第28夜 手語-後編-
先ほどの手の動きの意味を考えながら、自分はまた歩き始めた。
気のせいかあたりが急に暗くなり始めた気がする。
先ほどまでお昼くらいの感覚でいたが、周囲の雰囲気は夕暮れの直前と言った所か。
路地裏からさらに細い路地に方向を変える。
人がすれ違えるかどうかと言った幅の道の両側には古めかしい看板が立っている。
人や異国の名前がひしめきあうが、そのどれもが営業時間前で少々不思議で不気味な趣がある。
三軒目まで歩いてきたところで突然ガラっと引き戸が空いた。
母親より幾分若そうに見える女性が、スナックのぞみとかかれた看板を手に出てくる。
無表情のまま入口に看板を置くが、引き戸が空いた瞬間から看板を置くまでの間中、寒色めいた顔色をした顔はずっとこちらを向いている。
先ほどの女の子と同じ目をしているような気がした。
顔は見えているがその表情が表しているものが何か、読み取る事は出来ない。
戸惑いつつも視線を逸らせないでいると、その女性は突然手を突き出し、手を動かし始めた。
先ほどと同様にぐっと身構えたが、別段なにか危険が身に迫っている訳ではない。
目の前には女の子がやって見せた動きと全く同じ動きが繰り返されている。
そして、やはり同じように4,5回繰り返した後は突然踵を返し店内に戻っていく。
あっけにとられていると、チカチカと足元に置かれた看板に光が灯る。
何が何だかよく解らない。
そして、このよく解らないという感覚は大変な恐怖だ。
いつも見る夢は、理不尽な事も多いが状況を把握する事はさして難しくはなく、どちらかと言えば単純な構図である事が多い。
思考が脳内で迷走を始める前に歩みを進めようと、視線を看板から路地に戻す。
タイムスリップでもしているかの如く時間の経過が異様に早い。
目に飛び込む景色は、夕暮れ時も良いところだ。
不思議な路地を抜け、左右を見渡す。
大通り風ではあるが、大通りと呼ぶには少々規模が足りない気もする。
目的地がある訳ではないが、何となく賑やかそうな方へ足を向け歩き始める。
程なくして人影が増えている事に気付いた。
時間帯的には仕事帰りの会社員であろうか。スーツを着た男女がそこかしこを歩いている。
目の前からこちらへ歩いてくる人もみな一様にスーツ姿だ。
少しずつ距離が縮まり、やがてその表情までもが判別できるようになると、ちょうど目の前にいたサラリーマン風の男性が三人こちらに向けて手を突き出す。
そして、やはり先ほどまでと同様の動きを繰り返すが、先ほどと違うのは歩みを止めないまままっすぐこちらに顔と体の正面を向けている事だ。
手の動きと無表情さが不気味なだけで、特に実害がある訳ではないが、こうも繰り返されると恐怖心が刺激され鼓動が早くなるのが解る。
撃たれるでも刺されるでもない。ただ、不気味な情景が目の前に広がっているだけだが、普段とは異なる命の危険を感じている。
三人をやり過ごしたあとも、状況は変わらない。
賑やかそうな方へ足を向けた自分を悔いる訳ではないが、人はどんどん増えていく。
そして、すれ違う人がみな、こちらへ顔と体を向け、同じ動きをする。
三人五人ならまだ可愛げがあるのかもしれない。
しかし、その数はどんどん増え、今やもう数えられない。
視界全てが無表情と謎の手の動きに埋め尽くされたこの状況は、質の悪いホラー映画を見せつけられている気分だ。
詰まってしまった排水溝のように、人の数は五月雨式にどんどんと増えていく。
不気味な光景である事には違いないが、慣れてしまったのか一度刺激された恐怖心もパニックになるほどではない。
ただただ、視界は少しずつ確実に人の顔と手の動きに埋め尽くされていく。
物理法則など全く無視された光景に嫌気がさして来た頃、突然目の前に最初に出会った女の子が現れる。
左手に兎の人形をしっかりと抱えているが、その右手にはいかにもと言う形をしたものが握られている。
どうやら、手に持っているのは小型の出刃包丁のようだ。
自宅のキッチンに大きさは異なれど、同じような形をしたものが置いてある。
体がいう事をきかない。
まるでその女の子に話しかけるかのように、体が勝手に膝を折る。
先ほどと同じく表情がよく解らない顔が自分の顎位の高さに見えた。
影が揺れた。
同時に焼けるような痛みと共に胸の内側に何かが侵入してくる。
自分の体に起きた事に察しはつくが、なぜか視線を落とすことが出来ない。
女の子の頭長越しに未だ増え続けている人の顔と手の動き。
急激に意識が遠のきかけた瞬間、女の子が体を離しその表情が目に映る。
笑っている。
それも、満面の笑みだ。
左手に抱えているぬいぐるみと先ほどまで包丁を握っていた手は血に染まっている。
五感で得る情報の落差が激しく、感情の処理が追い付かない。
屈託のない笑顔につられ、こちらも胸の激しい痛みを忘れてつい微笑んでしまう。
少しずつ、急激に視界が暗く狭まる。
意識を失い体が倒れる。
幾度となく経験したこの瞬間。
倒れる瞬間の記憶はあったりなかったりするが、いずれにせよこの衝撃には備えるようにしている。
もっとも、備えたところでどうにかなるものではなく覚悟と言った方がニュアンスは近いのかもしれないが、最後の最後に硬い地面に倒れるのは寂しさや切なさ、そして無力感に溢れている気がしてならない。
しかし今回は違う。
視界が利かない状態で体が倒れた先は少なくとも冷たく硬い地面ではない。
布団のようなぬいぐるみのような、不思議と安心できる柔らかい何かに全身が包まれる。
思いがけないラストとこれで終わるという安心感を抱き、徐々に薄れゆく意識の中、つんざくような声が聴覚を貫いた。
『アイシテル』
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遮光カーテンから漏れる日の光とスズメ達が気忙しく鳴く声が、少しずつ脳内に浸透していきそれと引き換えにゆっくりと目が覚めていく。
目を覚まして一番最初に訪れる感情は、激しい絶望感。
それは今日も変わらない。
目覚まし時計に表示されてるデジタルの日付が昨日よりも一日進んでいる事だけが唯一の救いともいえる。
よし、シャワーでも浴びよう。
今日もまたいつもと変わらない日常を送れるように。
シャワーを浴びるため服を脱いでいると物凄い量の寝汗をかいている事に気が付いた。
頭から熱めの湯を浴びながら、散々見せつけられた手の動きを繰り返してみる。
どこかで聞いた事のある言葉が、喉の奥まで出かかる。
しかし、結局それが何を意味するのか答えが解らないまま、少しずつ脳みそが日常モードに切り替わっていく。
さて、今日は一体どんな一日になるのだろうか。
例によって後半長めですんません。




