進んでいく夏 その6
外に出ると、湿気を帯びた風が緩く吹いていた。空はまだどんよりと曇っていて、太陽は隠れてしまっている。
「奈月ちゃん」
「はっ、はい!」
急に声をかけられて、背中がビクッとなる。
「早く慣れるといいね、呼び方」
彼がクスリと笑う。風に揺られて、木の葉も笑うような音を小さく響かせる。
「すみません……」
「いや。僕のわがままだから」
彼がそっと、手を差し出す。
「よかったら、コンビニ寄っていかない? なんかコンビニスイーツ、食べたくなった」
「はい!」
差し出された彼の手に、ゆっくりと手を伸ばす。彼は動かずにじっと待っている。いつの間にか風も止んで、私のことをじっと見守っている。
やっと、手が彼の元に届く。柔らかい感触が。ぬくもりが。私の心を満たしていく。でも……
いいのかな、私で。
心の底に沈めていたはずのものが、ブクッと泡となって浮上してくる。
この手を握るのに、私なんかじゃ……
キュッ。
握られた手から、彼の体温が一気に流れ込んでくる。まるで不安の泡を一つ残らず打ち消すように、強く。
「行こう」
「……はい」
ゆっくりと、歩き始める。湿気と暖かさが入り混じった風が、優しく背中を撫でていく。
「そういえば、君も抹茶とか好きなの?」
「えっと、抹茶のお菓子は大丈夫ですけど、苦いものはあんまり」
「そっか。僕も甘い物の方がいい」
「ですよね。メロンパンとか、買ってましたもんね」
「あ。それ言う? 結構、恥ずかしかったんだけどなあ」
「すみません!」
「大丈夫、大丈夫」
彼が繋いでいる手を軽く振る。
「最近のコンビニスイーツって本当に美味しいよね。今日はチョコ系にしようかな」
「あ、私もチョコ食べたいです」
「じゃあ、一緒のにして、後で感想言い合おうか」
「は、はい!」
そんな会話をしているうちに、コンビニの手前の曲がり角が見えてくる。
ん?
ポツリ、と一粒空から降ってくる。
「あの、急いだ方が……」
言いながら、足を速めようとするけれど……
「河野、さん?」
彼は急ぐどころか、今にも立ち止まってしまいそうだ。
ポツリ。また、冷たい雨が降ってくる。
「……実は、さ」
彼が前を向いたまま、呟く。
「他にもあったんだ」
「え?」
「今日、遅れた理由」
「……」
とうとう、彼が立ち止まってしまう。私も、足を止める。彼を見つめるけれど、こちらを見ようとはしてくれない。
バッと勢いよく風が吹いて、冷たい雨粒が頬に当たる。
「時々、杖を放り投げたくなる」
「……っ」
彼の震える声に。ひんやりとした手のひらに。私の心は呼吸をすることをやめた。
「思い出すんだ、なぜか天気が悪いと」
降り始めた雨にかき消されそうな声。それを、繋いだ手から、なんとか拾い上げる。
「可哀想だ、とか。大変そうだ、とか。何も知らない他人の言葉なんか、ほっとけばいいのにね」
「……」
「僕だって、傷付くんだよ」
雨がじわじわと、服を湿らせていく。何も言えない私は、ただ、色濃くなっていく水のシミを見つめるしかできない。
どうして。どうして彼が、こんな思いをしなくちゃいけないの。
心に渦巻く怒りが。彼の悲痛な叫びを受け止めきれない苦しさが。濁った涙となって、激しく溢れ出しそうになる。……でも。
泣くのは、泣いてもいいのは、私じゃない。
空いている方の手を、グッと握りしめる。それでも足りなくて、奥歯もググッとかみ締める。
「……でも」
彼の手に、ほんの一瞬、力がこもる。
「君がくれたストラップ」
「……え?」
「あれを見てると、落ち着けるんだ」
フワッと風が吹いて、頬についた雨粒を優しくはらう。
「君は違うって、思い出させてくれる。だから、また前を向いて歩いていける」
さっきまで冷たかった雨が、温かさを抱いて、身体中にじんわりと染み込んでくる。少しずつ集まって、大きな流れとなって、体の中心へと辿り着く。冷え切っていた心を、徐々に温め直していく。
「ごめん。また泣かせちゃって」
いつの間にかこちらに振り向いていた彼が、繋いでいた手をそっと離す。そして、ゆっくりと。私の頬へと伸ばしてくる。
「……いいんです」
「え?」
彼の手が、頬に触れる寸前で止まる。
「これは、拭わなくていい、涙、です」
温かい涙が、頬に残っていた雨粒と溶け合って、スーッと頬を滑り落ちていく。また一筋、淡い光を帯びて。
「……そっか」
彼の手が、ゆっくりと離れていく。その手が、ほんのりと赤みを帯びているように見える。
「なら」
彼の手が。腕が。私の背中に回される。
ザーッと、雨が強くなって、一気に私の視界を奪う。
次の瞬間には、もう。
私の体は、彼の胸元に飛び込んでいた。
「……」
一際強い風が吹き渡る。降り続ける雨も、湿った空気も。何もかもを一息で吹き飛ばす。彼と、私。二人だけを残して、静かな世界へと閉じ込める。
「……ありがとう」
彼の芯が通った声は、まっすぐに私の心を目掛けて飛んでくる。
「ずっと、言いたかった」
彼の腕に、ギューッと力が込められる。でも、全然苦しくない。
私の涙が、彼の服をしっとりと濡らしていく。そのことに気付いていても、どうすることもできない。温かい風がそっと私の背中を押してくれる。それに甘えて、ゆっくりと体を彼に預ける。
彼の体温を全身に浴びて、私の心はどこまでも透き通っていった。




