73話 かつて人間だったモノへ
残火の足跡を残し、シリウスが駆ける。
彼女に迫る黒い触手が、少女に近付くに連れ燃えていく。その身体に辿り着く前に、炭のように黒くなった触手を刀が断ち切る。
床へと転がり落ちる黒い泥。燃え滓が息を吹き返すように、炎に包まれる。
フェリスは瞳を閉じ、詠唱していた。
そこに、黒い触手が迫った。少女に向かったその手は、次第にその動きを緩やかなものにする。
水泡に包まれ、ゆっくりと、フェリスに触手を伸ばした。
片目を開け、細い指で泡を突く。
ポチャン。静かに泡は弾け、触手は泡と共に滴り落ちる。
アステルもまた、駆けていた。
迫り来る触手を躱し、黎明の剣で斬り落とす。
少しでも魔力を温存する為に、魔術は使えない。近接戦闘をするしかない。
使っているのは身体能力強化と、その手に握られた魔力の剣のみ。
必要最低限の魔力消費に抑える。
フェリスが魔術を放った。
黒い異形の真下に、青色の魔法陣が生まれる。
湧き出るように水が生まれ、激流の渦が触手を呑み込む。
一瞬、力が抜け、脱力感が再びアステルを襲う。
渦に呑み込まれた触手達に、シリウスが刀を叩きつける。火柱が立ち上がり、渦を蒸発させる。
力が抜ける。手に握られた、魔力の剣がバチっと、ノイズを走らせる。
想像していたよりも、魔力消費が大きい。
それ程までに、二人の力が強大だった。
蒸発した水が蒸気となり、視界を白く染める。
熱いが熱くない。フェリスがアステル達の身に水をベールとして覆わせている。
黒い異形の音にならない咆哮が、蒸気の中で響き渡る。
フェリスの魔術が発動する。
白かった景色が突如として、元の鮮明さを取り戻す。
幾つもの水泡が、蒸気を包み込み、宙を漂う。
黒い雷を纏いながら、触手が暴れ狂い、一つの水泡を突いた。
電流が、水の中を走り、蒸気を刺激する。
発火。蒸気が爆発し、触手を吹き飛ばす。
水が床を濡らした。
バチバチ。握られた剣のノイズが大きくなる。しっかりと握っていないと、今にも消え失せてしまいそうだ。
黒い触手が水泡を掻い潜り、アステルへと伸びる。
避けようと後ろへ飛ぶ。しかし、思った以上に飛距離が出ない。
身体能力強化が切れている。
触手がアステルを貫く。
痛みはない。血も出ていない。だが、その触手は確かにアステルを貫いている。
ハクオウの認識阻害により、それは無効化されていた。
そして、その触手を駆け付けたスズカが斬り落とした。
「大丈夫か?」
「すみません。助かりました」
うむ。とスズカが頷いた。
魔力は残り僅か。迫りくる触手を何とか交わし、黎明の剣を一太刀入れる。切れ味はいい、硬い肉塊を切り裂いてくれる。しかし、その刃は途中で止まる。筋力が足りない。
代わりに傍にいたスズカがその触手を切り落とした。
「非力なんだな」
「す、すみません……」
「いいや。女子はその方が可愛らしくていいと思うぞ」
「か、可愛らしい……」
小柄な身体でぬはは。と豪快に笑う鬼の姫を見つめる。
「アステル!」
シリウスの呼び声に、アステルは視線を黒い異形へと戻す。
準備は整った。
アステルはおもむろに右手を前へと伸ばす。
身体能力が切れる程までに、魔力が減るのは想定内。黎明色の魔力の剣も、既に維持するのすら厳しい。だが、それも想定内。
だからこそ、ストックをしていた。
パチン。
擦れた指が乾いた音を響かせる。
無数の黎明色をした魔力の槍が現れる。同時に、手に握られていた黎明の剣が割れるように消える。
体内に辛うじて残されていた魔力が、ストックしていた魔術発動により消費された。
無数の槍が、黒い異形の図体、触手を貫き、杭のようにその身体を固定させた。
シリウスが刀を抜き去る。火炎を纏った抜刀が、つむじ風と共に炎の渦を作り、周囲を漂っていた蒸気を内包した水泡を集める。
火炎の旋風、そして。泡沫が全て一か所に集まる。
水泡に、炎が掠め、割れる。
臨界点。幾つもの泡が割れ、爆発を引き起こす。
異形の黒い肉片、そして。元の人間だったモノと思わしき肉片が飛び散り、その身体を劫火が燃やし尽くす。
天井には穴が開き、赤かった夜の月が、いつの間にか、青空になっていた。
声にならない音が、天へと響く。
アステルは手の平を見つめる。試しに、魔力を溜めてみるが、案の定溜まらない。
完全に魔力切れ。シリウスとフェリスの毛先も、元通りになっている。
紙切れが一枚、ヒラヒラと。目の前に落ちてくる。
ボロボロの紙、端に僅かに燃えている。フッと、息を吹き掛け、裏を見る。
写真。
映っていたのは自分の事をチート、魔王と自称していた青年。そして、隣には少女。
「なにそれ?」
黒い猫耳が視界を遮る。フェリスが写真を覗き込んだ。
写真に写る青年を見て、げっ。と声を漏らした。
シリウスも写真を覗き込んだ。
「なんか、嫌そうな顔してるね? 隣の人は笑顔なのに」
二人の獣耳が避けられ、写真が再び目に映る。
確かに、嫌そうな顔。対して、隣の少女は青年の腕を組み、楽しそうにピースをしている。
「顔は嫌そうにしてるけど、嫌じゃなかったのかもね」
「どうして?」
「嫌なものを百年も持たないでしょ?」
青年はこの世界に召喚されて、百年以上経っている。
これをずっと持っていた。
だけど、不思議だ。
シリウス達の事を奴隷と呼び、鬼の王を殺し、自身が王になると言っていた。
酷く傲慢で、身勝手。そんな人間が、過去の思い出を大切にするのだろうか。
自身を理の魔力の塊と言っていた。
シリウスとフェリスがその身体を傷付けた時、漏れ出したのは血ではなく、黒い泥だ。
その泥は、青年の死後。その死体を飲み込み、異形と化した。
……黒い泥はなんだ?
「……」
「どうしたの?」
「なんでもない」
アステルは写真を懐へとしまった。
「え? 持っていくの?」
「うん。この人達の事を、忘れちゃいけない気がする」
崩れ落ちた残骸に背を向け、アステルは歩き出した。
その背をシリウス達が追う。
そして、立ち去るアステル達を見つめる。黒いフードの人物が二人。
「あんなに威勢良かったのに負けかよ。折角、手貸してやったのに」
「まあ。鬼は流石に悪いっしょ」
「それでも、あいつが鬼を殺すって息巻いて、俺を殺したんだぜ? ロゴスに精神汚染されてるとはいえ、ざまあねえよ」
青年を馬鹿にするかのように、笑いを交えフードの男が言った。
「それな。まあ、ロゴスにとって混沌は厄介だからその意思が反映したんだろうね」
軽いノリでフードの女が言う。
「それにしてもだ。サタリエルの奴、厄介な奴逃がしたな。理の混ざった神秘。おまけに、混沌とお友達になっちまった。ロゴスがどう出るかね」
「さあね。どちらにせよ。あーしらは理の意思に沿うだけっしょ」
「そうだな。リリス」
「そーだよ? サマエル。世界はロゴスに喰い尽くされる。決定された未来だよ」
「あの馬鹿のせいで、ここはもう捨てるしかなくなった。他のおもちゃを探さなくちゃな」
サマエルの足元に黒い魔力が集まる。
「いいの? 混沌は最重要項目でしょ?」
「いいんだよ。何百年分の仕事がパーになったんだ。それに、今の最重要項目はあの女。アステル・セーフェルだろ?」
「セーフェルって確か、真理に近づいた夫婦もそうだよね?」
「そ。サタリエルが殺した夫婦の子供。つまり、あいつは二回逃がしてる。わざとかと疑っちゃうね」
「うわ。サタリエルが聞いたら怒るよ?」
「いいんだよ。あの陰険眼鏡。怒ってきたら眼鏡勝ち割ってやるよ」
「あはは。ひど」
サマエルとリリスは黒い影の中へと消えていく。
静寂。壊れた天井から、暖かい日差しが差し込む。
かつて人間だった。日本と呼ばれる、異世界から召喚された青年がいた場所を優しく照らす。
突然召喚され、百年。異世界で過ごした彼の物語が、静かに幕を下ろした。




