第7話
目が覚めたとき、やけに白く眩しかった。
カーテンの向こうが明るすぎて、朝だと理解するまでしばらく動けずにいた。
体が重く、眠った記憶もない。いつの間に寝ちゃったんだろう。
少し身じろぎして、起き上がろうとした瞬間――
熱い。
指先が、じわりと痺れている。熱を持ったまま、逃げ場を探すみたいに疼いていた。
左手を見る。指の腹が赤い。皮膚が浮いて、ところどころ白くめくれていた。右手より、ずっとひどい。触れるだけで、ひりひり、と痛みが走る。
何をしたのかは、すぐには思い出せなかった。
視線を落とすと、ベッドの脇に黒い箱があった。昨日、部屋の隅に置いたはずのギターケースだ。知らないうちに、足元まで来ている。
床には、弦の切れ端が落ちていた。
何時まで、触っていたんだっけ。まったく覚えてない。
考えようとすると、指が脈打つ。答えは、全部ここにある気がして、目を伏せた。
喉がカラカラだ。廊下に出るためにドアノブに手をかける。ぎゅっと力を入れただけで、指先が悲鳴を上げた。
……そっか。
初心者って、こうなんだ。
誰に向けたわけでもない言葉が、胸の奥で転がった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「寒い! 寒すぎ! アヤもそう思わん!?」
「はい……」
この時期、当然のことだけど、それにしても一際冷える日だった。
二、三歩進んではスバルちゃんが同意を求めてくる。こういうときは、こんなものだ。長くダラダラと話していられない。「寒い」「冷える」「今日ヤバい」この三語で一時間は持つ。
今日こそはスバルちゃんに耳栓を返却しようと連絡した。
駅チカのカフェで話そうと提案されたので、こうして歩いているのだけど……
「寒くね……?」
「スバルちゃんはスカートが短すぎると思います……」
「膝上で決めるのは、地元の意地だから」
「意味がわかりません……」
この時期に生足を晒す意地を、きっとこの先も理解できない。
「アヤも巻いてけー?」
「む、無理です……」
八〇デニールですら限界なのに、これよりさらにスカートを巻けだなんて。その発想は常軌を逸している。スバルちゃんの脚は防寒を度外視しているためか、隣に並び立つと、私が間違っているとさえ錯覚する。
「おっ、あっこでいいじゃん。入ろ。もー、足もげるわ」
……やっぱりおかしいのは、スバルちゃんのようだ。
自動ドアが閉まった途端、急に喧騒が遠ざかった。さっきまで内側にまとわりついていたざらざらしたものが、輪郭を失って薄れていく。空気は静かで、外で固まっていた感覚が、ゆっくりほどけていった。
客席は棚や仕切りで区切られていて、隣の様子が直接流れ込んでこないのがいい。話し声も足音も丸くなって、色になる前に消える。完全な個室じゃないのに、ここだけ世界がぎゅっと狭まるみたいだ。
椅子に腰を下ろすと、呼吸が楽になっていることに気づく。この場所なら、ちゃんと息ができる。
店員さんに注文を済ませたあとで、スバルちゃんはややオーバーサイズの中綿ダウンと、口元まで覆っていたロングマフラーを外した。ブレザーの下には明らかに校則違反の、だぼっとしたカーディガンが見える。
「や、エグい。タクシー案件じゃん」
「はぁ……」
「上は決まってんのになぁ。マフラー可愛くない?」
「下のガードの話なのでは?」
そっちを徹底しても、防御力ゼロの脚をどうにかしないことには、解決しない。意地なんて捨てちゃえばいいのにっていうのは、ちょっと野暮だろうか?
「アイスキャラメルラテ頼んじゃった」
「どうして暖かい場所にいると、冷たいものをとりたくなるんでしょう? 外はあんなだったのに」
「ね」
「寒いのは外だけですもん」
「あはー! 家、ガチで半袖短パンだよ。暑いまである」
ひと息ついたころには、スバルちゃんはらしさを取り戻してきた。
別のことに意識をとられていたけれど、私は耳栓を返却しに声をかけたんだった。
「スバルちゃん、これありがとうございました。使ってないので、そのままお返しできるかと思って……」
「おー、いいのに。うるさかったでしょ、ライブハウス。アヤは嫌がると――何!? アヤ、指どしたん!? これ!」
私の手首を掴んだスバルちゃんが、声を張る。
「いじめられた!?」
「ち、違います……! な、なんですか指先のいじめって……陰湿すぎます……!」
「わからんて。あるかもしれん」
「少なくとも私は違います。あの……」
ちょっとだけ躊躇ってしまう。昨日の今日で言えるようなことか、と。
「えっと……」
「いじめ?」
「ですから違います。その……ぎ、ギターをはじめてみたんです……」
「へぇ、ギター。アヤがギターね――えぇっ!? アヤがギター!?」
「しっ……静かにしてください……」
「だってアヤだし! アヤだよ!? アヤなのに!」
立ち上がるほどに驚かれるとは考えもしなかった。
というより、落ち着きのある店内で自分の名前が連呼される恥ずかしさ。
「え、嘘? ガチ?」
「本当です。昨日買ってきたばっかりで、まだほとんど……」
「えぇ、すご。ガチじゃん」
ガチガチ言いながら、スバルちゃんがようやく私の手を離してくれた。
「エレキ? てかライブ行って影響されたんだ? 音楽聴かないアヤがねぇ」
「自分でもよくわからなくて。でも気づいたらギターを買っちゃってました。まだなんにも弾けないんですけど……」
「いいんじゃね。やりたいって思ったんでしょ。じゃ、あとはやるだけだ」
「……そう、かもしれません」
あとはやるだけ。ものすごくシンプルでスバルちゃんらしい言葉だ。
「それでギター練習してて、指がこんなことに……」
「はじめのうちは大変だって聞くね。アタシはやったことないからわからんけど。や、でもアヤがなぁ」
「でもって……」
「だけどアヤ、急に変なことするし。まあ、ありっちゃありか」
変なことすると思われてたんだ。ほんのりショック。
ひっそりと運ばれてきていた飲み物に口をつけて、スバルちゃんが言う。
「バンドやるんだ?」
「えっ!? ば、バンドですか!?」
「声でか」
「あっ……」
思いがけない問いかけに、つい――こればかりは、スバルちゃんの飛躍のせいにしたくなる。
バンド……バンドなんてそこまで私は思い至らなかった。
「ギターはじめたんなら、バンドやるんじゃないん?」
「えっ、あの……ひ、ひとりでやるのは無理なんですか?」
「や、そんなことないけど。この前行ったFRONTも、ひとりで出る人いるし。アヤもひとりでやるん?」
「ひ、ひとりで……え? あれ……私、ライブやるんですか……?」
「あは、知らんし。でもギターやってたらさ、誰かに聴いてもらうもんなんじゃないの? アタシ、聴く専だから実際のとこはわからんけど。そういうもんかなって」
「そうですか……」
温かなカフェラテが入ったカップを、両手でぎゅっと握る。指先が赤くなるまでずっと。
誰かの前で何かをするなんて――ハードルが高すぎる。
「そういや、アヤと仲良いイブキ先輩いるじゃん。あの人、小さい頃バイオリンやってたって。アヤのバンド活動手伝ってくれるかもよ」
「私のバンド活動は確定なんですか?」
「ツギハギだらけの犬飼ったり、撃たれた跡のあるギター買ってたら確定だね」
「つ、ツギハギ……?」
「てか、アイスキャラメルラテって氷溶けたらまずくね」
「う、薄くなりますからね」
そんな益体のない受け答えをしながらも、私の混乱は続いていた。
バンド……誰かに聴かせる、ライブ……ライブ……?
衝動的に買ってしまったギターと、一日しか練習していない自分。
大それたことを、私はできるのだろうか。
「アヤん家、デカい音出せるん? マンションでしょ」
「いえ……さすがに大きい音は……なので、ギターしか買ってないんです。スタジオ行きなって、お店の方に言われました」
「あー、なんか聞くね。バンドのスタジオ練習って。見たことないなー」
「私もありません……」
「おー、アヤのスタジオデビューじゃん。ヤバいね」
「や……ヤバいですね……まだ行ってもいないのに、心臓が破裂しそうです」
早鐘が視界をボヤけさせるほどに。
「――えっ? あれ? どうして私、スタジオに行くことが決まってるんですか……?」
「や、アヤ。見てほら」
私の話を聞いてか聞かずか、スバルちゃんはスマホを見せてきた。
「すすきのの近くにスタジオあるわ」
「……ありますね、これ」
「デビュー不可避じゃん」
「あっ、えと……ええ……?」
最大限の困惑が絞り出した弱々しい声。きっと顔は青ざめている。スバルちゃんは見てないけれど。
「あの……! す、スタジオはひとりで入れるのでしょうか……? バンドなら、私だけじゃ無理なのでは……?」
「んー? アタシも行く感じ? いいよ。暇だし」
その言葉は、冗談みたいな調子で投げられたのに、私の中では、まだ意味の形をしていなかった。




