第8話
朝、久しぶりにお母さんがいた。
もちろん夜は一緒に食事をとっていたし会話もしていたけれど、この時間帯に顔を見られるのはいい気分だ。
「ギター続けられてるの?」
「えっ、あ……うん……ごめん、うるさいよね……」
お母さんは、私がギターを買ってきたのを見て、腰が抜けるほど驚いていた。それが一八万円もしたというのだから、開いた口が塞がらない、そんな風だった。でも、怒られなかった。そのときお母さんが何を感じていたかは、私には読み取れなかった。
「いいの。アヤがあんなに集中して何かに取り組むなんて、お母さん嬉しいんだから」
「でも……下手くそでしょ?」
「ふふっ、そうだねぇ。ステージに立つのは、まだちょっと早いかな?」
「うっ……」
スバルちゃんに何か吹き込まれたに違いない。
「お小遣いは足りてる?」
「う、うん……大丈夫……」
「困ったら言いなさいね。あと指。無理しちゃ駄目だからね」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ベッドに座ってギターを弾いて、気づいたら朝になる。
そんな新しいルーティンが日常に加わった。寝不足でひどい中、痛みとともに鳴る音は、真新しい色をしている。
指の奥で、乾きかけの絵の具を無理やり混ぜているみたい。自分だけの世界が灯った――そんな不思議な感覚があった。
これがずっと続けられるものなのかは、いまいち判断できない。楽しくて楽しくてやめられないというほどでもない。だから、それが奇妙だった。
学校でもぼーっとしていることが増えて、クラスメイトに心配される始末だ。
「アヤちゃん、今日はもう帰り?」
「はい。まっすぐ帰ります」
委員会の仕事終わり――イブキ先輩は、今日も柔らかな表情で私の前に立っていた。
「イブキ先輩も、お帰りですか?」
「ううん、アルバイトなの。だから帰るのはまだあとかな?」
「ああ……」
知り合った頃、確か札幌駅近くのカフェで働いていると言っていた。迷惑になるのも嫌なので、行ったことはない。
「駅まで一緒に行かない?」
「はい、お願いします」
お誘いを受けることにして、急いで教室に戻る。
鞄を手にとって、玄関口へ足早に向かった。
隣に立つと、イブキ先輩は少し目線が高いのがよくわかる。うっすらと乗った化粧のせいか、それとも私の寝不足のせいか、より遠い存在に感じられた。並んで歩いているのに、歩幅が合っていないみたいだ。
「どうしたの?」
「あっ……いえ……」
目があってしまって、思わず顔を背ける。
私の動きにつられ白い吐息が流れていくのが見えた。
「ね、アヤちゃん」
「はい」
「指、どうしたのかな」
一瞬、何のことかわからず固まってしまった。
「えっ……?」
イブキ先輩の視線が下に落ちていた。
恥ずかしくなって、私はポケットに手を押し込む。
「ギターを……はじめたんです」
「へぇ、ギター。なんだかすごく痛そうだね」
「あはは……痛いのは平気なんです。でもまだ弾けるって状態でもなくて」
「そうなんだ」
笑みを崩すことなく、いつもの包み込むような声色で言った。
「自分が不器用なんだって、痛感したというか……こんなに上手くいかないんだなって」
「ふふっ、最初は誰でもそうなんじゃないかな? はじめから全部できちゃっても、面白くないでしょ?」
そうなのかな。
すぐに信じきれないあたりが、たぶん今の私だ。
「でも、どうして右手までそんな――」
「つ、強い音が見たくて、叩くように弾いてたらこうなっちゃいました。うちはマンションなので、アンプっていうのが使えなくって」
「優しくストロークしてあげることも、大切だよ」
「イブキ先輩……詳しいんですね」
「こんなの詳しいうちに入らないよー。だけどね、私、歳の離れた兄がいて、その兄が楽器をやってたの」
「お兄さんが……そうなんですか」
「就職を機に全部やめちゃったんだけどね。ふふ、俺はプロになるんだーって高いものをローン組んでまで買ってたのに、変な話だよね」
プライベートを聞くのは、もしかしたらはじめてかもしれない。
こんな私に優しくしてくれるけど、どうして気にかけてくれるのか尋ねたことはなかった。ううん、私からしてみれば、視界が濁らない。
それだけで、充分だった。
「その……イブキ先輩は、音楽は……?」
「小さい頃に二年だけバイオリンを習ってたよ。先生がスパルタで、嫌になってやめちゃったの。それくらいかな?」
委員会での先輩は、何でもそつなくこなし、誰にも分け隔てない。そんな人でも、何かが嫌になるんだ。
親近感を覚え、自然と頬がゆるむ。
「アヤちゃんは、あまり音楽を聴かないって言ってたよね?」
「はい……あまりというか、本当にまったく。なので今も何がなんだか」
イブキ先輩は相槌を打つ前に、ほんのちょっとだけ間を置いた。
「それなのにギターなんだ?」
「お、おかしいですよね……」
「ううん、素敵なことだよ。続けていれば、アヤちゃんの心をつかむ曲だってあるかも?」
「そうでしょうか……」
正直、そういうことは未だに理解できていない。がむしゃらに鳴らすばかりで、目指すものがないのが駄目なんだろうか。とはいえ、何も浮かばない。みんなはどういうモチベーションでギターを握るんだろう?
「頑張るのはいいことだけど、ちゃんと睡眠はとること。約束したよね?」
「ご、ごめんなさい……」
「自分の体が一番。でしょ?」
私は一も二もなく頷く。
この甘いトーンで諭されると、拒否できない。
「明日は休みだし、ゆっくり休めそう?」
「そうですね――あっ」
一昨日のことを思い出す。
「土曜はお昼からスタジオに行くんです。スバルちゃ――琴似先輩が、予約してくれて」
「スタジオ?」
「大きな音を出せるらしいです。すすきのの……」
「ピースオブマインドだ?」
「知っているんですか?」
私に答える代わりに、ふふっと声を漏らした。名前を知っている理由を、先輩は語らない。
その気持ちは、どうにも読み取れなかった。
「そこで練習するんだね?」
「れ、練習というか……そ、そうですね……私が弾くためだけに予約してもらったというか……」
「ふぅん……」
立ち止まった先輩が、人差し指をそっと顎に添え、視線を斜め上の宙に向けた。
そんな姿まで様になるなんて、私とは違う世界の人のように思える。
「ね、アヤちゃん」
「なんでしょうか?」
「私も、行っていい?」
問いかけとは裏腹に、その声には確認を求める響きはなかった。




