02.現実に残る違和感
目が覚めた瞬間、嫌な予感がした。
なんとなく、そういう日はわかる。
枕元のスマホに手を伸ばして、画面を見る。
8時30分。
「……終わった」
天井を見上げたまま、呟く。
家から大学までは、急いでも三十分。
つまり——
「一限、確定で遅刻じゃん……」
もう焦る気力すら湧かない。
昨日のことが、頭の奥に引っかかっているせいだ。
あの夢。
あの痛み。
そして——
ちらりと、右腕を見る。
(……やっぱり、あるよな)
服をめくると、そこには確かに、あの時の傷が残っていた。
浅いが、はっきりとした引っかき傷。
夢の中で受けたはずのもの。
「……マジかよ」
小さく呟く。
夢じゃない、なんて思いたくなかった。
考えるのをやめるように、俺はベッドから起き上がる。
部屋の隅にある救急箱を引っ張り出し、中を漁った。
消毒液、ガーゼ、包帯。
手際がいいわけじゃないが、なんとなくで処置する。
傷口にガーゼを当てて、その上から包帯をぐるぐると巻いた。
見た目はひどいが、隠れればそれでいい。
(……これでいいか)
⸻
一限が終わった後の教室は、どこか間延びした空気が流れていた。
帰るやつ、次の授業まで残るやつ、スマホをいじるやつ。
その中で、俺は机に突っ伏していた。
「今日も遅刻だったねー」
不意に後ろから声がして、肩が跳ねる。
「うわっ……」
振り向くと、予想通りの顔。
「なんだ、由奈かよ……驚かすなよ」
「驚くほうが悪いんじゃない?」
くすっと笑いながら、篠崎由奈は俺の隣の席に腰を下ろした。
「そんなんじゃ、ほんとに留年しちゃうよ?」
「それ言われると何も言い返せないんだけど」
「でしょ?」
当然のように頷く。
その顔が妙に腹立つ。
「てかさ」
俺は体を起こしながら言った。
「大学四年でわざわざ一限取ってる由奈も、だいぶ攻めてると思うけど?」
「あー、それ?」
由奈は一瞬だけ視線を逸らしてから、何でもないように言った。
「私は、湊のために取ってるんだけどなー」
ぼそっと、小さな声で。
「ん?なんか言ったか?」
「ううん、なんにも!」
即答だった。
絶対なんか言ってたろ。
「それよりさ、今日の予定は?」
話を切り替えるように、由奈が身を乗り出してくる。
「今日?」
「うん」
「……家帰って、エントリーシートの続きと、明後日の小テストの勉強」
言いながら、自分でちょっと嫌になる。
全然進んでないくせに、予定だけはそれっぽい。
「じゃあ今から私とカフェだね」
「話聞いてたか?」
即答だった。
「忙しいんだけど、俺」
「大丈夫大丈夫」
何が大丈夫なのか分からないまま、由奈は続ける。
「私、湊より頭いいし」
「うん、否定できない」
「大手企業の内定持ってるし」
「それも知ってる」
「つまり、アドバイスできると思うけど?」
「……」
一瞬、間が空く。
俺はゆっくり姿勢を正して、真面目な顔で言った。
「ご一緒させていただきます」
「よろしい」
満足そうに頷く由奈。
なんだこれ。
⸻
大学を出て、駅前のカフェへ向かう道。
「そーいえばさ」
隣を歩く由奈が、ちらっと俺を見る。
「湊、その右腕どーしたの?」
「っ……」
一瞬、言葉に詰まる。
やっぱり気づくか。
(……言えるわけないだろ)
夢で化け物に引っかかれました、なんて。
そんなこと言ったら、心配されるか、引かれるかのどっちかだ。
——今朝の光景が、頭をよぎる。
目が覚めた時に残っていた痛み。
夢のはずの傷。
無理やり包帯で隠した右腕。
「……あー」
視線を逸らして、軽く言う。
「昨日の帰りにさ、バイクでちょっとこけて」
「え、マジで?」
「大したことないけどな」
できるだけ軽く言う。
本当は、その傷に触れるだけで、昨日の痛みが蘇りそうなのに。
「どうせさ」
由奈が呆れたようにため息をつく。
「変なこと考えながら運転してたんでしょ」
「……否定できない」
「ほらやっぱり」
ぴしっと指をさされる。
「打ちどころ悪かったら大変なんだからね?」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
「よろしい」
なんで俺、怒られてるんだ。
……いや、普通に心配されてるだけか。
⸻
カフェの前に着くと、甘い匂いがふわっと漂ってきた。
「うわ、混んでるな……」
「大丈夫、なんとかなるって」
そう言いながら、由奈はメニューを見上げる。
「あ、私これにする」
指差したのは、期間限定のいちごドリンクだった。
「じゃあ頼んどくから、席確保頼むわ」
「はーい」
軽く手を振って、由奈は店内へ。
俺は列に並びながら、ぼんやりと右腕に意識を向けた。
(……ほんとに、夢だったのか?)
じん、と鈍い痛み。
思い出すのは、あの牙と、あの衝撃。
「……」
首を振る。
考えても仕方ない。
⸻
ドリンクを二つ持って、席に向かう。
「お、ありがとー」
顔を上げて、にこっと笑う。
その表情は、やっぱりどこか安心する。
「はい、いちご」
「やった」
ストローをさして、一口。
「……ん、おいしい」
ちょっと嬉しそうに言うのが、なんか子供っぽい。
「で、いつも通りでいい?」
スマホを軽く振りながら、由奈が言う。
財布を持ち歩くのが面倒で、基本はキャッシュレス。
それを由奈も知ってるから、割り勘の時はいつも電子マネーで送ってくる。
「あー、いや」
俺は首を横に振った。
「金はいいぞ。どうせ勉強教えてもらうんだし」
「えー?」
少しだけ不満そうな顔。
「私から誘ったんだから、それくらい払うよ」
「いやでも——」
「それに」
言いかけた俺の言葉を、軽く遮って。
由奈は、少しだけおちこんでいるような声で呟いた。
「すこし後ろめたさもあるからね…」
「……?」
「なんでもない」
にやっと笑う。
絶対なんかある。
「気になるんだけど」
「気にしなくてよし」
即却下された。
「ほら、それより」
由奈は身を乗り出して、俺のノートを指さす。
「明後日の小テスト、勉強しないと」
「……マジでやるの?」
「当たり前でしょ」
その目は、さっきまでの軽さとは違って、少しだけ真剣だった。
「湊、ほんとにやばいんだからね」
「わかってるよ……」
苦笑しながら、ノートに目を落とす。
日常。
いつも通りの会話。
だけど——
ふと、右腕が痛んだ。
じん、と。
まるで、何かを思い出させるように。




