第10話
「とっても静かね。まだ音は出してなかった?」
イブキ先輩は純粋に疑問を口にしただけだ。
でも、私にはそれが「どうして音を出さないの?」という無邪気な問いかけに聞こえて、喉が詰まる。無言の圧力なんてものじゃない。この沈黙は、どうもすわりが悪い。
「うわ、マジでイブキ先輩じゃん。こんちは、琴似昴でーす」
そんな私の不安を裂くような、スバルちゃんの快活なトーン。
挨拶にしては軽いと思ったけれど、イブキ先輩は意に介した様子もなく答える。
「はじめまして。澄川依風希です。えっとスバルちゃんも、楽器やるのかな?」
「あー、アタシはまったく。アヤのギターのために来たっていうか。でも使い方わかんなくて、ふたりで棒立ちみたいな」
スバルちゃんのあっけらかんとした返答に、イブキ先輩が少しだけ目を丸くした。
「アヤちゃん、そういえばアンプないって言ってたもんね」
「は、はい……スマホで調べたつもりなんですけど……」
「あはは、そうなんだよねぇ。こういうのは実物を前にすると違うもんね」
「イブキ先輩は詳しいんです? アタシも動画で予習したけど、配線エグすぎて無理だったし」
「音が出ればいいんでしょ?」
先輩は、私の顔と背後の黒い壁――Marshallと書かれた巨大な箱を交互に見て、ふっと破顔した。
知った気になっていた自分の情けなさで、どうしようもなく恥ずかしくなる。
「はじめてなら、当然だよ。調べただけ、ふたりとも偉い偉い」
呆れるでもなく、馬鹿にするでもなく、先輩はコートを脱いでパイプ椅子に置くと、私の隣に並んだ。
鏡の中、巨大な黒い塊とちっぽけな私。その間に、頼もしい背中が加わる。それだけで、背後から迫る機械の圧迫感が、少しだけ薄れた。
「一度やれば覚えられるよ。まずは、この子を起こすのね」
「起こす……?」
「うん。電気が通ってないみたいだから。後ろ見てみて」
先輩に促され、私は恐る恐るアンプの裏側へと回り込む。
そこは表側よりもさらに埃っぽく、複雑な機械の裏側が剥き出しになっていた。太い管や、無骨な金属パーツ。そして、とぐろを巻くように放置された極太の電源ケーブル。
床を這う何本もの黒い線が、まるで蛇の巣窟みたいで、どこに足を置いていいのかわからない。
「その一番太いのが、電源ケーブルだよ。壁のコンセントに挿してね」
「はい」
慎重に屈んで、埃にまみれた太いプラグを拾い上げた。
冷たい。
ゴムの感触が、ひどく無機質だ。
壁の低い位置にあるコンセント差込口は、薄暗い影に隠れている。私は膝をつき、埃っぽい床にスカートが触れるのも構わず、ぐっとプラグを押し込んだ。
硬い感触。ただコンセントを繋いだだけ。それだけなのに、なんだか取り返しのつかない爆弾のスイッチを入れたような怖さが指先に残る。
「服汚れちゃうから、無理しないでね」
「これくらい、大丈夫です……」
先輩が立ち上がり、アンプの天面にある取っ手に手をかける。そのままちらりと下に視線を向け、大きな箱の足元――錆びついたストッパーを蹴った。
よく見ると、そこには古びた鉄の車輪がついている。
「上のがアンプ。で、下がキャビネット……えっと、スピーカーね。わかりやすく言うと、この両方があって音が出るって感じかな。スピーカーケーブルは繋いであるから」
イブキ先輩がキャビネットを軽く押して、向きを変えた。
「よし。これで準備完了。シールドある?」
「あっ、持ってます。店員さんがおまけでくれました」
私はケースを地面に置いて、ここでようやく中身を取り出した。
ギターを傍にあったスタンドに立てかけ、その奥にしまっていた黒いケーブルを引っ張り出す。
「Tennessean……アヤ、気合入ったの買ったなー。ベンジー? チバ?」
「ね。ちょっとびっくりしちゃった」
「そうでしょうか……?」
「アタシ、ストラトかテレキャスみたいなの想像してたし」
「ふふふ、このハードケースだからハコモノだとは思ってたけど、でもまさかそんなの買ってるなんて」
どう答えればいいものかと悩んだけれど、結局何も言えなかった。
店員さんにもおすすめはしないと返されたっけ。
「あ、シールドの片方をギターに。もう片方はアンプの――『INPUT』って書いてある穴に挿してね。一応ツマミは全部〇……えっと、左に寄ってるか確認して。ギターのボリュームも切っておいてね」
私は言われたとおり、指先でツマミの位置をなぞる。
立てかけたばかりのギターを抱えあげて、シールドのプラグを差し込み、そしてもう一方を、アンプの右にある穴へ。
カチリ。
繋がった。
僅かなノイズが色を帯びて、私とギターとアンプで一直線に繋がったんだ。
「今回は私がやったけど、今後はちゃんとアンプとキャビネットがケーブルで繋がっているかも意識してね? じゃあ、あとは――」
イブキ先輩が、アンプの左端にある赤いスイッチに手をかけた。
「イブキ先輩、詳しいじゃん」
「兄がちょっと音楽をかじってたの。ひとりで練習するときに、よくついていっててね。それで少しだけ知ってるんだ」
少しというには、充分すぎる。これぐらいスマホを頼りにやれば誰だってできる。そう言われてしまえば、それまでだけれど。
「真空管アンプはここから一分……二分ぐらい待ってから、STANDBYと書かれたスイッチをオンにしてね」
「先輩のお兄さんは、ギターやってたんです?」
「ううん、ベース。それがね、好きなベーシストがいて同じモデルを買ったんだけど、結局やってたバンドがその音が合わないってなっちゃって、エフェクターで試行錯誤。ちょっともったいないよね」
「あはー! あるあるっすね!」
ふたりの会話を聞きながら、私はスマホの時計を凝視している。
この待ち時間のうちに、早く鳴らしてみたいという気持ちが芽生えていた。強く響いたギターからは、何が見えるんだろう。淡い期待が湧いてきている自分に、苦笑する。
「あっ、STANDBYのスイッチをオンにしてみて」
「は、はい……!」
僅かな緊張の中、私は赤いランプの右隣――STANDBYのボタンをオンに切り替えた。
「ギターのボリューム上げて、そこからアンプの……GAINを三ぐらいまで。そのあとマスター音量を持ち上げてみよっか。ちょっとだけね」
「ちょっと……?」
ギターのツマミをぐるっと回した。アンプ側の調整加減はいまいちわからないので、言われたとおりにGAINを三。そうして恐る恐るMASTERを摘んで――
キィィン――――
「うわぁっ――!?」
つんざくような高音が、両耳をバツンと突き刺した。
「あはー、エグ」
「あらら……ハコモノはこうなりやすいからって注意するの忘れちゃってた。ごめんね。ちょっと離れてキャビネットに背を向けてもらえる?」
私はギターを抱えたまま、一歩、二歩とアンプから離れ、鏡のほうを向いた。
すると耳を壊しに来た異物は、次第に小さくなって――消えた。
私はもう怖くなって、キャビネットを向けない。鏡越しにイブキ先輩の視線を追うので精一杯だった。
「もういけんじゃね?」
「ちょっとだけイコライザー調整してあげる」
丸椅子を引っ張ってきて、スバルちゃんとイブキ先輩に背を向けたまま腰掛ける。
「もういいよ、アヤちゃん。鳴らしてみて」
「は、はいぃ……」
ピックを親指と人差し指挟んで、左手はネックに添える。
最初に覚えたコードはどれだっけ? Em? Dだっけ? ――なんでもいいや。
鳴らしてと言われたから、鳴らすだけ。
はじめの一音は、家で聞いてきた音がただ大きくなっただけに感じられた。
次第にお腹いっぱいに震えが届いて、それがただの響きではないことを理解する。
何か話そうかとも思ったけれど、やっぱりやめて、私は次を鳴らした。
きれいでも、汚れてもいない。でもまったく完璧じゃないトーン。
ジャカジャカと、でも灰じゃない色。
とてつもなくノイジーで、まるで叫んでいるみたい。
指のピリピリとジクジクが、私に新しい色を刻んだ。
踏み込んでしまった。そんな気がした。
「それがクリーン。クランチにすると、もう少し荒れるんじゃないかな」
私が止まったタイミングで、イブキ先輩の声が聞こえた。
「やっぱガチ勢だわ」
「ちょっと知ってるだけ」
鏡越しの先輩が、ツマミを触っている。
「ミュートしておいてね」
「え? ああ……はい」
私は慌てて、右の手のひらを弦全体に押しつけた。
ブツッ、と音が切れて振動が止まる。
これでいいのかな。不安げに視線を送ると、先輩は小さく頷いた。
途端に重圧を感じる。ボリュームを上げたわけでもないのに、密度が増したような、湿った呼吸みたいな音が漏れる。
イブキ先輩に「どうぞ」と視線で促された。私はギターに目を落とした。
きれいなハーモニーなんて、求めていない。
ピックを強く握り直し……今度は、さっきよりも強く。
親指に力を入れて、六本の弦をまとめて殴りつけるように振り抜いた。
瞬間、背後から吐き出されたのは、鉄さびみたいな濁流だった。
さっきまでの丸みを帯びた響きとは違う。
尖って、ひび割れて、泥だらけの音。
鼓膜を削られるような耳障りな轟音なのに、そのザラザラとした歪みこそが、私の胸の奥に澱んでいたものと奇妙に合致する。
息苦しいほど、空気が割れている。
不快で、うるさくて、最高に凶暴だ。
「……っ!」
左手の指先が熱い。違う。全身が沸騰するみたいに痺れている。
込み上げる色が視界を覆い尽くして――
私はもう、音を止めるタイミングがわからなかった。




