第11話
痛い。
でも先を見たい。
音が、私の目の前を走り続けている。
行かなくちゃ。もっと遠くに。
砂嵐ではない、私の出した響きを頼りに。
強く、ひたすらに強く――
ふと、ドッ、ドッ、という等間隔の重たい衝撃が、私の色を割った。
それは少しずつ混ざり合って、溶けていく。
もっと進めと言われているみたいだ。
引き寄せられそうになるのをぐっと堪えて、私はただ覚えているコードを掻き鳴らした。
そうして辿り着いた先は、濁りきって沈んだ色。
バツン、と弾けて終わった。
「あっ……」
一弦が切れたのを確認して、我に返る。
そうなった途端に、弦交換が面倒だなとか、またSAKURA楽器に持っていこうかなとか、現実的な思考が侵入してきた。
「アヤちゃん、血」
「ああ……! ごめんなさい……!」
イブキ先輩の声に、条件反射みたいに肩がすくんで、私は慌てて両手を胸元に引き寄せた。
「違うでしょ! 見せて!」
「えっ――」
「ちょっと染みるけど我慢して」
「あづっ……」
私のギターを取り上げてスタンドにゆっくり添えると、慣れた動きで、イブキ先輩は鞄から未開封のペットボトルを引き抜いた。キャップをわずかに緩めたあとで私の右手首をしっかりと支え、反対側で私の膝の上にハンカチを広げる。床に水が滴り落ちないよう、布越しに受け止める形だ。
そのまま、冷えた水が指先の傷口に注がれた。血豆が潰れ、露出した生身を洗い流す。ふたつの液体が混ざり、ピンク色の雫となってハンカチに吸い込まれていった。
その濡れを丁寧に拭き取り、絆創膏を取り出す。軽く清めた患部を、空気が入らないよう密閉し包み込んでくれた。貼り終えた指先から、心臓の鼓動と同じ拍が伝わってくる。
「昨日、あの指を見てから嫌な予感がしてたの。準備しておいてよかった」
「ありがとうございます……」
「左手は? 弦握ってたほう」
「こ、こっちは大丈夫です……水ぶくれにはなってますけど……」
「そう……アヤちゃん、おとなしそうなのにアクセル踏んだら踏みっぱなしなんだね」
「い、痛いのは平気なので……」
イブキ先輩の強い語調ははじめてだった。ドキッとして、二の句を告げず、されるがままになる。
「ウィルコ・ジョンソンか、ミック・グリーン説ない?」
「それは同じ系統でしょ……」
スバルちゃんの呟きに、イブキ先輩は困ったように口元を緩めた。
そのざっくばらんな性格が、今はありがたい。
「そういえばスバルちゃん、叩けるの? いい感じにバスドラ踏んでたよね」
「や、ノリで踏んだだけですよ。アヤがガシガシ鳴らしてたから」
はっとして顔を上げる。スバルちゃんが、いつの間にかドラムセットの椅子に座っていた。あの重たい音は、スバルちゃんが出していたんだ。
「リズム感いいね」
「えー? カラオケ効果? それとも麺の湯切りかー?」
「湯切り?」
「アタシ、ラーメン屋でバイトしてるんで」
「へぇ、そうなんだ」
「ま、足踏むぐらいなら誰でもって感じですよ。叩けるのとは別みたいな」
ほうっと息を吐く。
そんな普通の会話が、私とギターを現実に引き戻した。終わってしまったことが、ただただ残念だ。
「でもまあ、普通に楽しかったかも」
「本当ですか?」
「アヤがクラッシュ弾いてたし?」
「あれは、古本屋で見つけた教則本にあったので……」
ギターコードだけを覚えるのも違うのかなと思って、近くの古本屋で買ってきたものだ。エレキギター入門という本なのに、なぜかアコースティックギターの譜面が載っていることを、あとで知った。
「けど、ふふっ、ずっと同じところ繰り返してたね」
「えっと……Fコードがあって、そこはまだ……あれは罠なので」
「あは、なにその言い方」
「アヤちゃん、手首も指も柔らかかったし、意外とすぐ弾けるんじゃないかな?」
「だといいんですが……あとBも……Fの影に隠れて、味方みたいな顔してあんな……」
ギターに触れて数日。体力が切れて眠ってしまうまでずっと弾いていても、正しくできているのかは理解できない。いっぱいのコードと、いっぱいの理論に埋もれて、ここでも勉強の毎日だ。
「音楽聴きながらやってんの? アヤ、好きじゃないって言ってなかった?」
「す、少しだけ……長時間聴き続けると疲れちゃうので……」
「ふぅん、それでわかんの?」
「きれいに見えれば……音は大丈夫なので……」
「どういうこと?」
「あっ、いや……」
イブキ先輩の疑問はまっとうだ。
話題を逸らすこともできず、私はスタンドに立てかけていたギターを抱え込んだ。
「そろそろ時間じゃね。片づけよ」
「あっ、そうだね。じゃあ、アンプの落とし方も教えるね」
――助かった。
スバルちゃんの声がなかったら、空気を悪くしていた。
当の本人は、意識した素振りもなく椅子から飛び降りていたけれど。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「へぇ、アヤちゃん、勢いだけで買っちゃったんだ」
「アヤ、行動力が斜め上すぎな」
「お恥ずかしい」
身体が、ソファにずぶずぶと沈み込んでいく。
あんなに掻き鳴らした直後だというのに、この柔らかな底なし沼は、私の体を骨抜きにしてしまう。
スタジオを出た私たちは、近くのカフェに来ていた。
目の前には、分厚い木のテーブル。そこには三つのグラスとカップが並んでいて、氷がカラン、と涼やかな音を立てる。その小さな音がやけに大きく響くくらい、ここは静かだ。
太い木の柱と、背の高い仕切り板のおかげで、他のお客さんの視線は遮られていて、ここだけ隠れ家になっている。壁の棚には、知らない外国のレコードジャケットが、美術館の絵画みたいに行儀よく飾られていた。
照明は落とされていて、視界全体が琥珀色のフィルターを通したように薄暗い。さっきまでの、あの突き刺さる音と、蛍光灯の光が嘘に思えた。空気そのものが焙煎された珈琲だ。香ばしくて少し苦い。
私はテーブルの上のグラスに手を伸ばす。
指先がまだ、微かに痺れていた。
「ピック握った手をガンガンに当てちゃってさ。普段のアヤからはガチで想像つかん」
私としては、そこまで張り切っているつもりはなかったけれど、スバルちゃんに引かれてしまった。
僅か一時間ちょっとのスタジオ練習。名残惜しい気持ちと、今更ながら見られていた羞恥が混ざり合って、とてつもなく複雑な心境になっている。
「もうちょっと自分の体をいたわってね」
「すみません……」
「イブキ先輩、やっぱ知識深すぎじゃないですか?」
「そうでもないよ。みんなよりちょっと、ぐらいかな」
「けど、今日は助かりました。本当にありがとうございました」
「いいの。私が強引に来たいって言ったんだから。これぐらい」
テンパってしまって何がなんだかわからなくなっていた自分にとって、イブキ先輩はこれ以上にない存在だった。
確かに色々と詳しいなと、これも今になって思う。
「てかアヤ。次はいつスタジオ入るん? アタシ、また行くわ」
「えっ!?」
「次は歌うかぁ? Knockin’ on Heaven’s Door弾いてたし。あっ、イブキ先輩、ガンズのほう聴いたことあります?」
「ええ、兄が好きだったから少し……」
「ヤバいですよね、あっちも」
「スバルちゃんは音楽好きなんだね」
「でもまあ、今はパンクばっかですよ。パンクしか勝たんみたいな」
私は、教則本を読んでちょっと曲を聴いて、弾いているだけ。もちろん上手くはない。コードチェンジっていうのには手間取るし、覚えたと思ったコードですら頭から飛んでいることもある。だからそんな演奏ともいえないものを聴き取れているのだとしたら、それはスバルちゃんやイブキ先輩の知識量なんだろうって思った。
それとも私がたんに疎いだけだろうか?
「あれ!? 私、歌うんですか……!?」
「おお、前と同じだ、このパターン」
「アヤちゃん、そんな大きな声出せるんだ」
笑われてしまった。
いや、スバルちゃんのせいだ。
「ライブやんなら歌必須っしょ。や、インストバンドもあるけどさ」
「ええ、もうそこまで話進んでるんだ?」
「すすす進んでません……! スバルちゃんが言ってるだけで……! そ、それに……」
私はふたりの顔色をうかがって、
「だ、誰かの前で歌うなんて恥ずかしすぎます……」
私はカップを両手で握った。冷たい。
「ひ、ひとりで音を出してるだけでいいんです。む、無理にライブとかやらなくても……」
「頑張れば沼れるぞー? 世界変わるかもしれん。見えないものとか見られる」
「見えないもの……」
「こういうのは強制するものじゃないよ。それでいいなら、ひとりで楽しむのもいいでしょ?」
スバルちゃんは、いつものように「あはー」と笑う。
わかってる。普段と同じ軽口で、冗談なことぐらい。私がやると言わない限り、強制されないことも。
「てかアヤ、次はイブキ先輩の演奏も聴きたくない?」
「ええ? 私なんて何もできないよー」
「そうなのかなぁ? あれだけ詳しくて、何もってことはないと思うけどなぁ?」
「うーん……」
イブキ先輩が苦笑する。まるで逃げられないと観念したみたいに。
「あのね、私の兄がベースをやってたんだけど、就職を機に東京に行っちゃったのね。で、楽器も機材も全部置いていっちゃったの。だから暇なとき、勝手に借りて少し、ね」
「ほらー! やっぱじゃん」
「歳の離れた兄だったから、小さい頃はよくついていっててね。ひとりでスタジオ入るときとか、一緒に。それで話聞いてたから、覚えてたの。私はそれだけだよ。練習してる人に比べたらお遊びレベル。本当にそれだけ」
「聴きたいね? アヤ」
「えと……」
自分のぐちゃぐちゃな音と混ざるのを想像した。
溶け合う色は、私になんと言うだろう?
進め? 戻れ? 立ち止まれ?
そんな未来があるのかな。まだ、いまいち判断できない。
「アヤちゃん?」
「ああ……ごめんなさい。ど、どんな音なのかなって……ベースのこと、何も知らないので……」
「ふふふ、正直だね」
先輩の潤んだ瞳が、私をじっと捉えた。
「機会があれば、音、聴かせてあげる」
そう呟いて、目を細める。
その機会は、待っていれば来るものではなさそうだった。




