忍び寄る秋 その1
真夏の疲れを残している太陽が、いつもより控えめな光で地上を照らしている。半袖のブラウスからはみ出した腕に、ほんのりと涼しい風が触れる。日焼けでヒリヒリしていた肌を、労るように。
ペラッ。
隣にいる美幸は、相変わらずな感じで読書に没頭している。彼女の視線を一心に受ける分厚い本が、天井のライトに照らされて、鮮やかな光を放つ。まるで、彼女の熱意に応じるように。
つい見てしまっていた光景から、そっと視線を逸らす。正面に向き直ると、先生がひたすらホワイトボードに文字を書き連ねている。その文字を、無心でノートに書き写していく。
……そういえば、もうそれほど暑くないなあ。
ふと、そんなことに気付いて、ペンの動きが止まる。
夏休み前は息苦しいほどの熱がこもっていたこの部屋も、今は呼吸がしやすい。天井から降り注ぐ光も和らいでいる気がする。
……夏休み、か。
目の前の景色が、段々とぼやけてくる。握っていたペンは、いつの間にか。彼の手に。
あれは。あの夏は。彼との時間は。全て、幻、だったのかな。鈍い痛みを覚える頭の中で、混乱の波が押し寄せる。……それでも。
彼の手のぬくもりを。感じた熱を。言葉が与えた、激しさを。
私の体が、刻み込まれた全てを、一つ残らず覚えている。どうして、そのことを忘れてしまえるのだろう。
手からこぼれ落ちそうになっていたペンをしっかりと握り直して、再び文字を書き始めた。
「そういえば、結構、肌焼けたね」
美幸が、サンドイッチをかじりながら呟く。
「うん」
サンドイッチを掴む彼女の白い手に、目が奪われる。
「夏休み、どこ行ったの?」
「えっ……えっと、水族館、とか」
「いいなー。ゴールデンウィークにも行ってたよね」
「うん」
私もサンドイッチを一切れ手に取って、口へと運ぶ。
「どっちが、楽しかった?」
「え?」
「一緒に行ったんでしょ? 彼と」
ボロッ。
サンドイッチに挟まれた卵の固まりが、お皿へと落下する。
「え、選べないよっ、そんなの……」
「そうだよね。どっちも楽しいよね」
彼女がスプーンで卵をすくい上げて、そのままパクリと食べてしまう。
「美味しいー。私も卵にすればよかったな」
「……」
掴んでいたサンドイッチを、お皿に置く。パンからはみ出たマヨネーズが、指先に少しつく。
どうせrなら。そんな甘えが、心からムニュッとはみ出す。
「ねぇ、美幸」
「ん?」
「……下の名前で、呼ぶのって、しっ、親しい……って、ことだよね?」
ちらっと彼女を見てみると、まっすぐな視線が私に向けられている。うっすらと、眉間にシワが寄っている。
「それって、途中からってこと?」
「え? うん」
「なら、そうだよ」
彼女がにっこりと微笑む。三つ編みが、サラサラと風になびく。
「よかった」
「え?」
「ちゃんとした人で」
彼女が一息つくようにレモンティーを飲む。
「私に声かけてくる男って、みんないきなり馴れ馴れしいんだよねー」
「そう、なの?」
「そうそう。呼び方もだけど、最初のデートで家まで連れて行こうとしたりさ」
「えっ!?」
やっと食べ始めたサンドイッチの端切れが、口からこぼれ落ちる。
「スリルとか以前の問題。距離感わきまえてねって感じ」
ハーッ、と大きな溜め息が聞こえてくる。
「奈月が羨ましいよ」
ストローに口をつけたまま、彼女は遠くの空を眺める。返す言葉が浮かばなくて、掴んでいるサンドイッチに視線を落とす。パンに食い込んだ指の跡に、うっすらと影が落ちている。お皿の上にあったパンの端切れが、涼しすぎる風に吹かれて、コロコロと転がっていった。




