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86話 夜の帳が下りるまで

 波に揺られ、海上をゆっくりと進んでいく。

 ツヴァイ達狼の背中と違い、揺れは不規則に感じる。

 甲板から港町を見る。少しずつ、遠ざかっていくのを見ていると、海坊主の声が轟く。


「帆を上げろ!」

 男達の低い声が甲板を揺らし、支柱に付けられた縄を引っ張る。

 巨大な帆布が登っていく。風を受け、バサバサと靡く。


 ガクンと揺れ、船は風に乗り、町との距離をどんどん引き離していく。

 船は軋み、海を斬るように白い航跡を引いて進んでいく。

「思っていた以上に揺れるねぇ」

 フェリスは船の縁に掴まり、海を見つめていた。


「ぬはは。落ちないよう、気をつけるんだな」

 スズカは縁に寄りかかり、赤紫色の髪を揺らし、酒を呑んだ。

「皆様、気分が悪くなった際はすぐに仰ってください。気持ち程度ですが、梅干しがありますので」

 船乗り達に対する声音とは打って変り、優しい声音で海坊主が言った。


「なにこれ?」

 海坊主が持つ、小さな壺の中身をフェリスが覗き見た。

「梅干しです。船酔いに効くとされているのです。お一つ、どうです?」

 スンスンと、フェリスが壺の中身を嗅いだ。


 獣耳の先まで、身を震わせる。

「な、なにこれ……」

 フェリスは一歩引き下がった。


「ははは、外の者には少しばかり、刺激が強かったですかな?」

 海坊主は光輝く頭を揺らし、高笑いをした。

「なんだ? 食べないのか?」

 

 スズカはひょいと壺から真っ赤な一粒をつまみ上げた。

 その一粒を躊躇なく、口の中へと放り込む。

 そして、酒瓶を傾け、酒を流し込む。

「ぷはぁー……うむ、美味だな」

 

「素晴らしい呑みっぷりですな! 流石でございます!」

「ぬはは! そうだろう! そうだろう! ぬはははは」

 煽られるようにスズカは酒瓶を傾け、喉をゴクゴクと鳴らしていく。

 その様子を見て、海坊主はおお……! と感嘆の声を漏らし、壺を抱き抱え、小さく拍手をした。


 そんな彼らのやり取りを見て、アステルは苦笑いを浮かべた。

 振り返ると、港町はすでに小さく霞んでいた。

 船の隅ではツヴァイ達狼が集まり、気持ちよさそうに風を受け、伏せている。


「船幽霊が現れる沖までは、まだ数時間は掛かります。船室までご案内しますので、ご自由にお使いください」

 海坊主に案内され、アステル達は幾つもの扉がある通路へと辿り着く。

「ここは予備の乗組員室です。普段は使われていませんが、先程船員に掃除をさせておいたので問題はないかと」

「ほお、気が利くな。恩に着るぞ」


「あり難きお言葉です。しかし、その言葉を是非、船員達本人に言ってやってください」

 スズカの言葉に頭を軽く下げ、海坊主は言った。

「うむ、後ほど伝えておこう」

「それでは、私目はこれにて。何か御用があればお近くの者にお申し付けください」


 海坊主はそう言って再び一礼をした。背中を向け、巨体を揺らし通ってきた道を戻っていく。

 その大きな背中を見届け、アステル達は部屋分けを行った。

 アステル、シリウス、フェリスの三人。カインとラセツの二人。そして、スズカの一人に分かれ船室に入っていく。


 船室の中は質素だった。

 四つの寝台と机と椅子。飾り気は一切ない。しかし、船員達が事前に掃除を行ってくれたお陰で、埃ひとつなく、綺麗なものだった。

 使わない寝台へ荷物を下ろし、アステル達は椅子に腰を掛ける。


 フェリスは机の上に突っ伏し、その様子をシリウスが静かに見つめる。

 狼の子供、シルヴィがアステルの足元で丸くなる。

 いつもの景色。

 場所は違い、カグラに来てからは見ることが少なくなっていたが、いつも見ていた景色。


 言葉はない。静寂の空間、波を斬る音だけが響く。

 静かに、時間が流れていく。

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