが連れ出されてきた。手は後ろで縛られている。角は白く、朝の光の中で一際目立った。広場で角を見せているのは、死にゆく者だけだった。


 群衆がわずかに動いた。前列の老人が膝をついた。誰かが——声を殺して泣いている。後方で、若い竜人の男が前に出ようとして、隣の者に腕を掴まれて止められた。


 処刑は占領者レガリオンの作法で行われた。裁判はない。判決文もない。人間族の執行官が壇に上がった。背が低い。イルヴァンの胸元ほどの高さしかない。しかしその背の低い人間が、竜人の王族の生死を握っている。執行官は羊皮紙を広げ、レガリオン語で名前と罪状を読み上げた。「イルヴァン・ヴァルドラーク。戦時中の敵対的外交行為」。それだけだった。竜人語への通訳はなかった。


 一方的な通告。竜人の王族を、竜人の言葉ですら裁かない。


 アストラードの宰相オルデンが広場の端に立っているのが見えた。170歳の老竜人。白髪を短く刈り込み、深い皺が刻まれた顔。敗戦後、王家から全権を委任された宰相は、顎を微かに引いていた。カイルはまだこの人物と直接言葉を交わしたことはなかったが、宰相府の片隅で見続けてきた限り、あれが怒りのサインだった。しかし声を出さない。何も言わない。数百人の竜人の中で、この老人だけが動かなかった。


 刃が振り下ろされる音は、思ったよりも小さかった。


 群衆の中で、誰かが声を上げた。短い、押し殺した叫び。それがさざ波のように広がり——しかしすぐに沈黙に飲まれた。レガリオンの兵士たちが長槍の柄で石畳を打った。規則的な、威嚇の音。群衆は押し黙った。


 カイルの手が震えた。視界が白くなった。膝が折れそうになり、隣の石柱に手をついた。


 ——記録しなければならない。何を見たか、どの順番で、どんな音がしたか。いつもはそう考えることで自分を保ってきた。見たものを書く。書けば、出来事になる。出来事になれば、自分は外側に立てる。


 しかし今は——刃が振り下ろされる音の前と後を、正確には並べられなかった。鉄の匂いがしたかどうかも、思い出せない。群衆の叫びが刃の前だったのか後だったのか。記録者としての自分が、最も基本的な順序を失っていた。


 呼吸を整えるのに、どれほどの時間がかかったか分からない。


 ——処刑リストを清書したのは、自分だった。


 レガリオンから届いたリストを、オルデンの指示で竜人語に書き写した。一人一人の名前を、自分の手で、インクで記した。イルヴァン・ヴァルドラークという文字列を、自分の筆跡で書いた。


 そしてそのリストに、自分の名前はなかった。


 安堵が来た。同時に、腹の底が冷えた。安堵したことが——恥ずかしかった。


 オルデンがリストを見た時の反応を、カイルは清書を上から振られた立場では知る由もなかった。「この者は外せ。代わりにこの者を差し出す」と交渉したことも、差し出されたのがオルデンの旧友だったことも——後に文官たちの噂で耳にした。旧友を渡す代わりに、精製技術者の名前をリストから外させた。


 イルヴァンの名前を外す交渉は——なかった。王族の処刑は政治的な意味を持つ。レガリオンにとって「竜人の王家も裁かれた」という事実が必要だった。交渉の余地がない。オルデンもそれを理解していた。


 だが、セルヴァンの名前もリストになかった。


 長兄は王太子だ。政治に関与していた。軍の暴走を止められる立場にいた。それなのに——なぜ三兄が死に、長兄が無傷なのか。


 カイルは答えを知らない。確証はない。ただ——セルヴァンがレガリオンに接触していたという噂は、宰相府の廊下で何度か耳にしていた。





 王宮に戻ったのは、陽が傾き始めた頃だった。


 回廊を歩いていると、長兄セルヴァンが待っていた。


 銀灰の長髪を丁寧に結い上げた王太子は、完璧な微笑みを浮かべていた。角は磨き上げられ、衣装には皺一つない。処刑の日に、この男は自分の身なりを整えていた。


「大変だったろう、末弟」


 穏やかな声。カイルは足を止めた。


「——はい」


 それだけ言うのが精一杯だった。何かが喉に詰まっている。怒りなのか、悲しみなのか、恐怖なのか。区別がつかない。


 セルヴァンは微笑んだまま、カイルの肩に視線を落とした。


「イルヴァンは——立派だったか」


「……はい」


「そうか」


 セルヴァンはそれ以上何も言わなかった。踵を返し、回廊の奥に消えた。足音は静かで、規則的で、乱れがなかった。


 カイルはその背中を見送りながら、拳を握った。爪が掌に食い込んでいることに、しばらく気づかなかった。





 カイルの部屋の前に、末妹のリーネが座り込んでいた。


 王家の末子は45歳——人間で言えば十六、七の娘だ。灰銀の髪を肩まで下ろし、目を赤く腫らしている。膝を抱えて、扉の横の壁にもたれていた。角はまだ成長途中の細い角で、布は巻いていない。王宮の中では巻かなくていい。


「カイル兄」


 声が震えていた。


 カイルは何も言えなかった。代わりに、リーネの傍にしゃがみ込み、肩に手を置いた。


 それは次兄レイグが、かつてカイルにしてくれた仕草だった。高原に星を見に連れ出してくれた夜、肩に大きな手を置いて「見てみろ」と言った兄。声が大きくて、笑い方が王宮の廊下に響いた兄。大戦の前線で死んだ兄。


「……大丈夫だ」


 嘘だった。


 リーネは何も言わず、カイルの手に自分の手を重ねた。冷たい手だった。


 大丈夫ではない。何も大丈夫ではない。三兄が殺された。長兄は微笑んでいる。次兄はもういない。国は占領されている。自分は——処刑リストを清書した手で、妹の肩を抱いている。


 夜、自室の机に向かい、記録を書こうとした。ペンを取り、インクに浸し、羊皮紙の上に——


 何も書けなかった。


 リーネが隣の部屋から入ってきて、部屋の隅に座った。何も言わず、本を開いた。読んでいるのかどうかは分からない。ただ、同じ部屋にいた。


 窓の外で、光の谷がかすかに光っていた。地脈の光。星の光の残滓が、大地の底から滲み出る、淡い青白い光。


 明日もこの光は出る。明日もこの街は動く。明日も角を布で隠す朝が来る。


 ペンを置いた。


 翌朝、宰相府から使いが来た。オルデンからの一言。


「仕事がある。泣いている暇はない」

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