第6話
床に足をつけた瞬間、金額の重さだけが先に来た。
視界の端で、吊るされたギターがゆっくり揺れている。止まっているはずなのに、そうは感じられなかった。
「おっ、君はこの前の学生ちゃん。また来てくれたの?」
奥から先日のお姉さん――店員さんが顔を出した。
「ギターを……買おうと思いまして」
「おお、嬉しいねぇ。じゃ、お姉さんが頑張ってお手伝いしてあげよう。あれ? 君、弾いたことないんだったよね?」
「はい。触ったこともないのですが……」
「ほうほう。なおさら素敵じゃないか! 私はね、初心者が楽器選びに目を輝かせているのを見るのが一番好きなんだ。わかる? この気持ち」
「は、はぁ……」
明らかにテンションが上がっている。
そんな楽しげなことを言ったつもりはないのだけれど。
「で、だ。とりあえず好みを聞く前に、わかりやすいおすすめだけ教えておくね。あっち側、本数は多くないけど初心者用のセットを置いてるよ。三万から五万ぐらいで、一式揃う。アンプ、チューナー、シールド。あとクリーナーとクロスもつくね。それと教則本も。会員証作ってくれたら一回だけ弦交換タダにしたげる。あとね、うちはこの値段だけど、アンプがいいの。ネットに転がってるのとはわけが違うよ。どう? 悪くないと思うけど」
困った。テレビショッピングぐらい色々ついてくるけど、それがお得なのかどうか。
「最近はねぇ、エントリーモデルといえど、昔ほど作りは悪くないからさ。アンプで差をつけろ! っていうか、いい音出たほうがモチベ上がるでしょ? ……と、私が話しすぎてもね。気になるのはある? 代わりに試奏してあげるよ」
「…………」
何をどう答えるべきか迷う。私がはっきり覚えているギターは――
「あっ……」
スマホを取り出し、スバルちゃんから送られてきた写真を差し出す。
「BRLOだね? ああ、ギタボが持ってるのはES-355だね。現行モデルじゃないかなぁ」
「こ、これの赤いやつが気になってるんです」
「赤?」
「あ、あの……FRONTで赤いやつを弾いているのを……」
こんなとき専門用語のひとつでも知っていれば……
「ふーん、FRONTかぁ。だけど初心者なら、少なくともハコモノはおすすめしないかなぁ。ESはセミアコだけど、フルアコになると特にね。ハコは鳴るぶん、タッチもシビアだし、ハウリングの処理とかしんどい」
「はじめて見たギターだったんです。それだけなんですけど……」
「Gibsonのは、売れちゃってないなぁ。Epiphoneならあるよ。新品がいいなら向こうの一丁目の店か、札幌駅の大手さんに行ってみたら? ハコモノだと、うちは中古で――Gretschなんてのはあるけど。予算は?」
「二〇万円あります。ち、貯金を下ろしてきて」
「二〇万!? 今の若い子はお金持ってるなぁ。BRLOのこれも、結構するのよ」
鞄の奥に押し込んだ銀行封筒。そこには、今まで貯め込んでいたお金が入っている。こんな大金を持ったことのない私にとって、楽器屋までの道中は不安と恐怖でいっぱいだった。誰かに咎められているような、狙われているような……。
「ね、学生ちゃん。やっぱさ、三万ぐらいのセットにしたら? ソリッドギター……えっと、ストラトタイプとか、レスポールタイプとかさ。で、残りはギターを続けられそうだってときのために――ああ、そうだ。次のギターの頭金にでもとかさ。全部使うなんてもったいないだろ? こっちは商売だけどね、観賞用のために売ってるわけじゃないし。使われないのはさ、お互いによくないじゃんか」
「そ……そうなのかもしれません……」
「セットのこれが微妙だっていうなら、たとえば単体で……YAMAHAとかSquierとかどう? そのぶんアンプの値段を抑えるとか――」
「あっ……」
ふと思い出す。
何日か前、はじめてここに来た帰り。視界の端に映った楽器のこと。
「どしたの? 気になるのあった?」
「えと……中古のところにあった、ふっくらしたやつ……」
「ふっくら……面白いたとえするね、学生ちゃん。ちょっと行ってみよ」
店員さんに促されるまま、中古楽器の並びに向かう。
――やっぱりあった。
私は言葉を発さず、指をさす。
「ああ、これかい? GretschのTennesseanのリイシューモデルさ。通常はダークチェリーなんだが、これはブラック。ラッカー塗装でね、なかなか珍しい色だろ。しかもシミュレイテッドFホールってやつでね。フルアコのわりには、ハウらないんだ」
「この前来たときに、ちらっと見えたんです。ぼてっとしてて……忘れられなくて」
下がっている値札には、一八万円と書かれている。
「買えそうだって顔に書いてるね」
「えっ? はい……」
「まあ、安いのにはわけがあるんだ。まずピックアップが交換されている。よりによってフィルタートロンにだ。ハイロートロン前提の構造なのに、ザグリ広げてまで載せ替えて……マウントも合ってないのにさ。分離感とか、立ち上がりの速さとか、それがハイロートロンの美味しいとこじゃん! わかる!? それなら、そっちのモデルを買えばいいだろ!? もし甘くメロウで太いトーンが欲しいってんなら、Nashvilleか、はなっからフィルタートロン載ってるテネシーローズ買っとけ――――あ」
怒涛の勢いでまくしたてられ、口を挟む間もなかった。あまりに強烈な豹変で、ちょっとだけ帰ろうかと思うほどに。
「……ごめん、好みの話でつい興奮しちゃった。うん……本当にごめんね……」
「いえ……はい、大丈夫です……びっくりしましたけど……」
店員さんは咳払いをひとつして、再び笑顔を取り戻した。
「ま、もとのピックアップは残ってるから。それとこのギターはネックに補修歴がある。折れてはいないけど、クラックを埋めて、タッチアップしてる。演奏には問題ないね。トラスロッドも効くし、現状は安定してる。それも込みで一八万」
Tennesseanってギターは、なんだかよくないことばかりらしい。だけど理屈じゃない。この黒くて丸いものを前に、呼吸を忘れた。
「ここだけの話、当初は二五万で値付けしてたんだ。でも地方だからね、こういう個体は動かない。ネットに流すか悩んだけど、店長が置いとけって言って。結局、売れ残りさ。プレイヤーズコンディションってやつ。すぐにでも弾けるように調整済みだし、弦交換は済んでる。でもその……」
「……なんでしょうか」
「やっぱりおすすめはしない。君、学生なんだろ?」
私は頷いた。戸惑いを隠せただろうか?
「二〇万は社会人でも大金だ。いっときの衝動で買っちゃえば後悔する。もしここで購入したとして……やっぱりいらないとなっても、販売価格と同じ額で買い取ってはあげられない。ちゃんと考えるべきだよ。君にとって必要なものかどうか。あ、何日か取置しておいてもいい。ね?」
「それでも――」
良し悪しは知らない。興味もない。私はもう、目の逸らし方を忘れてしまっていた。
「はぁ……こういう説得は、難しいんだよ。まいったなぁ」
「これがいいです」
「再三のことだけど、このTennesseanは中古だ。ネックを補修していて、ピックアップも本来のものじゃない。ただでさえハコモノは難しいのに、相当なじゃじゃ馬になってる。初心者にとって弾きにくいし、メンテナンス性は悪い。BIGSBYも……うん、とにかくトラブルに対処するのがだいぶ面倒なのさ」
やめたほうがいい理由は、たくさん並んでいる。
それでも、戻るきっかけだけが見つからなかった。
「――ただ、君の目は間違っていない。あれこれ熱くなったりもしたけど、いい鳴りするよ。Gretschにしかない音っていうのは、確かにある。ここまで改造をされていても、前の所有者が望んだ形になってるんだろう。――うん、いい音さ。保証するよ」
「そう、ですか……いい音なんですね、この子」
「そうとも。私にもこだわりがあるから熱くなっちゃったけどね、きれいに鳴くよ。試奏はいらないかい?」
首を縦に振って、私は鞄を開いて奥に眠る封筒を取り出す。
買います、と口には出せなかった。
「はぁ……そっか。わかりました。じゃあ、いいよ。売ったげる。初心者セットじゃないから、アンプはつけてあげらんないからね。教則本と安っちいけどシールドはつけてあげるよ。君、家で大きい音出せるの?」
「……いえ。マンションなので」
「じゃ、スタジオ入りなね。そこなら好き放題できるからさ。それまではお勉強と練習だ。おっ、チューナーもプレゼントだ。君、可愛いからサービスだ」
店員さんが慣れた手つきで吊るされたギターを下ろした。
「あと純正のハードケースはつくけど、ソフトケースはないからね。重たいぞー?」
「あの……ありがとうございます」
「いやいや、たまにいるんだよ。初心者なのに覚悟決まってる子とか、衝動で揺らがない子とか、そういうのが。君、そんな顔してるよ。やめんなよー?」
「は、はい……私、あの……いっぱい音出します。頑張って……音を出します」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
重たいギターケースを抱えて帰った。
ほんのちょっと前まで、遠い存在だったはずのものが、いまは腕の中にある。
玄関を閉めて、靴を脱いでも、まだよくわからない。
買ったとか、持って帰ったとか、そういうのより、腕が変に疲れている。コートより、ずっと重い。こんなの知らなかった。
部屋に入って、電気をつける。
いつもの部屋なのに、どこか落ち着かない。
床の隅――いつも、なんとなく空いていた場所。
ああって思った。何がああなのかは言葉にできない。
そこに、ケースを置く。
コト、という感触が返ってきた。
そこに見えたのは、柔らかな浅葱色。
伸びっぱなしだった充電ケーブルが、黒い箱の下に、ぐしゃっと隠れた。
ここ、だったのかもしれない。
何を置けばいいのか、ずっとわからなかった場所。
でも、今は――
これ以外、考えられなかった。
私は、一本の弦に指を触れた。
音がした。




