待ち遠しい季節 その4
「お父さん?」
リビングを覗いてみるけれど、姿が見当たらない。カシャ、カシャ。水が流れる音と食器がこすれる音が聞こえてくる。
「お母さん、お父さんは?」
「え?お父さんの部屋にいるんじゃないの」
洗い物の手を止めずに答える。
「そっか」
すっかり忘れていたけれど、お父さんにも自分の部屋があるもんね。いつもリビングにいるイメージがあって、今日もここにいると勝手に思い込んでしまっていた。
お父さんの部屋の前まで来てみると、扉が少し開いていて、中から細い光が一筋伸びている。カチャ、カチャ、と軽快な音も漏れ聞こえてくる。
そっと覗き込むと、お父さんはこちらに背を向けて、何やら机で作業をしている。
「ん?」
急にお父さんが振り向く。ビクッと心臓が飛び跳ねる。
「ごめんっ。……邪魔しちゃって」
「いや」
「……入ってもいい?」
「ああ」
中に入り、そっと扉を閉める。同じ家の中のはずなのに。どうしてだろう、ここだけ一段と空気が澄んでいるように感じる。壁一面を覆う本棚。そこに並べられた無数の本たち。シーツがピシッと整えられたベッド。手入れが行き届いた机。そのすべてが一つに溶け込んで、心地いい空間を生み出している。
「お父さん、何してたの?」
「ああ。ちょっと、仕事のメールをな」
「えっ、休み中なのに?」
「まぁ、周りはお構いなしだから」
お父さんが苦笑いを浮かべる。
「それより、どうした?用事があったんだろう?」
「……うん。そう、なんだけど」
もじもじしてしまってなかなか切り出せない。
「えっとね、その……」
お父さんは静かに私の言葉を待ってくれている。
「あのね、明日、美幸と遊びに行くんだ。大学の友達の。……でね、お父さんがよかったら、京都のお土産分けてあげたいんだけど……いい、かな?」
どんどん声は小さくなっていく。美味しかったから、という言葉は、最後まで届いたのかすら分からない。
「ああ、勿論いいよ」
お父さんの柔らかい声に、ゆっくりと緊張がほどけていく。
「母さんは食べ過ぎだからな。今のうちに奈月の分も多めにとっときなさい」
「うん、ありがとう。……」
次の言葉に詰まってしまう。
「……でも、お父さん、すごくいっぱい買ってくれたね」
結局、言いかけた言葉は飲み込んでしまう。
「いやあ、だって、母さんがあんなハガキを寄越すから。足りないとまた文句言われるだろう」
そうだね、と私は小さく笑う。
「そうそう、お父さんの方がお母さんにゾッコンだったって話、ほんと?」
「なんだって!?母さんがそんなこと言ったのか?」
「うん」
はあーっ、と大きな溜め息が静かな部屋に響き渡る。
「奈月。母さんと父さん、どっちを信じるんだ?」
「えー、そんなの選べないよ」
本当は、それは事実だと思い始めているけれど、胸にそっと仕舞っておく。
「……まぁいい」
お父さんが軽く咳払いをする。
「今度母さんに言っといてくれ。この部屋を掃除するのは構わないが、最低限にしてくれって。帰ってきた時、片付けし直すのが大変なんだ。父さんが言っても聞きやしない」
「うん、分かった」
じゃあ、ありがとね。そう言って、ゆっくりと扉を閉める。
ごめんなさい、と心の中で呟く。
お父さん、もう一人、渡したい人がいるんだ。
言い出せなかったその言葉が、何度も心の中で響いていた。




