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第17話 再会

高原の夏は短い。雪解けの春が過ぎると、ひと月もしないうちに空気が乾き、日差しが斜めに石畳を焼く。方針転換の書状が届いてから数ヶ月が過ぎていた。配給緩和の実務は軌道に乗り、街の工房の一部に炉が戻り始めている。上市街の回廊に、少しだけ人の声が戻っていた。


 その朝、オルデンがカイルを執務室に呼んだ。


 いつもの薬草茶の匂い。しかし今日は、茶碗がまだ出されていなかった。


「バルトに会え」


 カイルの親指が、薬指の付け根を擦った。


 バルト。元竜人魔法兵団長。平民出身の叩き上げで、戦死した次兄レイグの直属の部下だった男。軍籍を剥奪された後は、抗戦派の象徴としてカイルの視界の縁に立ち続けていた。二年前、そのバルトから書状が来た。「レイグ殿下の弟に会わせろ」。オルデンは「会うな。まだ早い」と切り捨てた。あれから二年——いや、もう二年半が経っていた。


「……いつ、ですか」


「今日。午後。宰相府の裏庭に来るよう、先方には使いを出してある」


「……二年前は、お会いするなと」


「二年前は、早すぎた」


 オルデンはそれだけ言った。しかしカイルには分かった。二年前、バルトは「抗戦派の象徴」になりかけていた。あの時期に会えば、カイルとバルトの接触は「政治的事件」になった可能性があった。今は違う。方針転換が進み、街の空気が変わり、抗戦派の熱が少しだけ下がっている。——オルデンは、温度を見計らっていた。


 その黙りの中で、オルデンはもう一言を重ねた。


「温度管理のためには、抗戦派の内部情報が要る。お前にしか作れないパイプがある。——レイグ殿下の弟だから、バルトは会う。今回だけは、会う。——二年待たせた分、向こうも何かを用意しているかもしれない。心せよ」


「今回だけ、ですか」


「今回だけだ。続くかどうかは、今日の会話で決まる」


 オルデンは茶碗に手を伸ばさなかった。カイルの顔も見なかった。窓の外の光の谷の方角を、ただ見ていた。


 カイルは頭を下げて、退出した。





 午後、宰相府の裏庭に向かう回廊を歩きながら、カイルは自分の足が少しずつ重くなっていくのを感じた。足が重いのは、単に緊張のせいではなかった。


 抗戦派。バルトの集団。——カイルはそれを、長い間、遠くから観察してきた。宰相府の窓から、報告書の中から、文官の噂話の中から。そしてその観察には、いつも、二つの矛盾した感情が混じっていた。


 一つは、贖罪の感情だった。抗戦派に集まっている元魔法兵たち——その多くは、カイルが域外民政局で見た顔だった。あの執務室で、あの机で、あの徴用命令書で。カイルが印を押した書類の中には、彼らの故郷の名前が、彼らの家族の名前が、確かに含まれていた。カイルは彼らに何も返せていない。王族として守られ、今は宰相の手足として働きながら、あの頃印を押した手の重さを、誰にも告白できずに生きている。彼らは、カイルの罪の記憶の一部だった。


 もう一つは、愛情と憧れに近いものだった。抗戦派は、次兄レイグの戦友たちの集まりだった。レイグが一兵卒と同じ寝床で寝た、あの組織の名残。レイグが「バルト」と敬称なしに呼んだ男が率いる集団。カイルにとって、彼らはある意味で、兄が残した家族だった。レイグが死んだ時、家族として悲しむ権利があったのは、カイルだけではなかった。あの広場の男たちにも、同じ権利があった。しかしカイルは、あの「家族」の中に入れない。自分の立ち位置が違うからだけではない。自分が印を押した書類の名前の中に、彼らの家族の名前が含まれているからだ。


 贖罪と愛情は、同じ場所に向いていた。そしてそのどちらも、カイルは抗戦派の誰にも伝えたことがなかった。伝える資格がない、と感じていたからだ。


 今日、その相手に初めて会う。


 宰相府の裏庭は、表庭より狭い。石畳が所々で欠け、雑草が生えている。占領後、手入れが疎かになった場所だ。中央に枯れた古い噴水があり、その周りに石のベンチが三つ置かれている。


 カイルが庭に入ると、奥のベンチに男が座っていた。


 いや、座ってはいなかった。ベンチの横に立っていた。腕を組んで、脚を少し開いて、噴水の方を見ていた。カイルが入ってきた音に振り返った。


 バルトだった。


 宰相府の窓から何度か遠望したことはあった。しかし間近で見るのは——占領後、初めてだった。


 大柄。カイルより頭一つ大きい。胸板が厚い。黒髪を短く刈り上げ、前方に突き出す角——戦闘型の角が、夏の日差しの中で鈍い光を返している。片方の角に、大戦時の刀傷が走っていた。白い線のような傷跡。


 バルトは布を巻いていなかった。角をそのまま晒している。


 そして——カイルは一つ、気づいた。バルトの服は、粗い麻の上着だった。肘のあたりが繕われていた。誰かが丁寧に繕った針目。粗いが、真心のある縫い方だった。胸元には白い粉がうっすらとついていた。石の粉だった。袖口と掌に、日々石材を運ぶ者の痕跡があった。掌は厚く、指の節が太く、爪の間に粉が入り込んでいた。


 元魔法兵団長の手だった。三万の兵を率いた男の手。世代随一の魔法兵として地脈から魔素を引き、大地を裂いていた男の手。その手が、今は、下市街のどこかの石工の仕事場で、石を運んでいる。


 カイルの足が、庭の入り口で一瞬止まった。止まってから、自分が止まったことに気づき、歩き直した。


 バルトの目がカイルを捉えた。上から下まで、一度、ゆっくりと測るように見た。最後に、布で巻かれたカイルの角を見た。視線が、そこで止まった。


「——小僧か」


 低い声だった。腹の底から出る声。


「二年半は、長かったな」


 その一言が、カイルの肩に重く落ちた。二年半。バルトが書状を送ってから、今日まで。バルトは数えていたのだ。数えることで、何かを保っていたのかもしれない。怒りか、期待か、あるいは両方か。


 カイルの身体の中で、古い音が再生された。域外民政局の執務室、徴用命令書の積まれた机、バルトの奥歯を噛む音、「小僧」という呼び名——全てが同時に蘇った。思い出したくない順番で、思い出したくない細部まで、蘇った。


 カイルは頭を下げた。深すぎず、浅すぎず。王族の末弟が元上官に対してする礼。


「……お久しぶりです」


「ふん」


 バルトは鼻で笑った。


「久しぶり、か。——お前は、あの男の弟のくせに、売国奴の手足をやっている」


 「あの男」。レイグのことだ。バルトはレイグの名を直接出さない。出すのは惜しいと言わんばかりに、名前の代わりに「あの男」と呼ぶ。


「売国奴」。オルデンのことだ。


 カイルは顔を上げずに答えた。


「……はい」


「はい、じゃない。言い訳くらいしろ」


「言い訳は、ありません」


 バルトの奥歯の音が、遠くで一度鳴った。怒りを飲み込む時の音。カイルはこの音を、十年以上前から知っている。


 沈黙があった。バルトは腕を組んだまま、少しだけ視線を外した。噴水の方に。


「あの男は——レイグは」


 声のトーンが変わった。太い声のまま、しかし別の温度になった。


「——お前をかわいがっていた」


 カイルの視界が、一瞬だけ歪んだ。歪みを悟られる前に、カイルは呼吸を整えた。吐く息を長くした。吸う息を短くした。身体が勝手に動揺を処理した。


「知っている、と言いたくはないが——あの男は俺に、お前の話をした。『カイルは末弟だが、賢い』と。『俺の兄弟の中で、唯一、戦場を羨ましがらない弟だ』と。戦場を羨ましがらない、というのは——レイグにとっては、珍しい褒め言葉だった」


 カイルは答えられなかった。答える言葉を、持っていなかった。


 バルトは続けた。


「俺は、お前の顔を覚えていた。域外民政局で見た顔だ。お前は毎日、あの執務室で書類を並べていた。黙って。正確に。まるで書類の数が一枚でも合わないことが、世界の終わりみたいに」


「——俺が書状を書いた時、お前にあいつの話をしたかった。前線であの男がどんな男だったか。どんな声で部下を呼んだか。——末弟にだけ、直接、伝えたかった。記憶が風化する前に」


 バルトは一度、言葉を切った。


「宰相は『会うな』と言った。俺のような元軍人を王族の末弟に会わせたくはなかっただろう。宰相らしい判断だ。——だが、俺も諦めが悪くてな。二年半、待っていた。記憶は少し薄くなったが——今夜なら、まだ話せる」


 カイルの親指が、薬指の付け根を強く擦った。


「——あの頃の話は、しない」


 カイルは小さく言った。


 バルトの目が、カイルの目を正面から捉えた。


「そうだな。——あの時期の話は、俺もしない」


 それだけだった。


 二人の間に、「あの場所」が横たわった。どちらも名前を口にしなかった。言葉にすれば、二人とも立っていられなくなる。沈黙で包むことでかろうじて保っている——それを、二人とも分かっていた。


 カイルは思った——沈黙は、合意できる。言葉では合意できないことでも、沈黙なら、二人で共有できる。奇妙な共有だが、確かにここにあった。


 しばらく、二人とも動かなかった。


 やがて、バルトが腕を組み直した。ほんの数センチ、力が抜けた動きだった。


「——お前は、言い訳をしなかった」


 バルトがぽつりと言った。


「あいつも、言い訳をしない男だった。王族であそこまで嘘をつけん男は、あの男くらいだった。——血のつながりってのは、案外、そういうところに出るのかもしれん」


 カイルは答えなかった。答えるべき言葉が、見つからなかった。しかしバルトの声のトーンが、最初の「小僧」の時とは、少しだけ変わっていた。敵意が消えたわけではない。しかし、カイルという個人を「レイグの弟」として認める温度が、微かに混じり始めていた。





 しばらく経って、バルトが噴水の縁に腰を下ろした。


「——宰相は、何を欲しがっている」


 本題に入った。カイルの肩が微かに下がった。この男は、余計な前置きをしない。交渉の時間が来たのなら、すぐに交渉する。軍人の時間感覚だった。


「抗戦派の動きを知りたい、と」


「監視か」


「——監視ではなく、温度管理のため、と閣下は言っておられます」


「温度管理」


 バルトは鼻で笑った。


「言葉の選び方が宰相らしい。人間を湯の温度のように測る男だ。——まあいい。何を知りたい」


 バルトはそこで一度、息を吐いた。長い息だった。


「——最近、人が減った」


 それだけ言って、噴水の方を見た。


「方針転換の後、若い連中は工房に戻った。責めねえ。人は食わねばならん」


 短い言葉だった。しかしその短さの中に、バルトが自分の敗北を認めている事実が詰まっていた。以前は数百人が集まった夜もあったはずだ——と、カイルは宰相府の情報から知っていた。今、この男の口ぶりでは、その人数の半分も集まっていない。


「俺も年を食った」


 バルトはそう言って、また黙った。


 カイルの中で、意外な言葉が響いた。バルトの口から出るとは思わなかった言葉だった。この男は、自分が弱っていることを、知っている。そしてそれを、カイルに——宰相の側の人間に——告げている。


 告げる意味が、カイルには一瞬、分からなかった。


 バルトはしばらく噴水を見ていた。それから、カイルを見た。


「——宰相は、抗戦派の動きを知りたいと言ったな」


「はい」


「受け入れよう。——ただし、条件がある」


 カイルは顔を上げた。


「条件、ですか」


「文官は寄越すな。若い調査官も駄目だ。——あの女を送れ」


「あの女、とは」


「宰相府の事務官。赤茶色の髪の、そばかすの浮いた中年女。百十歳を少し過ぎたあたりの。——息子を大戦末期の殿軍で失った女」


 カイルの背筋が冷たくなった。トーヴァのことだった。ヨアン・ラスマールを失った母。カイルとトーヴァの書庫での会話を、誰も聞いていなかったはずの会話を——バルトは既に知っていた。抗戦派の情報網が、宰相府の内部にも延びていた事実が、今、カイルの前に並べられた。


 カイルは一瞬、抗議しようとした。しかし止めた。問い詰めても、バルトは答えないだろう。そしてバルトがこの条件を出した理由は、情報網の誇示ではなかった。別の計算だった。


「——なぜ、あの人を」


「代表の前では、男たちは本音を言わん。『正しい怒り』しか口にしない」


 バルトは短く言った。


「家族を失った痛みだけじゃねえ。身体を壊した者もいる。心を壊した者もいる。戦後生まれで何も知らん若い連中もいる。——どれも、俺には話さん。息子を失った母親の前でなら、少しは話すかもしれん」


 カイルは長く、バルトを見ていた。


 言葉にはされなかったが、取引の構造が見えていた。バルトは「抗戦派の動きを知りたい」というカイル側の要望に、条件付きで応じている。トーヴァを送れば、男たちが話す。話を聞いたトーヴァは、宰相府に戻って構造を報告する。——一方向ではない。バルト自身も、自分の男たちに「聞いてくれる誰か」を得させたかった。代表の自分では届かない場所を、別の人間で埋めたかった。お互いに、別の必要を、同じ一人の訪問者で満たす。


 これは——バルトの指導者としての成熟だった。あるいは、疲労の別の顔だった。どちらにせよ、軽くない提案だった。


「……承知しました」


 カイルは答えた。


「本人が承諾すれば、月に数回、派遣します。——宰相府にも話を通します」


「ありがたい」


 バルトはそれだけ言った。





 カイルは懐から小さな紙片を取り出した。オルデンが今朝、最後に渡したものだった。


「北の動きを、ご存知ですか」


「北——コヴァルドか」


「はい。国境近くに軍が集結し始めているという情報があります。大戦後、消極的だったコヴァルドが動き始めた」


 バルトの眉が動いた。興味が走った目だった。元魔法兵団長の目。戦略を読む目。


「根拠は」


「宰相府が独自に収集した複数の情報源。信頼性は高いと考えております」


 カイルは紙片を畳んだまま、渡さなかった。中身の要点だけを口頭で伝えた。


「コヴァルドの集結が紛争に発展した場合、周辺国にも影響が及びます。バルト殿の——抗戦派の判断材料として、お知らせしておきます」


 バルトはしばらく黙っていた。頭の中で、情報を組み立てている。元三万の魔法兵団を指揮した男の思考が、動き始めるのが見えた。


「——戦が、起きるのか」


「まだ分かりません。しかし、起きれば——世界の形が少し変わるかもしれません」


「そうか」


 バルトはそれだけ言った。短い返事だった。しかしその短さの中に、バルトの中の何かが動いた気配があった。





 バルトが立ち上がった。


「もういい。——これ以上話すことはない」


 カイルは頭を下げた。


 バルトは背を向けかけて、もう一度振り返った。


「小僧」


「……はい」


「——角を隠すな」


 カイルは答えなかった。布で巻かれた自分の角に、無意識に手が触れた。触れてから、触れたことに気づいて、手を下ろした。


 バルトはそれを見ていた。見て、何も言わずに、背を向けた。


 背を向けかけて、バルトはもう一度立ち止まった。立ち止まって、自分の懐から小さな包みを取り出した。油紙に包まれた、ほんの小さなもの。カイルには最初、何か分からなかった。


 バルトは包みを開いた。中には、干した果物が数粒、入っていた。バルトはそれを掌で確かめて、また包み直した。丁寧に。落とさないように。


「——娘に持って帰る」


 バルトは小声で言った。独り言のようにも聞こえた。


「俺が遅くなると、あの子が心配する。今日は集会がなかった。だから早く帰れる。——それだけだ」


 バルトはそれ以上、娘のことは言わなかった。包みを懐に戻して、背を向けた。大きな背中が庭の奥の門の方へ遠ざかっていく。枯れた噴水の横を通り過ぎ、雑草の生えた石畳を踏み、門を抜けた。最後まで、一度も振り返らなかった。


 カイルは一人、庭に残った。


 バルトが娘に持って帰る干し果物の包みの重さを、カイルは想像した。大男の掌の中で包みがどれほど小さく見えただろうか。娘の顔を、カイルは知らない。年齢も知らない。しかし家に父を待っている者がいる、という事実を、今日、知った。三万の兵を率いた男が、今は、娘に干し果物を持ち帰る一人の父親でもあった。





 宰相府の執務室に戻ると、オルデンが待っていた。


「——どうだった」


 カイルは今日の会話を報告した。バルトの表情の変化、言葉の選び方、コヴァルドの情報を受け取った時の目の動き。全てを、いつもの記録係の声で報告した。自分の内面は——報告しなかった。報告する言葉を、持っていなかった。


 オルデンは黙って聞いていた。報告が終わってから、目を閉じた。


「コヴァルドの情報を渡したか」


「はい」


「よい。——バルトの頭の中に、新しい絵を一枚、置いた。あの男は戦略家だ。絵を見せれば、自分で動く」


「それから——バルト殿から、一つ頼みがありました」


「言え」


「抗戦派の集まりに、トーヴァを月に数回派遣してほしい、と。監視ではなく、話を聞くだけの対話として。——バルト殿はトーヴァの息子のことを既に知っておられました。母親として、残った抗戦派の男たちの話を引き出せる者として、名指しされました」


 オルデンは少しだけ眉を動かした。驚きに近い動きだった。


「あの男が——そう頼んだか」


「はい」


 オルデンは長く考えた。それから、ゆっくり頷いた。


「——許可する。トーヴァが承諾すれば、月に数回、派遣しろ。ただし、月次の報告を私に上げさせろ。抗戦派の内部状況を把握する手段になる。バルトの意図は対話だろうが、結果として情報は流れる。あの男も、それを承知で頼んでいる。——互いに利用し合う形の対話だ」


「承知いたしました。トーヴァには明日、話を通します」


「次の接触は、いつですか」


「分からない。——しかし、きっと、バルトの方から連絡が来る。コヴァルドの動きが具体的になれば。あるいは、トーヴァの月次訪問の延長線上で、何かが起きるかもしれない」


 オルデンは目を開けた。金色の目がカイルを見た。


「お前は——バルトに何を言われた。レイグ殿下のことだけか」


 カイルは一瞬、沈黙した。何を言うべきか迷った。迷った末に、事実だけを答えた。


「……兄上が、私の話を——していたと」


 オルデンの顎が微かに動いた。それだけだった。それ以上は聞かなかった。聞かないことで、カイルに逃げ場を残してくれた。





 夜、自室に戻った。


 記録を書こうとして、ペンを取った。取ってから、手が止まった。


 バルトの顔。片方の角の刀傷。奥歯を噛む音。「俺の兄弟の中で、唯一、戦場を羨ましがらない弟だ」というレイグの言葉。——書けた。事実だから、書けた。


 しかし、もう一つのものが、書けなかった。


 バルトがカイルの目を正面から捉えた瞬間、二人の間に横たわった「あの場所」の沈黙。それを、どう書けばいいのか分からなかった。沈黙を書くには、沈黙の外側から描かなければならない。しかしカイルは沈黙の中にいた。中にいる者が、外側から描けるのか——分からなかった。


 カイルは記録帳の最後の頁、「閣下に提出しない記録」の欄を開いた。そこに、一行だけ書いた。


 「今日、あの場所の沈黙を、二人で共有した」


 それ以上は書かなかった。書けなかった。


 窓の外で、光の谷がかすかに光っていた。


 北の空の方角を、カイルはしばらく見つめた。コヴァルドの国境で、鉱人族の兵士たちが集結しているという。バルトはその情報をどう使うだろうか。オルデンは何を狙っているのか。——答えはまだ見えなかった。


 しかし、一つだけ、確かなことがあった。バルトとの「次の接触」は、遠くなかった。カイルの中で、何かが一つ、動き始めていた。

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