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第18話 炎の南東

六年目の春が来た。


 高原の雪解けは、今年も例年通りだった。しかし街の空気は、去年までとは少しだけ違っていた。方針転換の書状が届いてから、もう一年。民生用魔素の配給上限が緩和され、工房の一部に炉が戻り、鍛冶師たちが仕事を再開した。下市街の市場に、小さな活気が戻り始めていた。


 角を布で隠す義務は、まだ残っている。しかし布の巻き方が、少しだけ変わっていた。以前はできるだけ目立たないように、頭を下げて隠していた。今は——布は巻いているが、背筋を伸ばして歩く者が増えた。完全な服従と、完全な誇りの、その間の何か。カイルはそれを、宰相府の窓から毎日観察していた。


 精製所の一部が、竜人族の管理に戻り始めていた。全てではない。しかし一部は——レガリオンの監督府が「信頼できる人員の監視の下で」という条件付きで——竜人族の技術者に委譲された。三年前にオルデンが守った技術者たちが、今、炉の前に戻っていた。


 カイルは記録の中で、この変化を淡々と書き留めていた。「精製所第三号炉、竜人技術者への運用委譲。四月十七日付」。一行の事実。しかしこの一行の背後には、オルデンの七本の綱のうち何本かが動いた結果がある。それを知っているのは、宰相府の中でもごく限られた者だけだった。





 その日の朝、宰相府の執務室で、カイルがいつもの月次報告書を整理していた時だった。


 扉が叩かれた。


 同僚のトーヴァが入ってきた。顔が青かった。手に一枚の書状を持っている。


「殿下、監督府から急報です」


 カイルは顔を上げた。


「——読め」


 トーヴァは書状を広げた。しかし読む前に、彼女の唇が一瞬震えた。


「タルシス諸国連合で——紛争が勃発しました」


 カイルの親指が、薬指の付け根を擦った。


「紛争、とは」


「南東部の境界地域で、諸国が二つの陣営に分裂しました。親レガリオン派と反レガリオン派。コヴァルドが反レガリオン派に武器を供給していると——レガリオン監督府の分析です。代理戦争の形になっています」


 カイルは書状を受け取った。細かい字で書かれたレガリオン語。目で追った。


 タルシス諸国連合。大陸南東部の回廊地帯。十以上の小国が混在する、多種族の不安定地域。以前から時々小競り合いはあった。しかし今回は違う。諸国が陣営に分かれたという報告だった。親レガリオン派には人間族の王国と妖霊族の集落と混血国群の一部。反レガリオン派には鉱人族の城塞、獣人族の部族連合、魔人族の港町——そして竜人族の分家筋の小国。


 カイルの視線が「竜人族の分家筋」の文字で止まった。


 大戦前、アストラードが「竜人の保護」を名目にタルシス諸国連合に介入した時、拠点になった場所だ。域外民政局が駐留した場所だ。あの時「保護」された竜人系小国が、今、反レガリオン派に加わっている。——保護してくれたはずのアストラードは、今、レガリオンの占領下にあって、何も言えない。


 カイルは書状を畳んだ。畳みながら、自分の指が微かに震えていることに気づいた。震えを止めた。


「閣下にお届けする」


 カイルは立ち上がった。





 オルデンの執務室に入った時、オルデンはいつも通り机に向かって羊皮紙を読んでいた。カイルの入室に気づいて、顔を上げた。


「——何だ」


 カイルは書状を差し出した。


「タルシス諸国連合で紛争が勃発しました。コヴァルドとレガリオンの代理戦争の形です」


 オルデンは書状を受け取った。広げた。読んだ。


 読み終わる前に、オルデンは茶碗に手を伸ばした。茶がまだ入っていない茶碗。空の茶碗を指で回した。それから薬草の袋を取り出した。慣れた手つきで茶を淹れ始めた。


 オルデンが書状を読んでいる途中で茶を淹れ始めるのは——珍しかった。


 いや、珍しくはなかった。同じ動きを、カイルは一度、見たことがある。占領の初期、オルデンが「毒杯」と呼んだ全権受諾の決断の夜。あの時もオルデンは茶を淹れた。交渉の前の儀式のように、湯を注ぎ、香りを立たせた。


 今日も、同じ動きだった。オルデンは「紛争の勃発」を、交渉の始まりとして受け取っている。


 やがて茶の香りが執務室に満ちた。オルデンは書状を机に置いた。


「来たか」


 低い声だった。


「来た、とは」


「待っていた。——いつ起きてもおかしくなかった。しかし、起きるとは思っていなかった者の方が多かった。コヴァルドが動いたのだ。北で軍を集結させ、南で代理戦争を仕掛けた。二正面作戦ではない。一正面作戦の二つの面だ」


 オルデンは茶碗を持ち上げた。まだ熱い茶を、一度、口につけた。熱さを確かめるように。


「これで、絵が変わる」


「絵、ですか」


「独立の絵だ。いや、独立だけではない。——レガリオンにとって、我々の位置が変わる」


 カイルは椅子に座った。いつものように、オルデンの一歩後ろではなく、今日は向かい合う位置に。記録係としてではなく、議論の相手として。自分でそう座ったわけではない。オルデンが手で招いた。


「カイル。——お前は、今この紛争で何が起きると思う」


 カイルは一瞬、考えた。考えながら、自分が「考える」立場で問われていることに気づいた。いつもの「記録しろ」ではない。今日の問いは「分析しろ」だった。オルデンが求めているのは事実の並べ替えではなく、起きることの予測と、その先の手の組み立てだった。


「……特需が起きます。代理戦争であれば、両陣営とも魔素製品の大量消費が発生する。アストラードは生産能力を持っている国として、両方から発注を受ける可能性があります」


「そうだ」


「しかし同時に——アストラードが両陣営に供給することは、政治的に危険です。レガリオンの同盟国としては、親レガリオン派のみに供給すべきです。両方に売れば、レガリオンとの関係が悪化します」


「そうだ」


「したがって、公式には親レガリオン派のみに供給する形を取り、非公式にはマルカの商人を経由して反レガリオン派にも流す——というのが、最も利益が大きく、かつレガリオンを刺激しない形になります」


 カイルは言った後、自分の言葉に少しだけ戸惑った。この答えは、オルデンが自分に言わせたかったものだ。いつの間にか、カイルはオルデンの期待する答えを、オルデン自身より先に並べるようになっていた。


 オルデンの顎が微かに上がった。満足のサインではなかった——満足を越えた、別の何か。


「お前の読みは、私のものと一致している。——しかし、もう一つある」


「もう一つ、ですか」


「この紛争は、レガリオン本国の財政を圧迫する。占領地の維持費と、代理戦争の支援費と——二つが同時に本国の金庫を重くする。エテルネアの学者を通じて、我々はずっと『占領は損だ』という数字をレガリオン本国の財政派に流してきた。今、その数字が意味を持ち始める」


 カイルは理解した。オルデンの七本の綱のうち「占領コストの可視化」と「特需準備」——かつて坂道でカイルが一人で数え上げた仕掛けの二つが、同時に動き出す瞬間だった。オルデンが三年以上かけて仕込んできた二つの仕掛けが、今日、タルシスの紛争を契機に発動する。


「——独立交渉の、下準備が整います」


 カイルは言った。


「そうだ。今日から——交渉に向けた動きを始める」


 オルデンは茶を一口飲んだ。それから立ち上がった。百七十代半ばの身体で、いつもより少しだけ速く。


「カイル。お前に仕事を出す。三つだ」


「はい」


「一つ。精製所の稼働率を、至急確認せよ。現在どれだけの魔素製品を生産できるか。三年前の名簿で復帰させた技術者たちは、今、どこで何をしているか。名簿を引き出せ。トーヴァに手伝わせろ」


「はい」


「二つ。マルカの商人との非公式ルートを確認せよ。誰が信頼できるか、誰が信頼できないか。魔人族のナシームにも——丁寧に当たれ。あの男は『地脈が疲れている』と言った。紛争が起きれば魔素の消費が急増する。ナシームは嫌がる可能性がある。嫌がらせてはならない」


「はい」


「三つ。エテルネアに連絡を取れ。紛争の情報を彼らの学術院を通じて本国の財政派に流す段取りを組め。数字で語れる形に整えろ。——特需の売上見込み、占領コストの推計、財政派が動きやすい資料を作る」


「……全て、承りました」


 カイルは立ち上がった。頭を下げた。


 オルデンが最後に一言、付け加えた。


「——これからの数ヶ月が、独立の成否を決める。お前の手足が、我々の全てだ」


 カイルは執務室を出た。





 その日から、宰相府は動き出した。


 カイルは走り回った。精製所の稼働率の確認、技術者名簿の引き出し、マルカの商人との接触、エテルネアへの密使の手配。トーヴァと二人で、朝から夜まで書類と人の間を往復した。


 三年前にカイルとトーヴァが作った技術者名簿が、また引き出しから出てきた。三年間、眠っていた紙。あの時も同じように引き出しから出して、社会復帰リストに使った。今度は——特需の生産体制に使う。同じ名簿が、違う目的で繰り返し使われる。オルデンの仕掛けは、一つの道具を何度も再利用する。


 トーヴァは疲れていた。顔色が悪かった。しかし手は止めなかった。作業の三日目、休憩中にトーヴァがぽつりと言った。


「殿下。——息子も、魔素製品を作っていたことがあるんです」


 カイルは顔を上げた。


「ヨアンが、か」


「小さい頃、家の裏で木切れと紐で『魔素製品のおもちゃ』を作っていました。弓のような形で、引くと音が出る仕掛けで——あの子は嬉しそうに見せに来ました。『父さんみたいな魔法兵になる』と」


 トーヴァは少しだけ笑った。笑ったというより、顔の筋肉が緩んだ程度のものだった。


「あの子の作った魔素製品のおもちゃと、今私たちが準備している魔素製品は——違う場所から、違う目的で作られます。でも、どこかで繋がっている気もするんです。ヨアンが生きていたら、この仕事を——喜んだでしょうか。悲しんだでしょうか」


 カイルは答えられなかった。答える言葉がなかった。


「——すみません、殿下。話が逸れました」


 トーヴァはペンを取り直した。早口に戻った。





 その週の後半、もう一つ、別のことが起きた。


 カイル宛に、一通の書状が届いた。差出人の名前はなかった。封蝋だけがあった。見覚えのある紋章——レガリオン本国元老院の下部組織「戦後統治検分室」の紋章。


 カイルの親指が止まった。


 書状を開いた。短い文面だった。レガリオン語。


 「末王子殿下。あれから時が経ちました。北の動きと南の紛争は、別のものではありません。一つの流れの二つの面です。あなたがこの時代にどう向き合うのか——そして、あなたご自身のお言葉で、どこに立とうとされているのか——いずれお話しする機会があるかと、私は今も待っております。——副室長より」


 署名はそれだけだった。


 カイルは書状を折り畳んだ。折り畳みながら、喉の奥が乾くのを感じた。


 副室長は、一年以上前に査察団と共に去った男だ。あの日、宰相府の応接室で「あなたはどちらの物語を本当だと思っておられますか」と問うた男。カイルが答えられなかった問い。


 その男が、今、また書状を送ってきた。「一年経ちました」ではなく「時が経ちました」。時の経過を曖昧にすることで、待っていたことの重みを伝えている。副室長は、カイルを待っている。答えを。


 カイルは書状を机の引き出しにしまった。鍵はかからない引き出し。オルデンに見せるべきか、隠すべきか——決めなかった。決めないまま、引き出しを閉めた。


 仕事が山積みだった。精製所の稼働率、名簿の整理、マルカの商人、エテルネアへの連絡。副室長の書状に向き合う時間は、今は、ない。


 ——また今度でいい。


 カイルは声に出さずに、そう言った。そして、「また今度」という言葉が、いかに何も決めないための言葉かを、今度は最初から知っていた。知っていても、使った。





 夜、王宮に戻る坂道を上った。


 高原の夜は澄んでいた。星がよく見えた。遠い北の空に、小さく赤い光があった。気のせいかもしれない。しかしカイルは、あの光の方角にコヴァルドの国境があると知っていた。国境で兵が集結している。南東のタルシスでは紛争が始まっている。北と南の二つの面。副室長の言葉が蘇った。「別のものではありません」。


 カイルは足を止めて、赤い光を見た。


 その光の下で、他国の兵士たちが死んでいる。人間族の、鉱人族の、妖霊族の、獣人族の、魔人族の、そして——竜人族の分家筋の兵士たちが。大戦前にアストラードが「保護」した竜人たちの子孫が、今夜、戦場にいる。


 そしてアストラードは——その戦場に魔素製品を売る準備を始めている。


 カイルは考えた。他国の紛争を、チャンスと呼ぶ。正しいのか? レイグは前線で死んだ。今度は他国の兵士が死ぬ。レイグの死を「誇りのため」と呼び、他国の兵士の死を「特需のため」と呼ぶ——呼び分けることに意味があるのか。


 答えは出なかった。


 しかし、足は坂を上り続けた。頭の中では、既に明日の仕事が整理されていた。精製所第三号炉の稼働率は七割。第五号炉は修理中。名簿の上位二十名までは既に配属済み。残りの連絡は明日の朝一番で。マルカのウヴォル家との接触はトーヴァに。エテルネア便は週明けに——。


 倫理的な問いと、実務の優先順位が、同じ頭の中に並んで存在していた。問いは答えを出さないまま、実務は走り続ける。カイルは気づいていた——オルデンが何年もやってきたのは、この並列処理だった。問いを持ちながら、手は止めない。問いに答えないまま、今日を生きる。


 オルデンに似てきている、と思った。思った瞬間、舌の奥に苦さが残った。前にも同じ苦さがあった。「使えます」と初めて言った夜。今度はその苦さの名前を、カイルは少しだけ知っていた。失いかけているのだ。何を、とはまだ言えない。しかし、確かに薄くなっていくものがある。


 王宮の回廊に入る前に、カイルはもう一度、北の空を見た。赤い光はまだそこにあった。あるいは本当に気のせいだったのかもしれない。しかし、気のせいでも構わなかった。今夜、その光は、カイルの記録の中に書き留められる。公式の記録にではない。「閣下に提出しない記録」の欄に。

【豆知識:末妹リーネ】


カイルの妹であり、王家七人兄妹(セルヴァン・レイグ・イルヴァン・アーシャ・ネイル・カイル・リーネ)の末っ子。45歳、戦争を知らない世代で、占領下に育ったため「角を隠す日常」を当たり前として受け入れています。

下市街の石工の家の子供三人のために、古い竜人の絵本の余白に現代語訳を書き込んで届ける地道な活動を続けています。角を布で巻き、髪をまとめ、地味な服で検問所を通る——カイルが唯一、素の顔で笑える相手でもあります。

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