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あの日満開の桜の下で 〜目が見えにくい彼との物語〜  作者: 綾瀬 桜


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進んでいく夏 その5

 扉を開けると、ジャズのメロディーが細波のように流れてくる。いつ来ても、ここの空気は心地いい。

「あれ? 今日は一人?」

 マスターが不思議そうに尋ねてくる。

「いえ……」

「圭太郎くん、まだ来てないよ」

「えっ」

 いつもの席を覗いてみるけれど、彼の姿はなくて。テーブルがどんよりとした曇り空の下で、ぼんやりと輪郭を浮かび上がらせているだけだった。

「まぁ、待ってれば来るよ」

「はい……」

 案内されるまま、いつもの席に腰を下ろす。

「ご注文は?」

「後で、いいですか」

「はいよ」

 マスターは小さく頷いて、そっと歩き去っていった。


 窓の外をどれだけ眺めても、野良犬が歩いているくらいで。あの凛とした彼の姿は、輪郭すらも見えてこない。

 どうしたんだろう。

 空に、どんどんと黒い雲が広がっていく。今にも、雨が降りそう。もしかして。

 来ないよ、雨の日は。

 マスターの言葉が、頭をよぎる。身体中の毛が。胸が。ゾワゾワして止まらない。


「雨、降りそうだね」

 気付いたら、すぐそばにマスターが立っている。腕組みをして、窓の外をじっと見つめている。

「大丈夫」

「え?」

「約束、してるんでしょ?」

「……はい」

「だったら」

 マスターがにこりと笑う。白い歯がキラッと光る。

「何も言わずにドタキャンするような男じゃないよ、彼は」

 その言葉が、深く突き刺さる。……どうして、私は。

 そんな当たり前のことを。心が深い谷底へ、落ちていく。分かっているはずなのに、どうして。どうして……


「あ!」

 マスターの声で、反射的に立ち上がる。窓の外に、小さく彼の姿が見える。

 ……よかった。

 体から力が抜けて、ゆるゆると椅子に寄りかかる。


「いらっしゃい。お待ちかねだよ」

 入り口でマスターの声が聞こえる。耳は反応できているけれど、体の感覚はまだ回復していない。

「奈月ちゃん!ごめん!」

 少し遅れて、彼の言葉が、焦りのにじんだ表情と共に飛び込んでくる。

「いえ……っ、大丈夫、です……」

 ようやく体が感覚を取り戻す。そっと、座り直す。

「見て、ないよね?」

「え?」

「メール。遅れるって、送ったんだけど」

「えっ!?」

 慌てて携帯を取り出す。すると、手がつるんと滑る。

「わっ!」

 ゴトン。

 携帯が鈍い音を立てて、テーブルに転がる。

「はい」

 彼が拾って、そっと私の手のひらに乗せてくれる。

「出かける前に、母さんに用事頼まれちゃって。待たせて、ごめん」

「いえ!全然っ!私こそっ、すみません!メール、ちっとも気付かなくて……」

「いや、気にしないで」

 彼が向かいの席に座ると、マスターが水を運んでくる。

「心配してたよ、彼女」

「いえっ!いや、してましたけどっ、そうじゃなくて私が勝手に!!」

「そうだ、そうじゃなくて」

 私の言葉をさらりと聞き流したマスターが、彼に一歩近づく。

「奈月ちゃん、って。いつから呼んでるの?」

「……っ!」

 マスターがちらりとこちらを見るけれど、すぐに彼の方へと視線を戻す。

「……そんなの」

 彼が顔を背ける。一瞬、私と目が合うけれど、素早く窓の方へと視線を流す。

「マスターには関係ないだろ」

「えー。そりゃないだろう。ね?」

「えっ」

 それ以上反応できずに、固まってしまう。

「もういいだろ、彼女、困ってる。ほら、お客さん呼んでるよ」

「はい、はい」

 また後で。そう言って、ひらひらと手を振ってからマスターが去っていく。

「ごめん、大丈夫だった?」

 彼が一口、水を飲む。

「はいっ、私は別に……」

 言いながら手に取ったグラスの中で、水が大きく揺れる。

「……分かりやすいなあ、ほんと」

「え?」

「いや、なんでもないよ」

 彼がやんわりと笑って、グラスを置く。水は少しも揺れることなく、静かに淡い光を放っていた。


「そういえば、君のお母さんって、どんな人?」

「え?」

「いや、なんとなく。うちの母さんはあんなだけど、他の家のお母さんも似たような感じなのかなと」

 エビピラフを口に運びながら、彼が思案顔になる。

「私のお母さんも、しょっちゅう用事頼んできますよ。コンビニであれ買ってきて、とか」

 私はオムライスをすくいながら答える。スプーンに映った自分が、肩をすくめているのが見える。

「それこそ、前に河野さんとコンビニの近くで会った時、お母さんに頼まれた抹茶スイーツ買ってたんですよ!」

「あぁ、そうだったんだ」

 言いながら、クスクスと笑い出す。

「あの……?」

「ごめん、ごめん。思い出してさ。あの時の、君の顔」

「……っ」

 しばらく、クククッと彼が笑うのを、どうすることもできずに眺めていた。

「でもさ」

 彼が軽く咳払いをする。

「君のお母さんに、感謝しないと」

「え?」

「だって、あの日、あの場所じゃなかったら。今こうして二人でご飯を食べてる未来なんて、なかったかもしれない」

「……」

「すごいよね、人の力って」

 彼が遠くの空を眺める。その横顔は、思い出に浸っているように見えて。でも、どこか寂しそうにも見える。雲の間から少しだけ覗いた太陽の光が、彼の頬をそっと包み込んでいた。

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