そして
扉をそっと閉めて、前を向く。深呼吸をすると、ひやっとした空気が体に入り込む。胸の辺りを手で押さえて、鼓動が落ち着くのをじっくりと待つ。
……行こう、彼の元へ。
静かに。でも、しっかりと。その一歩を踏み出した。
「おはよう、今日は特に寒いね」
彼が、いつものように穏やかに笑う。
「そうですね、風も少し強いですし」
私も、いつものように。そう頭で考えると、なんだか逆にぎこちなくなってしまいそうで。
「あ。それ、マフラー?」
「いえ、ストールです」
「そっか。マフラーはもっとモコモコしてるよね」
「……そう、ですか?」
「うん。帽子とか、手袋とか。冬の女の子って、モコモコしてて可愛いと思う」
彼が、キュッと私の手を握る。
「見てみたいな。冬仕様の奈月ちゃん」
「え!? そんなわざわざ見るようなもんじゃ……」
「いや。見たいもんは見たい」
彼の声が。体温が。余計なことを考える余裕を与えようとしない。自分の頬が赤く染まっているのを自覚するのと同時に、余計な力が体からスッと抜けるのを感じた。
「ねぇ」
天守閣へ向かう坂道に差し掛かった辺りで、彼が呟く。
「はい?」
「……今日くらい、わがまま言ってもいいと思うんだ。お互い」
「え?」
「だからさ、許して」
返事をする間もなく。彼の指が、一本、一本。私の指を絡めとる。
「……っ」
一瞬で、私の鼓動が跳ね上がる。身体中が一気に熱を帯びて、中心なんか、ドロドロに溶けてしまいそう。……けれど。
彼の鼓動が、激しい。体温が、熱い。私よりも、ずっと。
これはきっと、急な坂道のせい……だけじゃ、ない。
彼の手の力強さが、そう感じさせてくれた。
坂を登り切る頃には、二人とも完全に息を切らしていて。景色を見る余裕なんてなかった。冷たい風が、熱くなりすぎた体を休ませるかのように、優しく私たちを撫でていく。
「……この坂、こんなにきつかったかな」
息を整えながら、彼が先に口を開く。
「はいっ、わっ、私はいっつも、こんな感じですっ」
吐く息が白く見えて、すぐに周りの空気と溶け切る。
「ごめんね、桜の時期でもないのに。しんどい思いさせて」
「いえ……もっ、もし」
しっかりと息を整えてから、続ける。
「嫌、だったら……ちゃんと断り、ますっ」
「……そっか」
彼が、桜の木々を見上げる。
「あの時」
風が、ふわりと吹いて、落ち葉が静かに舞い上がる。
「君に声をかけて、本当によかった」
「……」
彼の言葉が、心の深いところまで染み込んで、涙の波を起こし始める。でも、でも……
お願い。まだ……
風がヒューッと強く吹いて、落ち葉がカラカラと音を立てて勢いよく飛んでくる。思わず二人とも、腕で前方をガードする。
「すごかったね、今の」
「はい……あっ」
こちらを向いている彼の頬に、葉っぱが一枚ついている。
「あの、葉っぱが」
言いながら、手を伸ばす。自分でも驚くほど、自然に。
「……駄目」
「えっ?」
そう言って、彼が自分で葉っぱを取る。
「今、君に触れられたら」
今まで見たことがない、つらそうな表情に。胸が締め付けられる。
「離れられなくなる、絶対」
「……っ」
もう、限界。
「うっ……ううっ」
「ごめん、せっかく、頑張ってくれてたのに」
今度は、彼が手を伸ばす。
「……いいっ、んですか……っ、あなたからっ、触るのは……」
「いいんだよ」
彼の手が、私の頬に届く。
「君の涙を拭うことは、今の僕にとって、何よりも優先だから」
もう、何もない。言い返せる言葉が。
彼のぬくもりに抱かれながら、涙が流れ切るのをひたすら待ち続けた。
「……もう、大丈夫かな」
彼がゆっくりと手を離す。
「はい……すみません」
「謝らなくて、いい」
彼が優しく微笑む。
「……そうだ。これ、渡したくて」
はい、と彼がバッグから封筒を取り出す。
「え……」
そっと私の手を引いて、手紙を握らせる。
「文字書くの苦手だから、読みにくいかもしれないけど」
彼の手に、力が込められる。
「でも、最後まで、読んでほしい」
「すみ……ありがとう、ございます」
手紙をしっかりと掴む。
「でもっ、あの、私、何も用意してなくてっ」
「いいよ。今日来てくれただけで、十分」
「でもっ」
「……じゃあ」
彼が穏やかに笑う。
「返事ちょうだい、その手紙の。待ってるから」
「はい……」
降り注ぐ日光が。風に揺れる、桜の木々が。どっしりと構えた天守閣が。私たちをずっと、見守ってくれた。坂道を降り切るまで、ずっと。




