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待ち侘びた季節 その7

「こ、こんにちは・・・」

 感覚はまだふわふわとしていて、足元がおぼつかない。ぐわんぐわんしている頭でかろうじて指令を出し、声を絞り出す。

「こんにちは。ここだとあれなので、あちらへ」

 彼がスッと手のひらで駐車スペースの隅を指し示す。ピンッと伸びた5本の指が、まっすぐに同じ方向を向いている。

 ・・・やっぱり、綺麗。

 ぼやけた視界の中にあっても、素直にそう思える。この人は、杖を握っていても、いなくても。何をしていても、美しい。目を奪われて、話せない。


「・・・暑い、ですね」

「はっ、はい・・・」

 体の感覚はだいぶ戻ってきたけれど、頭はまだ少しボーッとしている。相変わらず涼しげな彼から「暑い」という矛盾した言葉が出てきても、たいして違和感を覚えることができなかった。

「宮城さん」

「・・・」

「・・・宮城さん?」

「はいっ!!」

 しっかりしなくちゃ。彼が不思議そうな、いや、心配そうな、どちらともつかない微妙な表情を浮かべている。握り拳を作ってグッと気を引き締める。

「お時間、ありますか?」

「・・・へ?」

「よかったら喫茶店にでも行きませんか。近くの」

「・・・」

 正常に動き始めたばかりの体が、感覚が、心が。まるで突然パンクしてしまった自転車のようにコントロールを失っていく。

「・・・」

「あ・・・、嫌だったら別・・・」

「いえっ!嫌なんてっそんな滅相もない!!お供しま・・・」

 あははっ。

 彼のカラッとした笑い声で、私の言葉はポーンとどこかへ蹴飛ばされる。

「じゃあ、お供してもらおうかな。・・・素敵なワンピースの、お嬢さん」

 えーーーっ!?

 何それ。何これ。どういう状況!?

 毛穴の隙間という隙間から、シューッと蒸気が溢れ出す。思考は完全に停止。立っていられるのが不思議なくらいだった。


 喫茶店へ向かっている間、何か話した方がいいのかなと最初は思っていた。でも、その考えはすぐに取り消された。

 彼の、正確に杖を振り続ける集中力。砂粒が蹴られる微かな音さえ逃すまいとする、研ぎ澄まされた感覚。隣で歩いていて、初めて分かる。どれだけの鍛錬を積み重ねて、今の彼があるのだろう。

 ・・・私に、これほどまでに頑張れたことって、何か1つでもあっただろうか。

 胸が、ズキッと痛む。鋭い針が刺さったみたい。

 彼の隣にいるには、ふさわしくない。そう思えてならない。私は彼に気付かれないように、そっと、一歩下がって歩く。

 なんだろう。

 今度は不思議な感覚に襲われる。さっきまでは自分のことに必死で気付かなかった。でも、たしかにある。なんか変な感じ。心地よく、ない。たしかに感じているのに、この時の私にはその正体に辿り着けなかった。


「ここです」

 彼が徐々に歩く速度を緩めて、一軒の喫茶店の前に立つ。赤い煉瓦造りの可愛らしい店だ。

 ・・・男の人って、一人でこんなお店に来るんだ。

 いや。どうしてそう決め付けるの?きっと、誰か女性と・・・。

 心の奥に、ドス黒い渦が生まれる。だんだんと激しく大きくなって、今まで大切にしてきたものを簡単に飲み込んでいく。

 ストップ、ストーップ!

 何考えてるの、私。きっと、さっきの変な感じをまだ引きずっているんだ。せっかく。せっかく彼と一緒にいるのだから、ピンクとかオレンジとか。もっと明るい色で満たされたい。そう思って、嫌なものを全て振り払うように、力強く足を踏み込む。


 一歩扉の中へ入ると、そこは別世界だった。まるで潮風を思わせるような空気が漂っている。月明かりのようなライトが、テーブルを仄かに照らす。静かに打ち寄せる波のようなジャズのメロディーが、心地よく耳を刺激する。さっきまでざわついていた心が洗い流されて、元の純粋なものへと戻っていく。


「あ。いらっしゃい。いつもの席、空いてるよ」

 焼けた肌に、キラーッと光る白い歯。まさしく海の家にいるようなおじさんが、席へと案内してくれる。

 ソファーに座って、テーブルをそっと撫でてみる。樹のぬくもりと手入れの丁寧さが伝わってくる。大きな窓から降り注ぐ日光が、ライトと一緒になってテーブルを優しく照らしている。

「ドリンク、何にしますか?」

 彼が優しく尋ねてくれる。

「えっと、何が、ありますか?」

「そう、ですね・・・」

 彼が少し困ったような顔を見せる。

「・・・すみません。メニュー、見てもらってもいいですか。僕は、いつものを、頼むので」

「あっ、すみませんっ!見ます!」

 いつも誰かにメニューを教えてもらっている癖が。顔がバッと熱くなる。

「・・・じゃあ、ロイヤルミルクティー、にしてみます」

 分かりました、と彼が小さく頷く。

「あ。お腹、空いてませんか?ここの卵サンド、美味しいですよ」

「えっ。えっと・・・その・・・」

 どう返事をすればいいのか。歯切れが悪くなってしまう。

「・・・言って、ごらん」

 彼が子どもをあやすような口調になる。

「・・・朝ご飯、」

「ん?」

「朝ご飯、いっぱい、食べちゃって。あんまり・・・」

 クスッ、と彼が小さく笑う。

「じゃあ、1つ頼んで分けましょう。僕一人でも食べ切れますから」

「・・・はい」

 彼の大人な対応に、なす術がない。

 マスター、と彼が軽く手を挙げる。

「はい、来ました。ご注文は?」

「ロイヤルミルクティーと卵サンド。あと、いつものを」

「はいよ」

 マスターはニッと笑って、カウンターの奥へと消えていく。

「ここ、よく来るんですか?」

 マスターをしっかり見送ってから、彼へと視線を戻す。

「えぇ、時々。宮城さんは、カフェとか、よく行きますか?」

「えっと・・・ほんとたまに、です」

 そうですか、と彼が穏やかに言う。

「宮城さんは・・・大学生、ですか?」

「は、はいっ」

 さっきから度々名前を呼ばれて、その度にドギマギしてしまう。いい加減慣れないと・・・。そうは思っても、なかなか心は言うことを聞いてくれない。

「いいなぁ、大学生」

 彼が窓の外を眺める。その物憂げな横顔に、私の胸はギューッと締め付けられる。q

「・・・働いてると、時々、懐かしくなる」

 ポツリ。ジャズの音色にかき消されてしまいそうなほど、小さな声。

「そ・・・う、なんですね」

 独り言、なのかもしれない。それでも、彼から発せられる言葉は全て、大事に拾い上げる。そう思って、耳を澄ませる。彼のように、とはいかなくても。感覚をできる限り研ぎ澄ます。


「はい、先に飲み物ね。サンドはもう少しお待ちを」

 ミルクティーと、カフェラテが運ばれてくる。ミルクティーからはほんのりと甘い香りが。カフェラテからは、普段家で感じるのとはまた違った、上品で濃厚な香りがふわーっと漂っている。・・・美味しそう。

「いやあ、それにしても久しぶりだね。しかも、お連れの方がこんな可愛いお嬢さんとは」

「ちょっ、マスター。・・・まいったな」

 彼が照れくさそうに笑う。その笑顔がどうしようもなく。

 ・・・可愛い。

 大人の男性に「可愛い」なんて、失礼な。・・・でも。

やっぱり、可愛い。なんだか心がくすぐったくなる。


「はじめまして、お嬢さん」

 今度はマスターが私に深々と頭を下げる。

「は、ははっ、はじめ、ましてっ」

「今後とも、圭太郎くんをよろしく」

「えっ!?いや、よろしくされてるのは私の方でっ!・・・あ、れ?」

早口でわけも分からず突っ走ると、二人が派手に笑い出す。

「・・・マスター、もういいから。早くサンド作ってきてよ」

「はいはい」

 マスターは颯爽と来た道を戻っていく。

「・・大変、失礼しました」

 彼が軽く咳払いをする。

「いただきましょう」

「・・・はい」

 ミルクティーを一口飲むと、そのほんのりとした甘さと温かさに心がほっこりとした。


「お待たせしました。当店自慢の、卵サンドです」

 さっきとは別人のような凛々しい姿のマスターが、スッとサンドをテーブルに置く。続いて、取り皿を2枚。

「マスター?サンド、1切れ多いよ」

 彼が顔を少しだけサンドに寄せて、指摘する。

「それはサービス。よく来てくれるからね。お嬢さんもぜひ、食べてやってください」

「はい!ありがとう、ございます」

「では、ごゆっくり」

 マスターが横目で彼をちらりと見る。彼は何か言いたそうにしていたけれど、何も言わずにマスターを見送る。

「じゃあ、取り分けますね」

「いえっ、私がやり・・・」

 あっ。

 二人の手が、ほんの一瞬、重なる。・・・一瞬、だと思ったのに。

それでも、彼の体温は確実に伝わって来て。一気に、身体中を駆け巡る。私の体温と重なって、私の一部となる。その甘い感覚に酔いしれてしまいそう。彼の、前なのに。

「すみません。大丈夫、でしたか?」

「・・・はい、こ、こちらこそ、すみません・・・」

 私の心とは裏腹に、彼の声は何もなかったかのように穏やかだ。・・・穏やかなのは、好き、だけど。それでも。

 今だけは、ものすごい温度差を感じてしまうの。

 彼に気付かれないように、奥歯をそっと、そっと噛み締めた。


「マスター、ご馳走様」

 彼がカウンター越しに声をかける。

「はい。1930円になります」

「はい。えっと・・・」

 彼が財布を取り出して、小銭を数え始める。一枚、一枚、小禅の輪郭をなぞっていく。滑らかな手つき。洗練されたスピードと正確さ。小銭が吸い寄せられるように次々と指の方へ。自然と目が、彼の指を、小銭の行方を追ってしまう。・・・って、そうじゃなくて。

「あのっ、私も払いますっ!」

「いえ、ここは僕が」

「でも・・・っ」

 お嬢さん、とマスターが優しく間に入る。

「ここは、彼に任せてもいいと思うよ。男は、かっこつけたい生き物だからね」

「はぁ・・・そう、なんですか」

「そうとも。なぁ、圭太郎くん」

「・・・」

 彼は無言で、音も立てずにお金を置く。

「・・・ご馳走様」

「はい、たしかに。ありがとうございます」

 マスターの白い歯がニッと一瞬見える。

「・・・宮城さん、行きましょう」

「はいっ。あっ、ご馳走様でしたっ」

 マスターの方を振り向くと、彼はにっこりとした笑顔で私たちを見送ってくれていた。


「あ、あの・・・ありがとうございました、お金・・・」

「いえいえ。こちらこそ、僕のわがままに付き合ってもらって」

「そんなっ!とんでもないですっ」

 お店を出て少し歩いたところで立ち止まる。さっきまで心地よく冷やされていた体が、徐々に夏のような暑さを取り戻していく。

 ・・・なんか、そっけない?

 さっきから、普段の彼の穏やかさとは違うものを感じる。

「・・・帰り、道分かりますか?」

「はいっ。大丈夫、です」

「では、ここで」

 彼がくるりとむきを変えて、歩き出そうとする。

「あ、あのっ!!」

 彼を引き止めようと必死で、大きな声が出る。

「・・・」

 耐えられない沈黙が走る。こんな時に限って、風も。鳥も。野良猫も。みんな眠ってしまったかのように静かだ。

「あの・・・」

 拳を強く握って、自分を奮い立たせる。

「き、今日・・・。楽しかった、です。だっ、だから、また・・・」

 手が、震えている。彼は全く動かない。こちらに背を向けたまま、静かに立っている。

「・・・またっ、お茶したいっ、です・・・っ」

 私の声だけが、虚しく響く。

「・・・では」

 ゆっくりと、彼がこちらを振り向く。

「また、行きましょう・・・一緒に」

 今日一番の穏やかで優しい笑顔が、そこにはあった。

 野良猫が。鳥が。風が。冬眠から目覚めるかのように少しずつ、音を取り戻していく。太陽が、それを優しく見守っている。

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