再会の季節 その5
数秒間の沈黙、だったと思う。車が走る音も、微かな風の音さえも、何も聞こえない。彼と私。二人がいるこの空間だけが切り取られて、誰もいないどこか遠くへ飛ばされてしまったような、そんな不思議な感覚に陥る。
彼の方も驚いた表情のまま、まるで時が止まったかのように固まっている。いけない、何か言わないと。でも、一体何を言えば。何を。
「……圭太郎さん、ですよね?」
「えっ」
彼は目を見開いて、さっきにもまして驚いた表情を浮かべる。
「ちがっ……えっと、そのっ」
何言っているんだ私。いきなり全速力で走ってきた謎の女が声をかけてきて、しかも自分の名前を知られている。こんなの、大事件じゃん。ちゃんと順序立てて説明しないと。
「すみませんっ。あの、人違いだったらすみません。前に、4月の初めくらいに、お城でお会いして。一緒にいらしたお母さん?が名前を呼んでいたので……」
彼は無反応。当然だ。ほんの少し会話しただけの私のことなんか、覚えているはずもない。どうしよう。これ以上何か言っても迷惑だよね。でも。せっかく会えたのに。もう二度と会えないのだとしても、忘れられたまま終わってしまうのは嫌だ。
そうだ、携帯。携帯だ。
「少しだけ、あなたとお話ししたんです。折りたたみの携帯、今時珍しいって」
言いながら、ポシェットの中から携帯を取り出す。手のひらに乗せて、そっと彼の前に差し出す。ウサギの顔が彼の方を向くように角度を変える。
「……ああ、あの時の」
彼がようやく表情を和らげて、あの日と同じように穏やかに笑う。よかった、思い出してもらえた。よかった。嬉しい。
「あの時は、母が失礼しました。僕の視力が衰えてから、ますます心配性になってしまって」
「いえ、全然」
心配性すぎる印象ではあったけれど、今となっては納得できる。
「あの……1つ、聞いてもいいですか?」
勇気を出して聞いてみたい。
「はい。なんでしょうか」
彼が落ち着いた声で先を促してくれる。
「お城でお会いした時は、白杖、お持ちじゃなかったですよね。急に目が……」
言葉に詰まる。そんなところにまで私なんかが踏み込んでいいのだろうか。
「いえ。小さい頃から目の病気なんですよ」
彼が私の言葉を拾ってそっと手渡してくれる。
「少しずつ見えにくくなる病気でして。でも、日中はまだわりと見えるんです。一人で歩く時は杖がないと不安ですが、誰かが一緒の時は、その人のどこかに掴まらせてもらえれば、杖なしでもわりと普通に歩けます」
「そう、なんですね」
だからあの時、お母さんの肘の辺りを握っていたんだ。
「ちなみに、この杖、折りたためるんですよ。あの日も折りたたんで持ち歩いてました」
そう言って、杖を少し前に出して、私に見せてくれる。たしかに、グリップより下の部分でいくつか等間隔に節のようなものが見える。杖の先端には丸っこいパーツがついているし、グリップの上には太めのゴムが繋がっている。白杖をこんなに間近で見たのは初めてだ。
「そうなんですね!すごい」
私が関心していると、彼もなんだか嬉しそうだった。
「そういえば、歩く練習してるって言ってましたよね?」
「はい。普段出かける時はたいてい母か友人が一緒なのですが、急に一人で行かないといけない用事ができて。慣れてる道なので大丈夫だとは思いますが、念のため練習を。母も心配してるので」
母の心配性も困りものです、と苦笑いを浮かべる。こんな表情もするんだ。
「すみません!練習中だったのに邪魔をしてしまって」
「いえいえ。特に急いでもいませんから」
彼がにこっと笑う。
「それより、お買い物ですか?」
彼が手提げ袋の方に視線を移す。
「はい。さっきコンビニに……。あーーーっ!」
手提げ袋を持っていることをすっかり忘れていた。慌てて中身を確認する。思いっきり走ったから、スイーツの容器は転んでしまっている。
あははっ、と傍らで明るい笑い声がしてくる。
「すみません、笑って申し訳ない。中は大丈夫ですか?」
「はいっ、なんとか」
自分の顔がみるみる赤くなるのを感じる。こんなことであんな大声出したりなんかして、恥ずかしすぎる。
「なら、よかった」
彼が優しく微笑んでくれる。また頬が熱を帯びる。
「あの、そろそろ私、行きますね。長々とすみませんでした」
どうにか心を落ち着かせて、精一杯の別れの言葉を告げる。
「いえ、こちらこそ」
「では、お気をつけて。すみません、横、通りますね」
ぶつからないように、慎重に歩みを定める。
「あの」
通り過ぎようとしたタイミングで、彼の声が聞こえてくる。
「もしよかったら、お名前を。僕は河野と言います」
思いがけない言葉に歩みを止める。
「私、私は、宮城 奈月と言います」
宮城さん、と彼が小さく呟く。耳に届いた瞬間、胸がキュッとなる。ただ名前を呼ばれただけなのに。もう数えきれないほど呼ばれてきた名前なのに。
「もしまた僕を見かけることがあれば、声をかけてもらえると嬉しいです。僕の方から気付くのはなかなか難しいので、遠慮なく」
「……はい」
それでは、と彼が軽く頭を下げる。私も頭を下げてから、向きを戻して歩き出す。
宮城さん。
彼の落ち着いた心地いい声は、いつになっても耳から離れてくれなかった。




