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第19話 特需の夜明け

六年目の夏が来た。


 紛争勃発の報せから、ひと月が過ぎていた。街は変わっていた。変わり方が速かった。


 工房街の煙突から、朝から夜まで煙が立ち上るようになった。石造りの煙突が三本、四本、五本——占領後、ずっと沈黙していた煙突が、一本ずつ息を吹き返した。火入れの日は、工房の前で鍛冶師たちが短い祈りを唱えた。古い竜人の言葉で。監督府の許可が降りない祈りだったが、誰も咎めなかった。誰も咎めなくなった、というべきか。監督府の兵士も、煙を見上げて何も言わない。


 カイルが宰相府に向かう坂道を下りる時、以前と違う音が聞こえるようになった。金属を打つ音。炉の火が爆ぜる音。荷車の車輪。石畳を踏む足音の密度が増えていた。人が動いている。街が動いている。


 角の布を巻いている者は、まだ多い。しかし巻き方が変わっていた。以前は目立たないように頭を下げて巻いていた者が、今は——少しだけ乱れた布のまま、顔を上げて歩く者が増えた。完全な解放ではない。しかし確実に、空気は変わっている。


 カイルはこの変化を毎朝、記録していた。「下市街の煙突、本日稼働確認七本」「工房街の朝の人通り、昨日比一割増」「角の布の乱れを気にしない者、昨日より散見」。数字と観察の積み重ね。宰相府の報告書には全て書ける内容だった。しかしカイルの筆は、時々、遅くなった。


 遅くなる理由を、カイルは自分に言わずにいた。





 宰相府に着くと、廊下からトーヴァの声が聞こえた。


「殿下、すごいことになってますよ。書類が追いつかない」


 執務室に入ると、トーヴァの机の上に羊皮紙の山が三つあった。それぞれが腰ほどの高さまで積まれている。


「発注書です。全部、魔素製品の。昨夜だけで二十件増えました。レガリオンの武器商人から、マルカの中継業者から、ザフィールの長老会議から、エテルネアの学術院から——全方向から来ています。学術院からは『研究用』となっていますが、中身を見れば軍事魔導具の仕様書です」


 カイルは山の一つに手を伸ばした。一番上の発注書を取った。レガリオン語。整った字。鍛造品三百個の発注。納期三ヶ月。価格は通常時の二倍が明示されている。


 二倍。


 カイルは思わず、もう一枚取った。同じく二倍。もう一枚——三倍。紛争の拡大と共に、発注元の焦りが値段に反映されていた。値段交渉をする暇もないのだろう。兵士たちが前線で必要としている。今すぐ。


「受注の可否は、誰が決めている」


「閣下です。全ての発注書に、閣下が直接目を通しておられます。受けるか、断るか、条件をつけるか——その日のうちに決めて、私が各担当に振り分けています。——私、最近、寝ていません。すみません、殿下。書類の整理が遅れています」


 トーヴァの目の下に、薄い隈が浮かんでいた。手は動き続けているが、動きが以前より少しだけぎこちない。


「トーヴァ。——休め」


「休めません。誰かがこれを回さないと——」


「命令だ。今日、半日だけ休め。午後から出て来い」


 トーヴァは驚いたような顔をした。それから、小さく頭を下げた。


「……承りました」


 トーヴァが執務室を出ていく時、彼女の背中がいつもより一回り小さく見えた。カイルは羊皮紙の山を見た。自分が彼女の分を引き受けるしかない。そう判断した瞬間、自分が判断していることに気づいた。かつてなら、「どうしましょうか」とオルデンに問うていた。今は自分で決めていた。





 昼前、カイルは書類を抱えて工房街に向かった。発注の一部を現場に確認するためだった。宰相府の文官の仕事ではない、本来は下吏の仕事だ。しかし今は下吏も足りていない。全ての手が動員されていた。


 工房街の入り口に立った瞬間——カイルは足を止めた。


 景色が違った。


 去年の冬、この場所は灰色だった。閉ざされた扉、冷えた煙突、無人の石畳。職を失った元魔法兵たちが、所在なげに歩いていた場所だった。今、同じ場所は——活気の中にあった。火の音、金槌の音、男たちの太い声。子供が路地で駆け回っている。子供の親が工房で働いている間、子供が路地で遊んでいる。占領後、下市街の路地で子供が遊ぶ姿を見るのは、久しぶりだった。


 カイルは歩を進めた。


 ある工房の前で、一人の鍛冶師がカイルに気づいて振り返った。中年の竜人。大戦時は魔法兵だったという男。半年前まで社会復帰リストの末尾にいて、ようやく仕事を得た技術者の一人だった。


「殿下」


 鍛冶師は頭を下げた。


「ご無沙汰しております。——この工房は、殿下が名簿を作ってくださったおかげで、動いております」


 カイルは首を振った。


「名簿を作ったのは、閣下のご指示による業務です。私の功ではありません」


「いえ——殿下が正確に書いてくださったから、名簿が残った。私の名前も残った。おかげで今、ここに立っていられます」


 鍛冶師は工房の中を手で指した。炉の火が赤く光っていた。三人の弟子が金槌を振るっている。奥では別の職人が図面を見ていた。全員、生きている。働いている。食べている。


 カイルは頭を下げた。鍛冶師に返す言葉が、すぐには見つからなかった。


 工房を離れて路地を歩いた。路地の奥で、子供が石を投げる遊びをしていた。小さな石を壁に当てて、跳ね返りを捕まえる単純な遊び。子供の笑い声が、路地の石壁に反響していた。


 カイルはその笑い声を、聞いた。聞いて——足が一瞬、止まった。


 この笑い声が、他国の兵士の血で買われたものだ。


 頭の中で、その事実が響いた。声に出さなかったが、胸の中では確かに響いた。工房の炉の火は、魔素製品を作る火だ。魔素製品は戦場で使われる。戦場では、人が死ぬ。今、工房が動いているのは、タルシスの戦場で人が死に続けているからだ。その事実があるから、アストラードの工房は活気を取り戻した。子供が路地で笑えるようになった。


 レイグは戦場で死んだ。「誇りのために」と家族は言った。今、アストラードが作っている魔素製品は、他国の戦場で誰かを殺す。その誰かの弟が、いつか、カイルが今感じているのと同じ苦しみを味わうかもしれない。


 レイグの死と、タルシスの兵士の死と。——呼び分けることに意味があるのか。「誇りのため」「特需のため」。言葉は違う。しかし構造は——同じだった。


 カイルは路地の壁に手をついた。壁の石が冷たかった。夏なのに、冷たかった。





 午後、宰相府に戻る途中、上市街の回廊でリーネに会った。


 末妹は珍しく外を歩いていた。古い絵本を抱えている。下市街の子供の家に届けに行った帰りだろう。リーネは最近、絵本の翻訳活動を続けていた。カイルは知っていた——知っていながら、公式には知らないことにしていた。王族が民間の家に出入りしているのが露見すれば、面倒が起きる。


「カイル兄」


 リーネがカイルに気づいて、駆け寄ってきた。


「今日、街に出てきた?」


「仕事で、少しだけ」


「街、明るくなったね」


 リーネはそう言って、笑った。


 カイルは何も答えられなかった。答えるべき言葉が、胸の中で幾つも浮かんで、全て引っかかった。


「——そうだな」


 結局、それだけ言った。


 リーネはカイルの顔を見た。少し首を傾げた。


「それ、なんで?」


 カイルは一瞬、リーネの質問の意味が分からなかった。


「何が、なんで」


「それ。——明るくなったのに、カイル兄の顔がいつもと同じだから。嬉しくないの?」


 カイルは答えなかった。答えるための整理が、すぐにはできなかった。


 リーネは答えを待たずに、自分で続けた。


「私は、嬉しい。前より工房の音が聞こえて、お店の人が笑ってて、子供が路地で遊んでる。いい感じがする。でも——カイル兄は、違うの?」


 カイルは迷った。リーネに何を言うべきか。嘘は言いたくなかった。しかし本当のことも言えなかった。「街が明るいのは、遠い国の兵士が死んでいるからだ」——そんなことを十代の末妹に言えるはずがなかった。兄の役割は、重い事実を引き受けて、リーネにはそれを渡さないことだった。


「……明るいのは、いいことだ」


 ようやく、カイルは言った。


「うん」


「しかし——明るくなるには、理由がある。その理由が、全て綺麗なものとは限らない」


 リーネは少しだけ考えた。それから、カイルを見上げた。


「——カイル兄は、その理由を知ってるんだね」


「……ああ」


「教えてくれないの?」


「……教えない」


「どうして?」


「リーネに、重くなってほしくない」


 リーネは沈黙した。少しだけ、首を傾げたまま。それから、カイルの手を軽く握った。


「カイル兄」


「うん」


「私、大人になるのを待ってる」


 カイルは驚いた。


「……大人?」


「うん。大人になったら、カイル兄が抱えてるものを、一緒に抱えられるかもしれない。今はまだ早いって、カイル兄は思ってるんでしょ。——いいよ。待つ。でも、待っている間に、カイル兄が潰れないでほしい」


 カイルは何も言えなかった。リーネの手が、自分の手から離れた。


 リーネは古い絵本を抱え直して、回廊の奥へ歩いていった。小さな背中。しかし去年より、少しだけ大きく見えた。





 宰相府に戻り、オルデンの執務室に入った。午後の報告のためだった。


 オルデンは発注書の山に向かっていた。一枚一枚に目を通し、脇に置く。受注の指示を短く書く。次の一枚を取る。同じ動きを、時計の歯車のように繰り返していた。百七十代半ばの老竜人の手は、微かに震えていた。しかし震えは作業の精度を落としていなかった。


 カイルが入室すると、オルデンは手を止めずに言った。


「報告を」


「工房の稼働率は順調です。発注の七割は受注可能な範囲。残り三割は納期的に厳しいので、断るか、値上げを交渉する必要があります。先ほど、工房街を確認しました。——活気が戻っております」


「民の空気は」


「……笑い声が戻っています」


 オルデンは一瞬だけ、手を止めた。ほんの一瞬。


「笑い声、か」


「はい」


 オルデンは発注書に戻った。しかし一枚目の処理が、少しだけ遅くなった。


「カイル。——この特需は、長く続かない」


「長く、とは」


「代理戦争は、いつか終わる。一年か、二年か、三年か——いずれ決着する。決着した時、発注は止まる。工房の煙突は、また消える可能性がある」


 カイルは息を止めた。


「しかし」


 オルデンは続けた。


「煙突が消えても、『実績』は残る。——アストラードの技術者が、大陸の紛争で使われる魔素製品を作った。その技術力と、生産能力と、納期の正確さと——全てがレガリオン本国の記録に残る。『アストラードを占領下に置くより、同盟国として経済的に使う方が、レガリオンにとって得だ』——その実績を、今、作っている」


 カイルは理解した。今日の活気は、目的ではなかった。それは手段だった。特需そのものではなく、特需を通じて築かれる「実績」が、独立交渉の武器になる。オルデンが追っていたのは、金ではなく、数字だった。いつか本国の元老院の誰かの机の上で、「アストラード独立の経済的合理性」を証明する数字。


「——ここからだ」


 オルデンが言った。


「ここから、独立への道が具体的になる。今までは種を蒔いていた。今日から、種の上を歩き始める。——お前の仕事が、これから一段、重くなる」


「はい」


「発注の一部を、お前が直接差配してみろ。全てではない。私が選んだ案件を、お前の判断で処理する。どこに優先的に配分するか、どの技術者に任せるか、納期をどう組むか。——間違えてもいい。間違えたら、私が直す」


 カイルは頭を下げた。頭を下げながら、自分の肩に重さが加わるのを感じた。重さは、苦しさではなかった。重さは、役割だった。





 夜、王宮に戻った。


 自室で記録を書いた。今日の出来事。工房街の活気、鍛冶師の礼、リーネの「待つ」という言葉、オルデンの「ここからだ」。全て公式の記録として書ける内容だった。


 書き終えてから、「閣下に提出しない記録」の欄を開いた。


 しばらく筆を止めた。そして書いた。


 「今日、子供の笑い声を聞いた。その笑い声を、私は心から祝福できなかった。笑い声の原資が、他国の血であることを知っているから。しかし同時に、その笑い声が戻るまでの五年間を、私は記録してきた。戻らせるためにオルデンが綱を張り、自分はその綱の横で筆を動かしていた。笑い声が戻ったことは、喜ぶべきことのはずだ。——祝福できないのは、私の側の問題なのか、それとも原資の問題なのか。答えは、まだ出ない」


 もう一行、書き加えた。


 「リーネが『大人になるのを待つ』と言った。末妹に待たれる兄になっていることを、今夜、初めて知った」


 ペンを置いた。


 窓の外で、光の谷が光っていた。光の谷の上の空に、夏の星が出ていた。カイルはしばらく星を見た。レイグが子供の頃に自分を連れて見せてくれた星と、同じ星だった。同じ星を、今、タルシスの戦場で誰かが見ているかもしれない。死ぬ前の最後の夜に。


 星は変わらない。地上の人間だけが、変わる。

【豆知識:レガリオンの規格化】


レガリオンの軍隊と産業の強さは、「規格化」にあります。魔法の天才が一人いなくても、部品の寸法を統一し、凡人一万人が同じ兵器を組み立てて使えるシステムを作ったことが、大戦の勝因でした。

天才に依存しない代わりに、組織の動きは速く、広く、止まらない。竜人の「個の技」を信じる思想と真っ向から対立する哲学であり、戦争はこの哲学の差で決着しました。占領統治でも、軍事用精製炉を民生用小型炉に改造する形で規格化思想が持ち込まれつつあります。

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