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Sugarless SugarLady  作者: アベシ
第三章
PR
13/33

幕間

 さめざめと降る雨に溶かされた街の輪郭は、客足を遠のかせるには充分すぎる理由だった。

 ライブといえば聞こえはいいが、結局のところ商売だ。これを成り立たせるには、ある程度人が入らなければ。地方都市では、東京ほどの単価は見込めない。

 照途にとって悩みのタネだが、手のうちようがないというのが実情だ。それはFRONTの経営者も重々承知している。だから何も言われないということも――いいや、何も言われないからこそいたたまれない。


 壁を覆う吸音材を眺めながら嘆息する。もう何千回となく爆音を浴びせられたせいで、本来の色なんてとっくに忘れている。繊維の奥まで染み付いているのは、熱狂の煤だろうと納得していたが、あるいはこれは諦めの澱かもしれない。若さゆえの夢見がちが、多く散っていった証左。


 天井を這い回る鉄骨とケーブルの束は、都市の底に根を張った木だ。見ているだけで息が詰まる。

 頭上のダクトが低い唸り声を上げているが、こいつがまともに空気を入れ替えているとは到底思えなかった。外気とは無縁の地下密室。ここでは時間の流れさえも淀み、肌にまとわりつく湿気となって滞留している。

 ステージの淵には、モニタースピーカーの鉄網が鈍く黒光りして鎮座している。誰彼構わずに飲み込んでやるという、ふてぶてしい面構えだ。主を失ったマイクスタンドが、冷ややかな銀色を晒して、虚空に向かって突っ立っている。


 ぶら下がる無数の照明も、今はただのガラス玉だ。スイッチひとつで残酷な明暗を切り分けるその瞳は、まだまどろんでいる。最奥の闇の中、PA卓のランプがチカチカと明滅し、この巨大な鉄の空洞がまだ死んでいないことを無機質に告げていた。


「だっさい演奏でしたね、この前の」

「うるせーな。チッ、お前に見られるんだったら立たなかったよ、あんなとこ」


 かつての栄華など見る影もなく、技術は過去に置き去りにした。照途にとって、あの一瞬は失われた記憶を呼び覚ます行為だったが、当然上手くはいかないまま。目の前の女性に鼻で笑われるのも、自明と言えた。


「俺はもう現役じゃねーの。最近、山岡家がキツいんだから。マジで」

「毒気を抜かれて死んだみたい。あんなつまらないギター、よくステージ立てたなって思いますよ」

「あまりいじめんなよ。こっちは五年も弾いてねぇんだから」


 照途の眼前にいる女性が、ふん、と鼻を鳴らす。これほど露骨な不満は、なかなかお目にかかれない。かつての教え子も成長したものだと思うことにした。

 フロアから出てバーカウンターに腰掛け、紙とペンを取り出す。閑古鳥が鳴いていても、やらねばならないことは多くある。


「見ました? フロアに女子高生がいたんです。テリーさん弾いてるの見て、口あんぐり」

「俺のギグはガキにはわかんねーのさ。そんなことよりエア、お前こそ弾いてんのかよ。こっち来て何年だ?」

「そんな経ってないですよ。寒いですけど不便しないし、それなりにいい場所ですね」

「東京のほうがいいぜ。こんな冷え込まねーしな。そもそも、お前の本業もこっちじゃやりにくいだろ」


 女性――エアは、照途には返答せず、つまらなそうに嘆息する。


「私は、弾いてますよ。今でも毎日。ドロップアウトしたつもりないんで」

「でもこんな地方じゃ、求めてるものなんて落ちてないぞ。優秀な奴だろ、お前」


 あらためて見れば彼女の佇まいは、この場所が積み上げてきた時間を否定する潔癖さに満ちている。

 纏っているのはダブルのライダースだが、その革は新品さながらに張り詰め、安酒と煙草の粒子を寄せつけない。吸音材の煤けた黒とは対照的に、光沢が暗がりの中で冷たく浮いている。襟元から覗く白シャツに至っては、アイロンのプレス跡が指を切りそうなほど鋭角だ。

 すらりと伸びた手足は、女性的な丸みよりも、研磨された金属の冷たさを連想させる。整えられた黒髪が、地下特有の湿気にも負けず、さらりと肩に落ちる様は、見ている照途の背筋が寒くなるほど完成されていた。


 客でもなければ、しがないバンドマンでもない。人の形をした何かが立っている。そんな印象だ。

 彼にとっては旧い馴染みではあるが、気後れするのも無理はない。


「それで、さっきから何書いてるんですか?」

「ああ、これ? うちの経営者がな、もっと客を呼べ! もっとバンドを呼び込め! ってな具合でよ。でもそこそこ力のあるバンドなんて、別のハコのお抱えになってることも多いだろ。だから――」


 場所を貸し出すだけの受け身の商売では、電気代を稼ぐのが関の山だ。かといって、集客力のある古参を引っこ抜く体力も、正直あるとは言い難い。

 ならば、まだ誰の手垢もついていない、海のものとも山のものともつかない新人を、自分たちの手で拾い上げるしかない。それは砂利の山から砂金を探すような、気の遠くなる作業に他ならなかった。


「でもFRONTには、BRLO(ブラリオ)がいるでしょ」

「さすがのお前でも知ってるか。バンド組んだぐらいの頃、ちょっと面倒見てやったことがあったんだけどよ。あいつら、律儀にうちでやってくれるんだ。さっさと東京行けって言ってんだが」

「あの人気なら、すぐ向こうで勝負するんじゃないですか。その次がいないってことなのかもですが」

「だから何かできねーかなって考えてんだよ。でも頭使うのはまったくだ。煙草吸いてぇし、酒もやりたい」

「駄目な大人の典型ですね。あの篠路照途が、ねぇ」

「俺のことはいいの。そんなことよりエア、山岡家行く? 腹減っちまったよ」


 エアはかぶりを振る。幼少の頃、自身にギターの技術を叩き込んでくれた師の姿は、もうない。


「誰が好きこのんであなたと食事に行くんですか。嫌ですよ。それに私、これから仕事なので」

「つれないなぁ、お前。はぁ……しょせん、しがないおっさんですよ、俺は」


 照途はペンを置き、立ち上がる。

 ステージで声を張り上げたのは、もう一週間も前のことだった。ギターを掻き鳴らし叫んだのは、たったの一〇分程度。だが今になっても、体の強張りが抜けない。

 これも歳のせいかと自嘲し、凝った首筋を乱暴に鳴らす。骨の芯が不快な音で弾けた。

 単なる加齢ではない。これは錆なんだろう。五年の空白が、かつて指先に宿っていた熱を奪い、神経を目詰まりさせている。ほんの僅かな時間、魂の燃えかすを吐き出しただけでこの有様なのだから、現役などと嘯く資格は端からありはしない。


 ポケットのセブンスターに指先で触れ、その角の硬さを確かめる。

 しかし、やるしかない。この地下の底、重苦しい空気のさらに奥で、世界を睨みつける本物を見つけ出すまでは、彼も折れるつもりはない。

 無人のフロアには、主を待つステージの静けさと、空調の低い唸り声がいつまでも残響していた。

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