待ち遠しい季節 その3
今年のゴールデンウィークは平日の2日間を休めば7連休。お父さんは有給休暇を充てているし、大学も休みだ。家族全員でこんなに長く一緒にいられるのはいつ振りだろう。お母さんはお父さんが帰ってきた日からいつも以上に生き生きとしている。ご飯の献立が、二人だけの時より豪華だ。
「おはよう、お父さん」
「おはよう、奈月」
朝起きてリビングに行くと、お父さんが新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる。コーヒーから立ち上る湯気でお父さんのメガネは少しくもっているけれど、そんなことは気にも留めない様子で、彼の眼差しは新聞記事をまっすぐに捉えている。
シャッシャ、シャッシャ。ジューッ。台所からはお母さんがご飯を作っている音が聞こえる。
いいなあ。毎日こうだったらもっといいのに。窓から差し込む陽射しに目を細めながら席につく。
「はい、お待たせー」
お母さんが料理を運んでくる。
「わぁ!ホットケーキ!」
まんまるなホットケーキからは甘い香りが漂っていて、中央にのせられたバターがほどよく溶けている。
「お友達が美味しいはちみつお裾分けしてくれたから、使ってみましたー」
いただきます、とみんなで手を合わせる。
「お父さん、切り分けましょうか?」
「いい、自分でできる。それなら、奈月のをしてやりなさい」
「え、私だって自分でできるよ」
「もういいから、さっさと食べちゃってよ。せっかく焼きたてなのに冷めちゃうじゃない」
言い出した本人がそれを言うのか。お父さんと一瞬視線を交わしてから食べ始める。
「美味しい!」
はちみつの優しい甘さが口いっぱいに広がる。
「でしょー。お父さんは?」
「美味い」
「よかった」
お母さんがにこっと笑う。
「今日のお昼ご飯はどうする?水族館の近くにどこかいいお店あるかしら」
今日はゴールデンウィーク2日目。みんなで話し合った結果、休みの後半にお祭りがあるから水族館には早めに行って、残りの日にちは家でのんびりしようという予定になった。美幸とも都合を合わせて会うことになっている。
「……母さん、今、朝飯食べてるところだぞ。昼飯のことなんか考えられん」
「そ。奈月は?何食べたい?」
「んー……あ、カレーがいい!ナンが食べれるお店がたしか近くにあったよ」
「いいわね!あ、でも、朝もホットケーキだし、お米系の方がいいかしら」
「えー、私はお米じゃなくても平気だよ」
「お母さんだって大丈夫よ。日本人だって、パンとかパスタとか、お米から離れたい日もあるわよ」
ジーッと、二人でお父さんを見つめる。
「好きにしなさい」
「やった!」
「ありがとう、お父さん!愛してる」
お母さんが投げキッスをプレゼントする。
「おいっ!娘の前で恥ずかしい!」
いいじゃないの、とお母さんは立ち上がって空いたお皿を下げていく。お父さんは顔を隠すかのように新聞を広げて再び読み始める。窓から入ってきたそよ風が、優しくカーテンを揺らしていた。
水族館までは車で約20分。お母さんも運転ができるけれど、今日はお父さんが運転手を引き受けてくれた。相変わらず丁寧な運転で、安心して運転を任せられた。
水族館に着いてみると、駐車場は既にほぼ満車だった。なんとかスペースを見つけて滑り込む。この水族館は最近できたばかりで、この辺りでは最大級の規模ということもあり、地元の人だけでなく観光客も多く足を運んでいる。
館内には生息地ごとに分けられた水槽がいくつもあり、色とりどりの魚たちが元気よく泳いでいる。
「見て!すっごくおっきーい!」
「パパー!カニさんいるよ!」
あちこちの水槽の前で子どもたちがはしゃいでいる。緩やかな螺旋を描いている上り坂には人があふれていて、少しずつしか前へ進めない。
順路に沿ってゆっくりと歩いていると、クラゲの展示コーナーに差しかかり、足を止める。昔から、水族館の中でクラゲを見るのが一番好きだった。ぷかぷかと浮いている感じが可愛い。
「クラゲ、可愛いね」
「そうだね」
背後からカップルの囁く声が聞こえてくる。
「次行こっか」
「うん」
彼らが手を繋いで坂を登っていく姿に、なぜか釘付けになってしまう。水族館は家族連れも勿論多いけれど、カップルも多い。デートスポットの王道コースだから当然だ。
あんなふうにデートできたら楽しいだろうな。でも。
河野さん、は来ないよね、水族館。
魚みたいにすばしっこく動くものは目で追えないだろうし、小さい魚だったらそもそも見えないかもしれないし。
一緒に楽しめないんだ、水族館。そう思うと、無性に寂しくなってきた。
「奈月、いた。もう、気付いたらいなくなってるからビックリするわよ」
お母さんがこちらへ歩いてくる。
「ごめん、ごめん」
「あ、クラゲ。あんた、昔から好きだもんね。小さい頃もこうやって、クラゲの水槽の前でいつまでも眺めてたわね」
お母さんが懐かしそうに目を細めて、クラゲを見つめる。
「そろそろ行こ。お父さんが上で待ってるから」
「……うん」
お母さんが私の手を引いて坂を登っていく。その手がほんのり温かくて、ほんの少しだけ、寂しさを紛らわすことができた気がした。
坂を抜けた先は吹き抜けのスペースになっていて、風が吹く度に潮の香りがした。
「お父さーん」
お母さんが手を振りながら声をかける。それに気付いて、お父さんがこちらへ歩いてくる。
「ごめんね、お父さん。待たせちゃって」
「いや、いい」
「この子ったら、またクラゲのところにいたのよ」
そうか、とお父さんが小さく呟く。
「もういいのか」
「うん」
こくりと頷いて空を見上げると、もこもこした雲がゆっくりと遠くへ流れていくのが見えた。
吹き抜けのスペースから階段を降りていくと、お土産コーナーに辿り着く。お菓子、ぬいぐるみ、おもちゃ。水族館らしいお土産が数多く並んでいる。
「お父さん、同僚の人たちに何かお土産買っていったら?」
お母さんが近くにあったお菓子を手に取ってみせる。
「いや、いい。こういうのより、うどんとか醤油豆とかの方が喜ばれる」
「そう。奈月は?何かいる?」
「どうかなあ。ちょっと、見てきていい?」
「いいわよ」
お父さんも頷いてくれたから、一人で見て回る。イルカの大きいぬいぐるみが目に止まるけれど、買うわけではないから通り過ぎる。
一通り見ていると、小さいマグネットを置いているコーナーへ行きつく。ボードにいろんな魚のマグネットが貼ってある。
あ、クラゲ。
思わず手に取る。マグネットは立体的でぷっくりとしたフォルムが可愛らしい。
これだったら、彼もクラゲって分かるかな。
そんなことを考えてしまっている自分に心底驚く。自分が好きなものに興味を持ってほしい。私のことを知ってほしい。そんな欲が、心の奥に芽生えているなんて。
迷いながらも、足は会計レジへと向いていた。




