迫り来る時 その1
大学からの帰り道。足元で落ち葉が鳴らす音に気を取られていると、コンビニの手提げ袋が勢いよく傾く。
あっ。
慌てて中を覗くと、お母さんに頼まれたカップケーキがコロンと倒れている。
……あ。
体が、固まってしまう。
駄目だ、また……
涙がこぼれて、落ち葉に小さなシミを残す。
あれから、毎日。彼との思い出に触れる度に、胸が苦しくなる。足が、止まってしまう。
できる限り、楽しい時間を過ごしたい。
彼の言葉が、心の中で何度も響く。その気持ちに、応えたい。……それなのに。
どうして、涙ばかりが溢れてくるの? いつから、こんな泣き虫になってしまったの? 彼と出会う前はどうだっただろう。そんなことさえ思い出せないくらいに。
彼が与えてくれた温かさが、胸いっぱいに詰まっているのに。どうして……
車が、私の横を通り過ぎていく。信号が青に変わり、学生たちが一斉に歩き出す。私一人を残して、世界は動き続けている。
……そうだった。
時は、待ってはくれない。たとえ、私が立ち止まったとしても。だから、進むしかないんだ。
倒れたカップケーキを直してから、ゆっくりと歩き始める。
「おかえり、奈月」
「え? どうして?」
リビングに入ると、お父さんがコーヒーを飲んでいる。
「あら、この前言ったじゃない。今日帰ってくるって」
「……そう、だっけ」
「そうよ。あ、買ってきてくれたのね」
お母さんが嬉しそうに、立ち尽くす私から袋を持ち去る。
「おい、母さん。また甘い物か?」
「いいじゃない、好きなんだから」
「あんまり食べると、体型に響くぞ」
「あら、ガリガリよりはいいんじゃない?」
「母さんの細いところなんか、見たことないし、想像できん」
いつもなら微笑ましく聞いていられる二人の会話も、今日は耳がぐったりしてしまっている。まだ話続けている二人を邪魔しないように、そっとリビングを後にする。
窓から入る隙間風が、足元をやけにひんやりと冷やす。電気をつけていない部屋の中は、夜に堕ちていく太陽の小さな光でぼんやりと照らされている。携帯を握りしめたまま机に突っ伏している私も、一緒に堕ちていく。
どうすればいいの? どう伝えれば、いいの?
溢れる感情を。失ってしまう、ぬくもりを。何もかも、いっそ。
夜の闇へと、置き去りにしてしまえば……
それは、駄目だ。また、涙の波が押し寄せて、薄暗い室内を海の底へと沈めていく。
コン、コン。
小さな音が、私の意識を刺激する。
「奈月、入るぞ」
そっと、扉が開かれる。
「……どうしたんだ?」
「おと、う、さん……」
「大丈夫、じゃないな」
そう言って、電気をつけずに、私の傍へ歩み寄る。
「……話せるか?」
「……」
握りしめた携帯の冷たさで、どうにか感覚を呼び覚ます。ストラップのクマの柔らかさで、固まった体をほぐしていく。
「あの、ね……」
ゆっくりと起き上がって、椅子に体を預ける。
「私、大切な人が……できたんだ」
自分の言葉で、心がうずく。
「でも、もうすぐ、遠くへ行っちゃうの……」
現実を突きつける自分の声が、心を砕いていく。
「……それは、つらいな」
お父さんの声が、静まり返った部屋に小さく響く。
「奈月は、どうしたい?」
「え……?」
「その人が遠くへ行ってしまった後、どうしたい?」
「……分から、ない」
「そうか」
お父さんがしゃがみ込んで、私と目線を合わせる。
「父さんの場合は、だな」
「……うん」
「奈月や母さんと離れている間、元気にしてるかなって毎日考えて。二人の言葉とか、仕草とか。たくさん思い出して。次にまた会える時まで、気持ちを温めてる」
「……」
「そりゃ、寂しい時もある。でも。でも、だな」
お父さんが、頭にポンッと手を乗せる。
「今まで重ねてきた愛しい時間を、全部涙で濡らしてしまうのは……勿体ないかなと、思う」
「……うん」
「奈月のペースでいいから」
お父さんが、優しく頭を撫でてくれる。
「その人のことを思い出して、笑えるようになれたら、いいな」
「うん」
お父さんが、静かに立ち上がる。
「……しかし、どんな奴なんだ、奈月をこんなにさせて」
「えっ」
「うちの大事な一人娘なのに」
「……お父さん」
涙をしっかり拭って、顔を上げる。
「すっごく、優しい人だよ。お父さんみたいに」
「……」
「あと、私の気持ちを尊重してくれる人」
「……」
「あと……」
「もう、いいぞ」
「え?」
「奈月が選んだ人なら、いい人に決まってる」
「お父さん……」
温かい涙が、にじみ出てくる。
「……母さんも、心配してたぞ」
それだけ言って、そっと扉を閉める。
夜を優しく照らす月明かりが、私の心にもポッと明かりを灯してくれた。




