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第16話 風向きの変化

査察団が帰ってから、半月が過ぎた。


 高原の冬が緩み始めていた。五度目の春が近づいている——占領開始から四年と少し。上市街の石畳の隙間に、雪解け水が流れていた。


 朝、カイルは坂を下りて宰相府に向かっていた。いつもの道。いつもの時間。しかし歩きながら、頭の中で二つのものが反響していた。


 一つは、査察団の副室長——レガリオン戦後統治検分室の副室長——が応接室で残した問い。


 「あなたは、どちらの物語を本当だと思っておられますか」


 答えられなかった問い。夜、記録に書かなかった問い。書かなかったから動かないはずの問いが、しかし動いていた。動きながら、カイルの中に留まっていた。


 もう一つは——王宮東庭の、薔薇の囲いの東屋だった。


 長兄セルヴァンは、半月前の夜、一人で果実酒を飲んでいた。「二ヶ月後、査察団が帰った後——お前が、私のところに来い」。査察団は帰った。約束の時期が来た。しかしカイルはまだ、東庭に足を向けていなかった。


 向けるべきか、向けないべきか。——それが日ごとの問いになっていた。





 宰相府に着くと、同僚のトーヴァが廊下で書類の束を抱えて立っていた。


「殿下、おはようございます」


「おはよう」


 トーヴァの顔色がいつもと違った。早口の口調も、今日はわずかに遅い。


「……殿下。何か——空気、変わりましたね」


「どう変わった」


「分かりません。でも、変わった。監督府の使者が今朝、二人来ていました。ひとりは普段の連絡係。もうひとりは——見たことのない顔でした。本国の徽章を付けていた」


 カイルの親指が、薬指の付け根を擦った。


「どんな話だった」


「分かりません。閣下の執務室に直接通されました。——でも、閣下の顔が、今朝は少し違いました」


 トーヴァは眉をひそめた。長年の付き合いの中で、トーヴァはオルデンの顔の微細な変化を読めるようになっていた。「少し違う」という表現を使う時、それはいつも——何か大きなものが動く前兆だった。


「閣下は、今どちらに」


「監督府に向かわれました。執政官閣下との会合だそうです。殿下にも同席するようにと」


 カイルは頷いた。





 監督府の執政官執務室。


 執政官アルマンが窓際に立っていた。いつもなら机の前で書類を読んでいる時間だ。今朝は窓の外を見ている。背中が、普段より少しだけ丸い。


 卓の上に、一通の書状が開かれていた。レガリオン本国の印が押されている。アルマンが書状の上に手を置いていた。押さえつけるように。


 オルデンが入室した。カイルは一歩後ろに控える。


「執政官閣下」


 アルマンが振り返った。いつもの机を叩く癖は、今日は出ない。


「宰相殿。——本国から命令が届いた。方針の変更だ」


「承りました」


「読むか」


 オルデンは書状を手に取った。カイルも後ろから覗き込む。レガリオン語の細かい字。要点を追った。


 ——アストラードへの占領統治方針を、これまでの「弱体化」から「復興支援」へ転換する。民生用魔素の配給上限を三割緩和。元軍人の社会復帰範囲を拡大。文化的制限の一部を見直し。精製所の管理の一部を現地側に委譲する検討を開始する。


 理由の段落に、カイルの目が止まった。


 ——近年の北方情勢の変化、特に鉱人族の大国コヴァルドの軍事増強を踏まえ、大陸中央部の安定が本国の戦略的優先事項となった。アストラードを「防波堤」として機能させるためには、現地社会の安定化と経済的自立が必要である。


 カイルは息を止めた。


 「防波堤」。あの血の夜の午後、オルデンがアルマンに蒔いた言葉——「将来の展望が必要です」——から始まった種が、本国の命令書の中に、そのままの形で芽吹いていた。


 エテルネア経由で流した情報戦。コヴァルドの脅威を脅威だけ選んで見せた報告。血の夜の自浄の実績。安定報告書。四年間積み重ねたものが、今朝、一通の書状になって戻ってきた。


 オルデンの顎が、ほんのわずか、上がった。満足のサインではなかった。もっと微かな、もっと静かな何か——安堵に近いものだった。


 オルデンは書状を卓に戻した。


「承りました。閣下のご指示に従い、配給の見直しを宰相府で進めさせていただきます」


「頼む」


 アルマンの声がいつもより低かった。





 会合は短かった。書状の確認と、大まかな実施計画の打ち合わせ。技術的な話が中心で、感情の入る余地はなかった。


 しかし退出しようとした時、アルマンがカイルを呼び止めた。


「若い王子」


 カイルは立ち止まった。


「少し、残ってくれ。個人的な話がしたい」


 オルデンは一瞬だけカイルを見て、そのまま先に退出した。


 執務室に二人だけになった。


 アルマンは窓際に戻り、再び外を見た。下市街の屋根が、朝の光の中で少し明るくなっている。


「四年前、私はここに来た」


 アルマンの声が静かだった。


「私の仕事は、竜人族に新しい秩序を与えることだった。文明化、と我々は呼んでいる。古い習慣を捨てさせ、レガリオンの制度を導入する。血の復讐ではなく法で裁く。力ではなく契約で物事を決める。——そういう国に、君たちを変える。それが、私の仕事だった」


 カイルは黙って聞いていた。


「四年間、私は働いた。——成果はあったと思っていた。君たちは静かになった。騒ぎは減った。学校は再開し、市場は動いた。表面的には、私の仕事は進んでいた」


 アルマンが窓から振り返った。


「しかし先月、査察団が来た。——あれは、私が試されているということだった。本国は、私の報告書を信じなくなっていた。『アストラードは本当に安定しているのか』と疑い始めていた」


 カイルの背中に、冷たいものが走った。副室長の目が蘇る。「あまりにも見事だった。綺麗に線が引かれている」——あの声。


「そして、この朝の命令書だ」


 アルマンが卓を指差した。


「『方針の変更』。——君の国の方針を、私が決めるのではなくなった。本国が決めた。私は実行するだけの立場になった。『復興支援』。聞こえはいい。しかしこれは——私の四年間が、本国の目には『方向を間違えた』と見えていた、ということだ」


 カイルは答えなかった。答えるべき言葉が見つからなかった。


「若い王子。——君は、この変化を歓迎すべきだろうか」


 質問が飛んできた。


 カイルはゆっくりと口を開いた。


「……閣下のお立場を思えば、申し上げにくいことばかりです」


「正直に話してくれ」


「配給の緩和は、街の竜人にとっては歓迎すべきことです。——しかし、それだけです。『方針の変更』が意味するものは、まだ、誰にも分かりません」


 アルマンは少しだけ笑った。笑ったというより、顔の筋肉が緩んだ程度のものだった。


「君は慎重だな。——四年前、君はまだもっと硬かった。今は、言葉を選ぶのがうまくなった」


「……」


「それは、成長だと思う。私の目から見れば」


 アルマンはカイルに向き直った。眉間の皺が、以前よりも深くなっていた。


「若い王子。——本国の命令には従う。しかし私は、自分の仕事が終わったとは思っていない。文明化は、まだ完成していない。君の国は変わりかけているが、変わりきっていない。私はそれを——最後まで見届けたい」


 アルマンの目が真っ直ぐだった。あの善意の、目だった。カイルが最初にこの執務室で見た、嘘のない目。


 カイルは頭を下げた。何も言わずに。





 宰相府に戻る道で、カイルは黙って歩いていた。


 オルデンは一歩先を歩いている。いつもと同じ歩調。しかしカイルには——その背中が、いつもより少しだけ軽く見えた。


 宰相府の執務室に入ると、オルデンが茶を淹れ始めた。薬草の匂い。いつもの儀式。しかし今日の動きには、わずかな速さがあった。


 カイルは待った。


 やがてオルデンが茶碗をカイルの前に置いた——一つだけ。自分の分だけ。まだ二人分を淹れる時は来ていない。


「閣下」


「何だ」


「今朝の書状は——我々の四年間の結実ですか」


 オルデンは茶を一口飲んだ。


「遅い」


 低い声。


「遅い、ですか」


「半年前には来るはずだった。我々の想定では。しかし本国は、動くのに時間がかかった。血の夜の後、防波堤論を蒔いてから一年半。——予定より半年遅い」


「しかし、間に合ったのですね」


「間に合った」


 オルデンはもう一口茶を飲んだ。


「間に合ったからこそ、次の手に移れる」


「次の手、とは」


「風向きが変わった。——今までは『温度管理』だった。熱すぎず、冷めすぎず、維持する仕事。これからは違う。熱を与える仕事になる。復興、経済、技術者の本格復帰、特需の準備の具体化。攻めに入る」


 カイルは頷いた。


「閣下。——査察団の副室長のことは、どうされますか」


 問いが、自分の口から滑り出た。問うつもりではなかった。しかし問いが、ずっと中にあった。


 オルデンは目を細めた。


「あの男は、しばらく静かだろう。種を蒔いて帰った男だ。芽が出るまで待つ」


「芽が出るのは——」


「分からない。半年後かもしれない。三年後かもしれない。しかし出る。——お前の中で」


 カイルの手が、茶碗の縁に触れたまま止まった。


「私の中で、ですか」


「そうだ。副室長はお前に問いを残した。その問いは消えない。いつか、お前が自分で答えを出す日が来る。その日まで、あの男は動かない。——動く必要がないからだ」


 オルデンの金色の目がカイルを見た。


「お前は、まだ答えを出していない。——それでいい。今は、出すべき時ではない」


 カイルは茶を一口飲んだ。薬草の苦味が、喉を通って胃に落ちた。熱かった。





 その夜、王宮の回廊を歩いていた。


 自室に戻る前に、カイルの足は——東庭の方角に向いた。


 薔薇の囲いの、あの東屋。半月前にセルヴァンが果実酒を飲んでいた場所。「二ヶ月後、ただの弟として来い」。その言葉が、まだ空気の中に残っているような気がした。


 カイルは中庭の縁で立ち止まった。


 遠くに、東屋が見えた。


 蝋燭の光は、なかった。


 ただの暗がり。薔薇の囲いも、夜の中で黒い塊になっていた。セルヴァンがそこにいるかもしれないし、いないかもしれない。いるとしても、灯りを点けていない。


 カイルは一歩、前に出た。


 石畳を踏んだ瞬間、膝の奥に微かな抵抗があった。前に進もうとする意志と、進むなという身体の反応が、同じ足の中でぶつかった。もう一歩——行こうとした時、足の裏が石畳に吸い付いた。動かなかった。


 止まった。


 ——もし今、行けば、何を話すのか。セルヴァンは何を聞きたがっているのか。オルデンの使いとしてではなく「ただの弟として」。そういう話し方を、カイルは一度も兄にしたことがなかった。「ただの弟」の言葉が、どんな形をしているのか、カイルには分からなかった。


 行くべきだった。分かっていた。


 しかし今朝、方針転換の書状が来た。宰相府は動き始めている。明日からは配給緩和の実務が始まる。オルデンの「攻めに入る」という言葉。新しい仕事の波が、目の前に積み上がっていた。


 ——また、今度でいい。


 声に出さずに、カイルは言った。言ってから、「また今度」という言葉が、いかに何も決めないための言葉かを知った。しかし決められなかった。今夜は、行かない。明日も、たぶん行かない。


 理屈ではなかった。身体が行くことを拒んでいた。セルヴァンに会えば、何かを受け取ることになる。その「何か」の重さを、身体が先に察していた。カイルの頭は仕事を言い訳に並べたが、本当は、足の裏の吸い付きが答えだった。——そしてもう一つ。認めたくない方の理由。あの声を聞いた時、首が勝手に下を向く。二日前の東屋でもそうだった。体が覚えている。末弟の体が。


 カイルは踵を返した。背中に、東庭の暗がりの質感を感じた。冷たい空気の層。セルヴァンがいるかもしれない場所から、自分が離れていく重み。一歩ごとに、背中の緊張が増した。振り返りたかった。振り返れなかった。——セルヴァンは、あそこにいたのだろうか。いなかったのだろうか。確かめずに、離れた。





 自室で、今日の記録を書いた。


 方針転換の書状の内容。アルマンの言葉。オルデンの「遅い」という一言。宰相府の空気。——公式の記録として書ける部分を、淡々と羊皮紙に並べた。


 そして記録帳の最後の頁、「閣下に提出しない記録」の欄を開いた。


 しばらく筆を止めていた。それから、三行だけ書いた。


 「今日、風が変わった。しかし私は、東庭に行かなかった。」

 「副室長の問いは、今日も答えなかった。」

 「二つの未答を、今は抱えたまま歩く。」


 ペンを置いた。


 窓の外で、光の谷がかすかに光っていた。春の夜の地脈の光。コヴァルドの国境では、鉱人族の兵士たちが集結しているという。遠い話——のはずだった。しかし今朝の書状は、その遠い話が、ここまで届いたことを意味していた。


 北で何かが動けば、ここで何かが動く。


 カイルはそう思った。思いながら、眠りに落ちた。明日からは、新しい仕事が始まる。

【豆知識:事務官トーヴァ】


カイルの同僚である事務官トーヴァ。平民出身、七十歳、赤みがかった茶髪にそばかす。書類整理と記憶力に長け、カイルのよきサポート役です。

大戦で息子ヨアン・ラスマールを喪いました。殿軍でレイグ王子と同じ部隊で戦死した若い魔法兵です。その名は家でも職場でも口に出せる場所がなく、宰相府の犯罪統計を開くたび、彼女の指先は息子が死んだ月を探し続けています。技術者保護リストの作成を手伝ったのも彼女です。



初日の更新はここまでとなります。(明日も朝から更新します!)

カイルと老宰相オルデンのギリギリの綱渡りが続きますが、彼らが何を仕掛けていくのか見守っていただければ幸いです。

少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ忘れずに下の【★】で応援をよろしくお願いいたします!

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