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あの日満開の桜の下で 〜目が見えにくい彼との物語〜  作者: 綾瀬 桜


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進んでいく夏 その2

 震える指先が、ゆっくりと。でも、確実に。言葉を紡いでいく。


 水族館に、行ってみたいです。


 ……駄目、かな。

 窓から見える三日月に尋ねてみても、答えてはくれない。夜風も、昼間の熱を冷やすのに必死で、相手になんかしてくれない。


 次はどこに行こうか?


 そう彼からメールが届いたのは今日の昼過ぎで。ただでさえ返事が遅れているのに。水族館だなんて、わがまま、だよね。……でも。

 前に見たカップルみたいに、私も。……それに。


 夜分にすみません。水族館に、行ってみたいです。でも、他の場所でも大丈夫です。


 聞いてみないと、分からないよ。もう、あの時みたいな。映画館の時のような思いはしたくない。させたく、ない。送信ボタンを押す親指に、涙が一粒ポタリと落ちる。


 できる限り、一人で立ち止まらないようにします。

 彼と交わした約束が、涙の波をせき止めてくれた。


 日曜日。照りつける太陽がサンダルから覗くつま先をジリジリと熱していく。少し、ヒリヒリする。それでも、潮の香りを運ぶ風が、私の心も軽々と彼の元へ運んでいく。


「おはよう」

 やっぱり先に待っていてくれた彼が、爽やかに笑う。

「おはよう、ございますっ」

 彼の笑顔は何度見ても、見慣れることはない。頬の熱が、そう私に告げてくる。

「行こうか」」

「はっ、はい」

「……いい、かな?」

 言いながら、彼の手がそっと私の手を握る。私は何も言わずに、ほんの少しだけ握り返す。

「僕も来てみたかったんだ、水族館」

 彼が優しく笑って、歩き出す。既に熱暴走を起こしている私の体は、彼の手を離さないようにするのが精一杯だった。


「あのっ、説明文とか、読んだ方がいいですか?」

「いや、大丈夫。それより、魚がどの辺にいるか言ってくれると助かるかな」

「はいっ!」

 子どもたちが見終わるのを待ってから、二人で水槽の前に立つ。

「えっと……あ、右の下の方に、赤い魚の群れが」

「ん? あ、ほんとだ。いっぱいいるね」

「あのっ、あっちの水槽に、おっきい魚がいますっ!」

「ほんと? 見に行こう」

 私たちはそれぞれの水槽で足を止めては、宝探しをするように魚を追い続けた。


「宮城さん」

 彼が急に足を止める。

「いろいろ情報教えてくれて、ありがとう」

 彼がにこりと笑うけれど、私の空いている方の手が、微かに震える。

「でも、なんて言えばいいのかな……」

 彼が目を閉じる。他の客たちがどんどん私たちを追い越していく。人の波を感じることに集中して、心に押し寄せる不安の波をどうにか和らげる。そうでないと、このまま立っていられそうにない。

「君にも、楽しんでほしい。だから、全部僕に合わせなくていいんだよ」

「……」

「全部をちゃんと見れなくても、僕は楽しいから」

 彼がキュッと、握っている手に力を込める。彼の優しさが。たくましさが。私の体に流れ込む。不安の波を打ち消すように、どんどんと。

「わっ、私もっ」

 彼の手を、強く握り返す。彼の手が一瞬、ビクッと跳ねる。

「河野さんにっ、楽しんでほしい、ですっ……それにっ。それに、私は十分、楽しいです」

 言葉を言い切るのに必死で、自分が俯いていることに気付かなかった。

「……そっか」

 彼の言葉が思ったより上の方から聞こえてきて、ようやく氣付く。ゆっくりと、顔を上げる。

「じゃあ、このまま進もうか」

 彼の穏やかな声が。笑顔が。私の心を温かいもので満たしていく。魚たちが泳ぐ温かい海へと連れていく。


「……あの」

 今度は、私が足を止める。

「ん?」

「クラゲ、じっくり見ても、いいですか?」

「勿論。好きなの?」

「はい!」

「素直でいいね」

「え?」

「今日一番の笑顔だよ」

 言いながら、彼もとびっきりの笑顔を見せる。

「見終わったら、声かけてね」

「はい」

 二人並んで、クラゲを眺める。ぷかぷか。静かな海をただひたすらに、浮かび続ける。

「まるで、君みたいだ」

 隣から、囁きが聞こえてくる。見上げると、彼はクラゲに目を向けたままだ。

「……どこが、ですか?」

 私もクラゲに目を向ける。どんなに見つめても、似ている所なんて思い当たらない。

「ちゃんと見てないと、見失いそう」

「……」

「でも、動きが純粋で、可愛くて。いつまでも、見ていたくなる」

「……」

「君の方が」

 彼の顔が近づく気配を感じる。

「ずっと可愛いけどね」

「……っ!」

 耳がみるみる真っ赤になって、呼吸が浅くなる。鼓動がおかしいくらいに跳ね上がって、マグマのようにものすごい熱量が、体の自由を奪っていく。手が離れそうになるのを、彼が握り直す。

「大丈夫?」

「だ、だだっ、大丈夫ですっ!もう、行きましょう!」

 隠しきれない動揺を拭い去るように、思いっきり足を踏み込んだ。


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