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87話 影の落とさぬ実像

 茜色が窓から入り込み、静かな船室に染め上げる。

 船幽霊が活動範囲を広げ、活発に動き出すのは夜間。

 船幽霊の領域、その際で船は海上に留まり、波に揺られ、空が群青に染まるのを待つ。

 夜はもう、目前まで迫っている。


 アステルは静かに立ち上がる。それに呼応するかのように、机に突っ伏していたフェリス、それを見ていたシリウス。そして、アステルの足元で丸まっていたシルヴィも立ち上がった。

 船室を出て、薄暗い通路を歩き、甲板へと出る。

 

 そこには既に、腕を組み、沈み行く太陽を見つめているスズカの姿があった。

 アステル達はスズカへと歩み寄り、その隣に立つ。水平線、海の中へと沈んでいく太陽の姿が、徐々に見えなくなっていく。

 

「早いですね」

「うむ、船員たちに感謝を伝えていた。海坊主の元で働いているだけあって、皆、いい奴だった」

 スズカは視線を海に向けたまま答えた。

 その視線の先は太陽。その中には幾つかの船が漂っている。逆光の中、影に包まれているその姿、しかし、海には何も映っていない。


「……船幽霊って妖怪だよね? 幽霊じゃないんでしょ?」

 フェリスがそれを見て、引き攣りながら言った。

「妖怪ではあるが、海難事故で亡くなった怨霊とも言われているな」

 スズカが淡々と告げると、フェリスは「え、ええ……」と小さく身を引いた。


「確かに怨霊という説もありますが、その実は幻影です。影に影は出来ません、故に怨霊と間違えられてしまったのでしょうな」

 船底の木を微かに震わせるような、深く低い声が響いた。

 振り向くと、そこには海坊主が立っていた。


「幻影?」

 アステルが首を傾げると、海坊主が静かに頷いた。

「ええ。本体は海底にある核。捕食をする為に、幻影を使い海底に引き摺り込む。それが、船幽霊です」

「じゃあ。幽霊じゃないって事?」


 海坊主は優しく微笑み頷いた。それを見たフェリスは、ほっと胸を撫でおろした。

 ふと見ると、海坊主の大きな身体の向こうから、カインとラセツが近付いてくるのが見えた。

 しかし、カインの足取りは重く、顔色も悪い。

「うう……気持ち悪い……」


 ふら付きながらも船の縁へと手を掛け、身を乗り出すように海へ顔を向ける。

 「おええ……」

 嗚咽を吐き、胃の中身を吐き出した。

 アステル達は目を逸らし、スズカはぬはは。と笑う。


「梅干し、食べますかな?」

 海坊主はどこからともなく小さな壺を取り出し、カインへと差し出した。

 カインは小さく頷き、うう……と声を漏らす口へ放り込んだ。

 

「酸っぱい……けど、元から酸っぱいからわかんねぇ……」

 涙目でそう呟いた、次の瞬間だった。


 ガクンと船が大きく揺れ動いた。

 いつの間にか、幾つもの船に囲まれていた。

 夜が暮れ、船幽霊の領域が広がった。


「碇を上げ、帆を上げろ!」

 海坊主の呼号が響き渡る。

 船乗り達の声が呼応し、金属音が鳴る。


 再び船が揺れ、ゆっくりと動き出した。

「来るよ」

 シリウスが静かに海を見つめ、呟くように言った。

 アステルがその視線の先を追うと、夜の闇を切り裂くようにして、一隻の不気味な船影が真っ直ぐこちらへ向かって突っ込んでくるのが見えた。


 風に乗り切れていない船。躱す事の出来ないその突進は、アステル達の船に衝突する。

 そう誰もが思った。

 しかし、透き通るように通り過ぎ、人型の何かを船上に残し、その船は消え去った。

 べちゃっ。濡れた身体でそれは、歩く。


「ゆ、幽霊じゃないんじゃないんじゃないんだよね!?」

「海坊主、船員を中へ避難させろ」

「既に避難はさせています。私どもは操舵室へ」

 フェリスを他所に、スズカと海坊主は互いに頷いた。


「ツヴァイ!」

 アステルがその名を呼ぶと、わん! と鳴き、ツヴァイが駆け寄ってくる。

「狼達を引き連れて海坊主さん達の護衛。お願いできる?」

 わん! と再び鳴き、わおーん! と遠吠えが夜の海に響き渡る。


 ドライが三匹の狼を引き連れ、船員達が避難した船室へと向かい、フィアがツヴァイの元へと駆け寄った。

「ははは、これは心強い護衛ですな。では、失敬」

 海坊主は頭を下げ、操舵室へと向かい駆け出した。その後を、ツヴァイ達が追っていく。


 アステルは黎明色の魔力の剣を作り、その手に握った。

 シリウス、フェリスが身構え、スズカとラセツは刀を抜いた。

「カイン、やれるの?」

「や、おええ……、やれます。う、うっぷ……」

 

 嗚咽を吐きながらも、カインは剣を抜いた。

「船は核がある中央へ向かう! それまで耐えるんだ!」

 ラセツの刀身が、船幽霊を斬った。

 真っ二つに裂かれた怪異の身体は、瞬時に人型を維持出来なくなり、バシャンと甲板の上に激しく水を叩き付け、水溜まりを造り出した。


 フェリスが風の魔術で怪異を次々と斬り裂き、アステル達も手に持つ剣で斬る。

 揺れる船体の上に水が溜まっていく。


 船幽霊の船が突進してくる。通り過ぎ、甲板の上に人型を残し消えていく。

 「まずいな、排水が追い付いてないぞ」

 バシャバシャと水が溜まる甲板の上を走り、怪異を斬り裂きながらスズカが言った。

 

 船が旋回し、甲板の上を水が走る。そして、小さな波としてアステル達の足元を襲う。

「フェリス、水」

「はぁい」

 アステルの呼び掛けに、フェリスは応える。


 アステルの身体に脱力感が生まれる。同時に、フェリスの身体を青い魔力が纏う。

 その魔力はフェリスの中へと入っていき、黒髪の毛先を微かに青く染め上げた。

 フェリスが詠唱を始める。甲板に溜まっていた水が、徐々にフェリスの元へと集まっていく。

 そして、幾つもの水泡となり宙を漂う。


 水泡は弾丸となり、怪異を撃ち抜く。そして、散った水が再び水泡となり浮かび上がる。

 本来であれば、フェリスが水の魔力を扱う度に、アステルの魔力を媒介として消費していく。しかし、その消費は最小限に抑えられている。

 水を生成するという工程がなくなり、操作をする為の魔力消費だけで済んでいる。


 これならば、魔力切れを起こす心配はなさそうだ。

 甲板の上が正常になり、アステル達の足取りも、船の旋回も軽くなった。

 船が領域の中心へと進んでいくにつれ、船幽霊の船も増えていく。

 次から次へと甲板の上には怪異が姿を見せる。


 そうして、船は船幽霊の群れの中心、領域内にある核の元へと辿り着いた。

「アステル」

 シリウスがアステルの元へと駆け寄り、アステルは背中を任せ、海の中を覗き見る。

 夜の海、深淵の中には何も見えない。


 アステルは魔力の弾を海へと放り投げた。

 海中を照らし、緩やかに沈んでいく。

 一か所、光が乱反射を起こす。

 その場所を確認し、詠唱を始めた。


 アステルは手を挙げた。

 黎明色の魔法陣が海を照らすよう、空に生成され、黎明色の槍先を見せた。

 ゆっくりと、その手を降ろす。

 槍が放たれ、核を貫き、乱反射を引き起こした。


 大きな波がアステル達が乗る船を、大きく揺らした。

 同時に甲板にいた無数の怪異が弾け、水泡へと変化した。

 フェリスは全ての水泡を海へと返し、うへぇ……と肩を落とし、毛先の青が消え去る。

 海は静まり返り、月が反射する。


「う、うう……おえええ」

 カインが嗚咽を吐きながら、船の縁へと走り、身を乗り出した。

 シリウスが優しく、その背を摩る。


 静かな海に、波音とカインの嗚咽が響き渡っていた。

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