立ち止まらせる雨 その3
どんよりとした雲が一面に広がり、今にも泣き出しそうな空。それでも、いつまでも立ち止まっているわけにはいかない。結局あれから一度も鳴らない携帯をポシェットに押し込み、ピンク色の傘を握りしめて、外に出る。
こんなに、遠かったっけ。行けども行けども、まだ辿り着かない。二人で歩いていた時は、もっと早かったのに。蒸し暑い空気にさらされて、じんわりと背中に汗をかく。
ようやく、煉瓦造りのあの店に辿り着く。来てはみたものの、なかなか店内に踏み込めずに、一人立ち尽くす。
どれくらい、こうしているのだろう。さっきからずっと、カエルが呑気な鳴き声を響かせ続けている。
・・・諦めるな。全力であたって、全力で砕けろ。
美幸の声と自分の声を重ねる。・・・おっす。
勢いをつけて、大きく一歩を踏み出した。
「いらっしゃい。あ、来てくれたんだね」
お好きな席へどうぞ、とマスターがにこやかに言う。前に来た時よりもジャズの音がよく響いている。話し声が全く聞こえない。どうやら、私の貸切状態のようだ。
「ご注文は?」
この前とは別の、少し奥まった席を選んで座る。するとすぐさま、マスターがおしぼりを出してくれる。
「あのっ」
彼をまっすぐ見つめる。
「き、今日は・・・マスターと、お、お話しっ、したくて・・・きました」
彼は動じることもなく、こちらを見つめ返す。彼の瞳が、しっかりと私を捉えている。
「・・・なるほど。ちょっとお待ちを」
彼はスタスタと店の外へ出て行き、「close」の看板をかけて戻ってくる。
「お嬢さん・・・宮城さん、だったかな」
「はい」
「宮城さん、苦いコーヒーは大丈夫?」
「・・・いえ」
「了解。しばらくお待ちを」
今度はカウンターの奥へと消えていく。ソワソワしながら店内を見回す。気付いていなかったけれど、壁には勢いよくジャンプするイルカのジグソーパズルが飾られている。ダイナミックなその姿に、なぜか目が離せなかった。
「お待たせしました」
マスターが二人分のカップを持って現れる。テーブルにそっと置き、向かいの席に腰掛ける。
「それで。何を話そうか」
彼がコーヒーを一口飲む。勧められて、私も目の前のココアを口に運ぶ。2つのカップから立ち上る湯気が混ざり合って、私たちの視界を奪っていく。
「・・・」
どう切り出せば、いいのだろう。どれだけ頭をフル稼働させても、私が言いたい言葉は見つからない。
「・・・来ないよ、雨の日は」
「え?」
「圭太郎くん」
「・・・」
見抜いている、全て。彼の瞳が、そう告げている。真っ黒な瞳が、私の心の奥まで頼んでもないのに覗き込む。
「河野さんは・・・」
それなら、全部聞いてしまいたい。
「あの人は、どういう人、なんですか?」
コンッ。
手が震えて、テーブルとの距離感を掴み損ねる。カップが鳴らした音が、やけに響く。
「・・・そうだねぇ。昔から、頑張り屋ではあるかな」
「・・・」
「あと、ああ見えて、子どもっぽいところもあったり」
「・・・」
私が黙って聞いていると、マスターはコーヒーを飲みながら、話し続ける。
「そうそう。雨の日は、極力外には出ないんだって。予定入れてても、たいていはキャンセル」
「な・・・」
「宮城さん、圭太郎くんの目のこと、どこまで聞いてる?」
「・・・」
ジャズが流れているはずなのに、キーンッと耳鳴りがしてきて、何も聞こえない。
「・・・雨の日は特に、目の調子が悪くなりやすいんだって」
マスターの声が少し遅れて耳に届く。
「あと、暗いところも見にくいって。だから、あそこが彼の指定席」
「・・・そう、だったんですね」
ようやく耳鳴りが治り、彼が指さす窓際の席をぼんやりと眺める。誰もいない席が、窓から入る薄暗い光でぼやーっと照らされている。
「彼と、何かあったの?」
「・・・」
何かあった、というより、何も始まっていない。
「・・・来ないんです」
「彼が?」
「・・・メールが」
無意識に、顔が下を向く。まだ立ち上っている湯気が、視界をぼやかす。
「だったら、宮城さんからメールしてみればいいんじゃないかな」
なんでもないことのように、マスターが呟く。でも、それは・・・。
「・・・待ってます、って言ったから。こちらからは・・・」
んー、とマスターはどっかりと後ろに背中を預けて、腕組みをする。
「別にいいじゃない。そんないい子にならなくても」
「・・・え?」
思わずバッと顔を上げる。
「だって、今日ここに来たってことは、そういうことでしょ?」
「・・・」
「かけひき、は必要なことだよ」
彼がニッと歯を見せて笑う。
「そう、ですか?」
「そうそう。大人になるって、そういうことかもしれない」
彼が残りのコーヒーを一気に飲み干す。
「さてと。あいにく、長いこと店も閉めとけないからね。質問があれば、1つだけ受け付けるよ」
「あっ、すみませんっ!私なんかの為にっ」
「いやいや」
彼がにこやかに言う。
「じゃあ・・・1つ、だけ」
「ん?」
私はもじもじしながらも、続ける。
「・・・河野さん、はっ。よくここに、来るんですか・・・女の人、と・・・」
「・・・」
恐る恐る、マスターの反応をうかがう。彼はポカンと口を開けて、変な、というか・・・間抜けな顔をしている。
「えっ・・・と・・・」
「あはははっ!なんだって?・・・っ、圭太郎くんがっ、女をここへ?・・・っ」
彼がお腹を押さえて苦しそうに笑う。
「あの・・・」
「あーっ、おかしいっ。ごめん、ごめん。あまりにも予想外だったから」
「・・・」
「お母さん以外なら、お嬢さんが初め・・・」
「ほんとですか!?」
バンッと音を立てて、条件反射のように勢いよく立ち上がる。足の踏ん張りが効かずに、少しよろける。
「あぁ、本当だとも。おじさんが、信じられないかい?」
「いえっ。そういうわけでは・・・っ」
顔を真っ赤にしながら、座り直す。
「まぁ・・・頑張って。・・・大変だろうけど」
さっきまで笑っていたマスターの表情がほんの一瞬、曇ったように見えた。まだ何も知らない私は、照明のせいかなと思うことにした。
「さぁ、そろそろ店開けるよ」
マスターがよいしょ、と立ち上がる。
「お時間、ありがとうございました」
私も立ち上がる。
「あの、ココア、おいくらですか?」
ポシェットの中をごそごそと漁る。
「いいよ、今回はサービス」
「えっ・・・でもっ」
「いいから、いいから。その代わり、また来てね。今度は、圭太郎くんと一緒に」
「・・・はいっ!!」
「うん。よろしい」
マスターは大きく頷いて、私と一緒に外へ出る。じゃあね、と言って、看板を手に取り、店内へと戻っていく。
パラパラと小雨が降っている。どこかすっきりとしない心が、傘を握りしめたまま歩き始めさせた。




