進んでいく夏 その4
控えめな熱を帯びた風と遠慮のない蝉の声が、網戸をくぐり抜けて一気に流れ込んでくる。開け放ったカーテンがバッと舞い上がっては静かに戻る。
ノートに書き連ねた数字を見つめてから、もう数分。私の思考も。ペンを走らせる手も。固まってしまって、動かない。
どうしよう。……お金が、足りない。
夏休みはまだあと半分くらい残っている。来月のお小遣いを考慮しても、足りそうにない。……でも。
まだまだ出かけたい。彼と。
なら、奈月ちゃん。これ以上は譲れない。
彼の、あの言葉。あの時はちゃんと考えられなかったけれど、あれって、つまり……
頬がボッと赤くなる。頬に当たる風が、帯びた熱の高さをくっきりと際立たせる。
あの言葉の、その先にある景色を。見たい。
段々と抑えきれなくなってきた欲望に。期待に。押しつぶされてしまいそうな自分を。ペンを強く握りしめて、どうにか現実へと連れ戻す。
今は、目の前の問題だ。そう言い聞かせて、感情の波を鎮まらせる。
「お母さん」
リビングに行くと、お母さんは新聞紙をチョキチョキと切り取っていた。
「……何してるの?」
「何って、記事を切り抜いてるのよ」
「なんで?」
向かいの席に座って、既に切り抜かれた記事を読んでみる。どれもこれも難しい内容で、お母さんが関心を持つようなものには思えなかった。
「気付いたら、新聞紙がいっぱい溜まってるじゃない。捨てようと思ったんだけど、お父さん、読み返すかなって」
「そっか」
お母さんって、お父さんのこととなると、すごいなあ。前にも、お父さんが帰ってくる前に頑張って書類整理してたっけ。
彼女の新聞に向けられた真剣な眼差しに、私は釘付けになっていた。
「で? 何か用じゃなかったの?」
チョキ、チョキ。手を止めずにお母さんが尋ねる。
「……うん。でも、今じゃなくても」
いい、と心の中で呟きながら、窓の外に目を向ける。
鳥の群れが、空を飛んでいる。一羽だけ、みんなとは違う方へと飛んでいく。けれど、その鳥は迷うことなく、凛とした姿で遠くの空へと。
「……アルバイト、しようかなって」
声が震えなかった。そのことに、胸がドキドキしている。
チョキ。音が鳴り止む。
「急にどうしたの?」
お母さんがこちらをまっすぐ見つめている。
「お金、貯めたいから」
「何の為に?」
「えっと……そ、それは……」
さっきまでの勢いは、ささやかな風に持って行かれてしまった。
「別に、反対してるわけじゃないわよ?」
お母さんが顔を覗き込んでくる。
「ただ、知りたいの。だって、初めてじゃない。奈月がそういうこと言うの」
お母さんがそっと、新聞紙を脇に避ける。
「えっと、その……」
言葉はいつだって、いいようにまとまってくれない。
「夏休み、で……出かけることが、多い、から」
「あら、それならお小遣い、夏休みの間だけ、足そうか?」
「えっ、でもっ」
「お母さんは、アルバイトよりは勉強頑張ってほしいわね」
「……」
返す言葉が見つからない。
「それに」
お母さんが子どもみたいに無邪気な笑顔を見せる。
「アルバイトしてたら、予定立てにくいわよ? デートとかの」
「えっ!?」
危うく、椅子から転げ落ちそうになる。
「もうっ。それならそうと言ってくれればよかったのにー」
「だって……」
勝手に口がもごもごとなって、その先を言えない。
「分かったわ。じゃあ、もし奈月が返したいなら、働き出してから返してちょうだい」
「えっ、でもっ!」
「お母さんはそれで困らないし。学生時代は今しかないのよ。ね?」
お母さんお得意の、ウインクが飛んでくる。
「……うん」
すごい破壊力。これじゃ、お父さんも何も言い返せないや。
「さてと。そろそろお昼ご飯よねー」
「お母さん」
歩き出そうとする彼女を引き止める。
「ん?」
「……ありがとう」
いいのよ、と軽やかなステップで台所へと消えていく。
テーブルの上に残された新聞の切り抜きが、日光に照らされて、仄かな光を放っていた。




