待ち侘びた季節 その4
窓が一つもない教室には、今日もムッとした嫌な空気が立ち込めている。まっすぐ前を見つめる頭。コックリ、コックリと小さく揺れる頭。天井の間引かれた照明がぼんやりとそれらを照らす。スッ、スッと、先生が文字を書き綴る音が微かに響く。最上段の席から見渡す世界はいつもと変わらず退屈だ。
隣の美幸をチラリと見やる。ペラッとページを捲る彼女の手元にあるのは深緑のカバーをかけられた本だ。私と同じく、先生の話を聞くつもりはないみたいだった。
あと、3日。あの人に、会えるまで。
そのことを考えるだけで、心が躍る。ドクン、ドクンと脈打つ鼓動がどんどんと大きくなって、私の思考をあっという間に支配する。
来週、この時間、また来ます。
彼の心地いい声が頭の中を何度も駆け巡る。その声が徐々に、甘く、熱を帯びた囁き声へと色を変えていく。息が、止まりそう。いい。このまま、溺れてしまいたい。
「奈月」
ハッとなり、思わずのけ反る。
「また、ボーッとしてる」
美幸が小声で囁く。
「・・・大丈夫、だから」
私も小声で囁き返す。
「そ」
彼女はそれだけ呟いて、再び本に視線を落とす。
・・・いいところ、だったのに。
この時だけは、ほんの少し、彼女を憎らしく思った。
長すぎる授業が終わり、扉が開け放たれ、新鮮な空気が流れ込む。話し声に、笑い声。荷物を片付ける音に、椅子を仕舞う音。さっきとは打って変わって賑やかになる。ザーッと学生たちの波が扉から押し出されていく。その波が落ち着いてから、美幸と二人で暖を降りていく。
「さっき、何考えてたの?」
美幸が視線を寄越す。
「・・・別に」
思ったよりぶっきらぼうな声が出てしまって驚く。
「そ、そっちこそ、何読んでたの?」
「あ、バレてた?」
「うん、バレバレ」
だよねー、と彼女は悪びれもなく言う。
「今流行りの、恋愛小説」
「え?」
聞き慣れない単語が飛び込んできて、自分の耳を疑う。
「だ・か・ら、恋愛小説だって」
「えーっ!?あの美幸が!?」
学生たちがこちらを振り返る。私は慌ててトーンを落とす。
「ミステリー一筋じゃなかったの」
「そんなことないよ。まぁでも、恋愛物は滅多に読まないけどね」
じゃあ、なんで。
私が質問するより早く、彼女が答えを提示してくる。
「いつか、参考になるかと思って」
「え、何の?」
「なーいしょ」
美幸がイタズラっぽく笑う。三つ編みが、振り子のように大きく揺れる。窓から差し込む午後の陽射しが、その黒髪のつやをくっきりと浮かび上がらせていた。
玄関の扉を開くと、ひんやりとした空気が流れてくる。べっとりとした汗でへばりついたTシャツを、涼しい風が撫でる。うんざりしていた気持ちが、少し和らぐ。
「ただいま」
「おかえりー」
お母さんが返事をしながら、握っていたペンをくるくるっと回してみせる。ペン先が夕暮れの光を反射しながら、素早く円を描く。
「・・・何してるの」
「あら、見て分からない?お父さんに手紙よ。前にぼやいてたでしょ?だから、今度はこっちから出して驚かそうってわけ」
お母さんが楽しそうに笑う。
「ご飯の用意は、この後するから」
「うん」
彼女の肩越しに、書きかけの文章が見える。
今頃は大阪ですね。たこ焼・・・
また、だ。これで近況報告のつもりなのだろうか。
母さんから少しは聞いてるけど・・・よく分からん。
お父さんの言葉が蘇る。さすがのお父さんでも、これではどうしようもない。
「お母さん」
呆れて思わず言葉がこぼれる。
「なぁに?今日は肉じゃがよ」
「・・・いや、そうじゃなくて。・・・ハガキ、余ってる?」
「あるわよ。・・・はい」
「ありがとう」
ハガキを受け取り、リビングを後にする。振り返ると、お母さんが夢中でペンを走らす姿が映る。
頑張って。お父さんの為にも。
そう願いながら、自分の部屋へと向かった。
ハガキを前に、いざペンを手に取ってみると、なかなかいい言葉が思い浮かばない。他人に見られるのも嫌だし、あまり踏み込んだことは書けない。
・・・レターセットがあればよかったのに。
はぁ、と溜め息が出る。そういえば、お父さんはどんなことを書いているのだろう。私は一度も読んだことがない。きっと、向こうでの生活ぶりを細やかに書いてくれているのだろう。
しばらく悩んでみたものの、今回は仕方なく、当たり障りのない言葉を綴る。
こちらはゴールデンウィークの時よりもずっと暑くなっています。ですが、二人とも元気です。また、手紙出します。
・・・これじゃ、お母さんと変わらないや。
そう思いながらも、裏に宛先を書いていく。遠くの空で、カラスが物悲しく鳴いている。夕日が赤々と照らす室内で一人、無性に情けなく感じた。




