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あの日満開の桜の下で 〜目が見えにくい彼との物語〜  作者: 綾瀬 桜


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忍び寄る秋 その2

 週末。ひんやりとした夕方の風が、カーディガンの裾をひらひらとはためかせる。いつの間にか、鈴虫が鳴いている。二人で歩く坂道のその先は、夕空に包まれて、どこまでも果てしなく続いているかのようだった。

「今日はいっぱい食べちゃったね」

「はい、さすがに食べすぎました……」

「バイキングって、そんなもんじゃないかな」

「ですね」

「……でも」

 彼がクスリと笑う。

「君の食べっぷり、よかったなあ」

「……つ!」

 彼の前なのに、どうしてあんなに食べてしまったのか。数時間前の自分を叱ってやりたい。

「どっ、どれが、美味しかったですか、一番っ!」

 頬の火照りを早く冷やしたくて、こっそりと空いている手で頬を仰ぐ。

「んー、ショコラタルトかな。どれも美味しかったけど」

「あ、チーズタルトも美味しかったですよね!」

「うん。あと、栗タルトも」

「はい! あれ? なんかタルトばっかりですね。他にもいろいろあったのに」

 本当だ、と彼が笑い出す。私も、声を出して笑う。足元の落ち葉がカサカサッと軽い音を立てる。


「すみません」

 向かいから歩いてきたお姉さんたちが、こちらに声をかけながらすれ違っていく。彼女たちが通り過ぎるまでピシッと立てられていた白杖が、再び美しい弧を描き始める。

 ……いつ見ても、すごいなあ。

 うっとりと眺めていたその曲線が、ふいに。僅かに歪む。

 あれ……?

 急に空気の重さを感じて、息が苦しくなる。……この感じ、前にも。

 そうだ、あの時の。前に二人でいつもの喫茶店に向かっている時の。あの違和感に、似ている。

 そんな曖昧な感覚は、後ろから聞こえてくる囁き声で確信へと変わってしまった。

「目が悪い人って、あんなふうに歩くんだねー」

「ずっとああやって歩くの、大変そう」

 冷たい風が運んできてしまったその言葉が、私の心にグサッと突き刺さる。心が、ズタズタにされていく。

 あっ。

「……大丈夫、ですか?」

 慌てて見上げると、彼はまっすぐ前を見据えている。

「ん?」

「いえっ!あの……」

 気付いていないのなら、それでいい。彼が傷付かなくて済むのなら。

「……大丈夫」

「え?」

 彼の穏やかな声が、夕暮れの空気に溶けていく。

「君とこうしているから。大丈夫だよ、僕は」

 繋いでいる手が、夕日に照らされて柔らかな光を放っていた。


「ところでさ」

 二人のゆっくりとした足音だけが、小さく響き合っている。

「はい?」

「……」

 彼の頬に、木の葉が一枚飛んでくる。

「あの」

「……駄目、かな」

「え?」

 木の葉はハラリと地面に落ちる。

「いや、なんでもない」

 彼は前を見つめたまま、歩き続ける。

「あの」

 私はそっと、足を止める。

「ん?」

「葉っぱって、肌に当たると、かゆくないですか? さっき、ほっぺに……」

「え」

 彼が手を離して、自分の頬に手を当てる。

「全然、気付かなかったな」

「そっ、そう、ですか……」

 私は何を言い出しているんだろう。思わず、肩をすくめる。

 ふと、彼の視線を感じた気がして、顔を上げる。

「……?」

 彼と目が合う。その眼差しは普段の優しさとは違うものを帯びているように見えた。

「……やっぱり」

 彼が、思い切ったような口調で呟く。思わず、息を呑む。

「一つだけ、確かめておきたい」

 強い風が、私の髪をブワッと巻き上げる。

「な、にを……」

「君の、手を」

 さっき離れたばかりの彼の手が、こちらに伸びてくる。

「こんなふうに繋いでいいのは……僕だけ?」

 握られた手から、彼の熱が伝わってくる。小刻みな波となって。

「……」

 どう、答えればいい? 何も言えない私を、静かに夜の訪れを待つ風が包み込む。

「ごめん」

 彼の少し震えた声が、沈黙を慎重に破る。

「今のは、いじわるな質問だったね」

 彼の笑顔が、寂しそうな影を落としている。

「聞かなかったことに……」

「駄目、ですっ」

「え?」

「悪いの、は……すぐに答えられない、私、ですっ」

 答えは、もう分かっているのに。言葉が、感情にちっとも追いついてくれない。

「無理、しなくていいんだよ」

 彼の優しすぎる声に、胸がギュウッと締め付けられる。

「これが……」

 繋いでいる手を、ほんの少しだけ離す。

「今の私の、精一杯、です」

 小指と薬指だけを動かして、そっと。彼の指に絡める。

「……」

 ドクッ。熱の波が、勢いよく流れ込んでくる。

「……まいったな」

「え?」

「完敗、だよ」

 彼の頬が、夕日で赤く染められている。

「でも、聞いてよかった」

 鮮やかな光を放つ夕日が、優しさも寂しさも抱いて、ゆっくりと沈んでいく。長く伸びた二人の影は徐々に淡くなって、赤く染め上げられた坂道に溶け込む。しっかりと手を繋いで、私たちはどこまでも歩き続ける。

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