待ち侘びた季節 その2
「・・・おはよう」
目を擦りながらリビングに入ると、お母さんはいつものように元気よく動き回っていた。
「あら。こんなに早いなんて珍しいじゃない」
お母さんが窓を拭く手を止めて、くるっと振り返る。
「うん。・・・ちょっと、ね」
「眠そうねえ。コーヒーでも飲む?」
「えー・・・」
苦いじゃん。そう言いかけて、ちょっぴり悩む。
「・・・ミルク、ある?」
「あるわよ」
お母さんが朗らかに笑う。朝日に照らされた彼女の頬に、うっすらとシワが見える。それが、長年積み重ねられた樹木の年輪のように愛おしく思えた。
「はい。ミルク多めねー」
目の前にカップが置かれる。湯気がふわーっと立ち上って、苦い香りと甘い香りが入り混じる。一口飲んでみると、ほろ苦さの中にミルクのほんのりとした甘さを感じる。
「・・・美味しい」
素直な感想がこぼれ出る。
「でしょ?コーヒーだって、悪くないでしょ」
お母さんが得意げな笑みを浮かべる。
「うん、そうだね」
彼女につられて、私まで笑顔になる。
「・・・そうだ、お母さん。私、ちょっと、出かけてくる」
「そう?いってらっしゃい」
彼女はカップを片手に、遠くの空を眺める。私も視線を移す。白い鳥が一羽、その美しい羽をたくましく羽ばたかせて、真っ青な空を飛んでいく。羽根の一枚、一枚がキラキラと輝き、やがて眩しい光の中へと消えていく。
あんなふうに、私も飛べたらいいな。そう、思った。
同じ曜日。同じ時間。今しかない。やっと絞り出した勇気が消えないうちに、行かなくちゃ。そう覚悟を決めて、玄関の扉をグイッと押し開ける。
一歩外に踏み出すと、太陽が容赦なく照りつけている。アスファルトが、初夏とは思えないほどの熱を帯びている。その熱気にひるみそうになりながらも、一歩、また一歩と必死に歩みを進める。
同じ曜日。同じ時間。彼が歩き慣れた道。もし少しでも可能性があるとするなら、ここしかない。私が導き出した、たったひとつの道。
彼を、あの凜とした姿を追い求めて、道をどんどんと突き進んでいく。・・・でも。
まっすぐ伸びた広すぎる道は、私一人の足音だけを悲しく響かせる。彼どころか、野良猫一匹すらいない。だんだんと歩みは遅くなり、足音も弱々しく消えていく。
気付いたら、私は力無く立ち尽くしていた。木の葉を揺らす微かな風も。ギラギラと輝く太陽も。いつもと変わらない街並みも。その全てが煩わしく思えて、何もかも放り投げて逃げ出したくなった。
・・・それでも、会いたいんでしょ?
そうだ。そうだよ。一度駄目だったくらいで諦めないで。そんな半端な気持ちじゃなかったはず。また何度だって頑張ればいい。もう二度と、神様が偶然を運んできてくれないとしても。自分の力で、何がなんでも彼を見つけ出す。そう思い直して、また歩き出す。
結局、コンビニの前まで来ても、彼に会うことはできなかった。まだ1回目だ、仕方ない。そう言い聞かせながらも、残念がっている自分を隠しきれない。はーっ、と肩をがっくり落として、とりあえずコンビニの中に入っていく。
自動ドアが開き、冷房でしっかりと冷やされた空気が流れ込む。身体中にまとわりついたベタついた汗が徐々に取り除かれていく。額に浮かび上がっていた汗粒は、もうすっかり消えていた。
お母さんにも何か買って行こうかな。そんなことを考えながら、スイーツコーナーへと向かう。
お母さん、これ好きそう。新発売のチョコバナナクレープに手を伸ばす。すると、横からスッと、誰かの手が伸びてくる。
・・・えっ。
もしかして。まさか。そんな。
期待を込めて、ゆっくりと顔を向ける。
「おっ、と。ごめんね」
元気のいいお兄さんが、ひょいっと手を引っ込める。
「い、え・・・こちらこそ、すみません・・・」
・・・そんなわけ、ないよね。
お兄さんは何も悪くないのに、勝手にがっかりして申し訳ない気持ちになった。隣にあった別のクレープを手に取り、その場を後にする。
自分にも何か買おうかと思って、棚を見ていく。色とりどりのお菓子。今の季節にちなんだ爽やかなドリンク。普段なら目を引かれるはずのそれら全てが、まるでモノクロ写真のように色を失っていく。
ふと、お母さんが、食パンもうないのよね、とぼやいていたことを思い出す。スイーツだけ買って帰ったら、またブーブー言い出すかも。そう思って、会計の前にパンコーナーの列に足を運ぶ。すると・・・。
・・・え?
えっ。う、嘘。こんなことって・・・ある?
真っ先に自分の目を疑って、バチバチと何度も瞬きをする。グイグイッ、と強く目をこすってもみる。・・・幻、なんかじゃない。
いる。本当に、いる。見間違えるはずがない。そこには。
そこには、会えるのをずっと、ずーっと待ち侘びていた彼がいた。
神様、ありがとう。きっとこれは、生まれて初めてぐらいに必死に頑張った私への、最初で最後のご褒美、なのですね。絶対に無駄にはしません。絶対に。だから、どうか。私にもう少しだけ、ほんの少しだけでいいんです。さらなる一歩を踏み出す為に。物語を始める、その一歩を踏み出す為に。私に足りない力を、どうか貸してください。
パンを手に取り、ピンッと背筋を伸ばして立っている彼。天井のライトが、まるでスポットライトのように彼だけをキラキラと照らし出す。棚も。壁に備え付けられた大きな冷蔵庫も。店内中にひしめき合う人たちも。その全てが、背景になることもできずに消えていく。
その美しさを壊さないように、そっと。小さく息を吸って、彼の元へと。ゆっくり、ゆっくりと、歩み寄る。
「河野、さん・・・」
呼びたくてたまらなかったその名前は、微かに震えて、音の波へと変わっていく。果たして、彼に届くのだろうか。
「・・・み、宮城です。こん、にちは・・・」
緊張で弱々しい声は、消えかかったロウソクの灯のようにか細い。
「・・・あぁ。宮城さん。こんにちは」
彼の言葉が届いた途端、周りのもの全てが、キラキラと輝く宝石のように鮮やかな色を取り戻していく。
「お、お買い物、ですか?」
「ええ。近くまで来たので。・・・お久しぶり、ですね」
「は、はいっ」
彼の優しい眼差し。この穏やかな笑顔。あれほど待ち望んでいたものが、ここにある。それなのに。いざとなると、恥ずかしすぎて直視できない。
「あ。・・・あの、よかったら、なのですが」
うつむく私に、彼がそっと囁く。
「消費期限、見てもらえませんか?・・・印字が、見にくくって」
彼が少し困った顔で、パンを差し出す。その手に乗せられたメロンパンが、ぽわーっとい柔らかい光に包まれているように見える。
「はっ、はい!よろこんで・・・っ」
ゆっくり、ゆっくり。彼の手の方へ。少しずつ、少しずつ。距離を縮めていく。・・・そして。
彼と、私。何ものにも邪魔をされない二人だけの世界で。手と手が、そっと、僅かに触れ合う。
彼の指先から、一瞬のうちに温かい波が流れ込む。もっと緩やかなものだと思っていたのに。こんなに、電流みたいに激しいなんて。
どんどん。どんどん。彼のぬくもりが伝わってくる。指先から流れ込んだ波は、さらに勢いを増して、身体中を駆け巡る。あっという間に、私の心を完全に支配する。
・・・駄目だ。このままじゃ。このままだと、想像以上の幸福感と衝撃で、どうにかなってしまいそう。
熱を帯びてしまった手を冷やすように、パンの袋を手のひら全体に押し当てた。
「・・・えっと、明後日、まで・・・です」
今度は彼の手に、指に、爪の先にすら触れないように、慎重にパンを返す。・・・二度目は、きっと、無理。今すぐどうにかなってしまう。それだけは、避けたい。
「ありがとう、ございます」
彼の笑顔に、再び体温の上昇を感じる。顔がカーッと赤くなっている。そんなことは鏡を見なくたって分かる。どうか、今はまだ、気付かないでほしい。
「あ、ああっ、あのっ」
完全に鈍ってしまった頭で、必死に言うことを聞かせる。今やることは、やるべきことは、高揚の波に酔いしれることではないでしょ。神様にだって、ちゃんと約束したじゃない。
「あのっ・・・、この後、お、お時間、あります、か?少し、お話し、したい、です・・・っ」
言えた!言えた!なんとか、最後まで。これが、今の私の全力。
「勿論、いいですよ」
彼の落ち着いた声に、少しだけ冷静さを取り戻す。
「じゃあ、先に、コンビニの外で待ってて、くれますか?・・・すぐ、行くので」
「はい、分かりました。では、出て左手の辺りで待ってますね」
こくこくと私が頷くと、彼は軽く頭を下げて歩き出す。凜とした後ろ姿。風に揺らされる稲穂のような髪。杖が描き出す洗練された弧の輪郭。まるで絵画のような光景が、いつまでも目に焼き付いて離れなかった。




