第9話
豊水すすきの駅を出てすぐ、目の前には、なんだか家みたいな小さなビル。
一階には飲食店が入っていて、そこから漂う揚げ物の匂いが、凍てついたアスファルトの上に重たく残っている。生活感あふれる油の香りが、これから私が足を踏み入れようとしている非日常とのギャップを際立たせていて、胃のあたりが少しだけ縮こまった。
「アヤ、こっち! 二階だから」
前を歩いていたスバルちゃんが、ビルの奥まった場所にある階段を指差した。
見上げれば、黒い壁面に『Piece Of Mind STUDIO』と記された看板が掲げられていた。虹色のネオン管を模したそのフォントは、昼間の明るさに晒されどこか冷めている。午前一〇時から午前〇時という営業時間だけが、ここが生きているのだと静かに主張していた。
私はギターケースを握る指先に、痛いほどの力を込めた。
感覚が麻痺しかけている指を叱咤して、一段、また一段と上る。
狭い通路の左右は、無数のチラシで埋め尽くされていた。バンド、ライブ告知、生徒募集。色とりどりの紙が、いっぱいに重なり合っている。
剥がれかけて褪せた写真、太い文字で殴り書きされたバンド名……ここを通り過ぎていった人たちの叫びが、音のないノイズとなって視界いっぱいに押し寄せてくる。その情報の濁流に目眩を覚えながら、私は必死にスバルちゃんの背中を追った。
最後まで上りきると、突き当たりにガラスの扉が立ちはだかっていた。
無骨なステンレスの縦ハンドルがついた、手動の開き戸だ。その隙間から、温かみのあるオレンジの照明が漏れている。
「……いくぞ」
小さく呼吸を整える。
白い息はもう出ないけれど、心臓だけが早鐘を打って、胸の裏側を叩く。
私は、かじかんで強張った右手を、冷たい金属のハンドルへと伸ばした。
ずしり、とした抵抗。
全身の体重を預け、その分厚い扉を引く。
背後でガラス戸が閉まると、途端にまとわりつく暖気が私を包んだ。
外の鋭利な寒さとは違う。石油ストーブと、誰かが飲んでいるコーヒーが溶け合った、少し湿った暖かさだ。
私はギターケースをぶつけないよう、身を縮めて進んだ。
「予約してた琴似でーす」
私の緊張とは対照的にスバルちゃんがいつもの調子で、右手にあるカウンターへと声をかける。
私はその背後に隠れながら、そっと受付を覗いた。
奥には、黒いケーブルが何十本も吊るされている。雑多に置かれた機材や小物の山。整頓されているようでいて、どこかカオスなその光景に、私はまた圧倒される。
「はい、琴似さんね。A-1スタジオだから三階だよ」
店員さんは手元の台帳を確認すると、顎で奥の方角をしゃくった。
「そこの通路まっすぐ行って。突き当たりの非常扉から外階段に出て、三階へ上がって」
「はいはーい。行こ、アヤ」
「え……あ、はい」
非常扉? 外階段?
せっかく中に入ったのに、また外に出るの?
言われた意味を理解する間もなく、スバルちゃんが歩いていく。
受付横から伸びる、細長い廊下。
人ひとりがすれ違うのがやっとの幅しかないその通路は、クリーム色の内装と腰の高さまである茶系の板張りで覆われていて、なんだか古い校舎みたいだ。
壁の向こうからは、ド、ド、ド、と低い振動が伝わってくる。
心臓の鼓動に似たそのリズムを感じながら、私たちは廊下の最奥――緑に光る非常口の誘導灯を目指して歩を進めた。
鉄の扉を押し開けると、冷たい風が足元を這って触れてきた。
そこは建物の裏側にへばりつく、コンクリート打ちっぱなしの非常階段だ。
あたりにはさっきと同じようなチラシの群れが湿気を帯びて波打ちながら、無言のまま上る私たちを見下ろしていた。
靴音が硬質に響く。
埃とコンクリートの匂いに混じって、どこからか漏れてくる微かな煙草の臭い。
変な色の混じった視界を振り払いながら、踊り場を回る。
三階の重たい防火扉をくぐって、少し先に「Aスタジオは右へ」と書かれたラミネート紙が貼られている。
矢印の指し示す先は、さらに奥だ。
「入り組んでますね」
「秘密基地っぽいかも」
スバルちゃんは楽しげに先を行くけれど、私にはこの閉塞感が少し怖い。
指示通りに進むと、左手に窓のある細長い通路に出た。
窓の外は鉄格子で覆われていて、そこから差す冬の弱々しい光が、床のリノリウムに縞模様の影を落としている。通路の脇には黒いレザーのベンチが置かれていたけれど、座面が擦り切れて中身が顔を覗かせていた。
真っ直ぐ向かって突き当たり、有孔ボードの壁に沿って、道は右へと折れている。
角を曲がると、さらに道幅が狭くなる。圧迫感のある細道。
その一番奥、行き止まりの薄暗い場所に、目指す扉があった。
グレーに塗装された、重厚な鉄だ。
ガラス窓の横に、白い紙に太いゴシック体でA-1スタジオとプリントされている。
ドアノブには『注意! 必ず音を止めてからドアを開けてください!』という、お札のような黄色い警告文。
「ここじゃね」
スバルちゃんが足を止める。
扉に嵌め込まれた細長いガラス窓越しに、中の様子がぼんやりと伺えた。
まだ誰もいない、薄暗い部屋。
ここが、私がギターを鳴らすとこなんだ。
私はギターケースを床に置いて、生唾を飲み込んだ。
ここを開ければ、もう引き返せない。
「開けまーす」
スバルちゃんが躊躇なくレバーを押し下げる。
重たい金属音が廊下に響き、密閉されていた空気が解き放たれる。
一〇畳ほどの、薄汚れた白い箱。
私がまず直面したのは、一面の鏡だ。
そこには、逃げ場のない現実が映し出されている。
コートを脱いで身軽になるスバルちゃんと、巨大なギターケースを抱きしめて立ち尽くす、灰色の私。
鏡のせいで、狭いはずの室内がやけに広く錯覚する。
「鏡でっか。自分の顔見ながら弾くとか、ナルシストっぽくてウケる」
スバルちゃんが鏡に向かって変顔をしている傍で、私は恐る恐る室内の様子を観察する。
近くで見ると、壁の白は決して清潔ではない。
吸音材で覆われたそれは、長年の湿気と煙草の煙を吸い込んだように黄ばんでいる。ところどころ、誰かが機材をぶつけたのか、スポンジが露出していたり、剥がれかけた箇所がガムテープで雑に塞がれていたりした。
まるで、古傷を治さず、ただ絆創膏を貼っただけの痛々しい皮膚みたいで、思わず顔をしかめてしまう。
ここでは、傷は傷のまま、歴史として放置されているんだ。
そんな荒っぽい壁を背にして、鮮烈なブルーのドラムセットが鎮座していた。
一番大きな太鼓の白い面に刻まれたCANOPUSのロゴ。その青は、薄汚れた背景の中で異様なほど澄んでいて、ラメが入った光沢でスポットライトを跳ね返している。
その両脇を固めるのは、あのライブで覚えのある黒い塊。
左手にはMarshallと筆記体で書かれたアンプが二段、三段と積み上げられ、右手にも同じく黒くて背の高いアンプがそびえ立つ。
真空管の熱なのか、機械特有の匂いなのか、少し焦げたような乾いた空気が鼻をくすぐった。
床は無数の靴跡で黒ずみ、這いまわるシールドケーブルは行き場をなくして絡み合っている。天井隅には、埃を被った黄と赤のパトライトが無骨に取り付けられている。
鏡に映る私は、そんな凶暴で、少し不潔な機材たちに包囲されている。
その圧迫感に挟まれて、自分がひどくちっぽけで、異物に思えた。
「アヤ、とりあえず荷物置きなー。てかアンプの使い方わかんの?」
「……わかりません。触ったこともありません」
「あー、アタシもわからんわ」
スバルちゃんがあっけらかんと笑って、パイプ椅子に荷物を放り投げる。
ホワイトボードの隅に残された、消し損ないの黒い文字跡すら、私には解読不能な暗号に見えた。
ここにあるすべてが、私の知らない言語で喋っている。
鏡の私が、不安そうに眉を下げた。
そんな途方に暮れながら、得体の知れない機械のツマミに視線を落とした、そのときだった。
背後の重たい扉が、再び音を立てて開く。
瞬間、淀んだ空気が動いた。
カビと埃、それに焦げ臭い匂いが充満していた部屋に、澄んだ香りが滑り込んでくる。
それは、学校で嗅いだ、あの柔らかくて甘い――
「遅れてごめんね」
響いた声は、吸音材に吸われることなく、私の耳に心地よく届いた。
鏡越しに映ったのは、緩くウェーブのかかった長い髪と、この薄汚れたスタジオにはあまりに不釣り合いな、品のある立ち姿。
イブキ先輩だ。
先輩が足を踏み入れると、そこだけ照明の色温度が変わった気さえする。
剥がれかけた壁紙も、黒ずんだ床も、先輩の背景になった途端に、ただの風合いにさえ見えてくるから不思議だ。
「場所、迷っちゃって。ここであってるかな?」
ふわりと微笑むその表情は、私の強張った神経を内側から優しく撫でていく。




