第5話
姿見の前で、静かに息を止める。
浅葱色の音が聞こえてきて、私は生きていると感じる。
大切なルーティン。
つい先日のことだ。
はじめてライブに触れた。
――というより浴びたといったほうが正しいかもしれない。名状しがたい攻撃だった。音に殴られたのは、はじめての経験だった。見知らぬ人の叫びが、まぶたにこびりついた。
その後は、よく覚えていない。我に返ると、行列のできるラーメン屋で味噌ラーメンをすすっていて、ラードに守られたスープの熱で舌を火傷していた。スバルちゃんは、興奮しながらBRLOについて話していた。どんな音楽だったのか、申し訳ないけれど記憶にない。
私がぼんやりしていたのに、スバルちゃんは気づいていたはずだけど、問われなかった。別れ際にチケット代とドリンク代を渡さなきゃと声をかけたのに、嬉しげに笑って「今度、メシ奢って」と残して去っていった。大切な友人の、大切な時間を邪魔しなかったかだけが、心配だ。
ロックというものは、今もよくわからない。
帰り道、体の内側だけが、置き去りにされた振動で揺れていた。熱に浮かされてふわふわで、いつも不安になる地下鉄の砂嵐が、あのときだけは映らなかった。衝撃が頭で反響していたから。
遅くに帰ったことを、お母さんに怒られた。すっかり連絡を忘れていた無精を反省する。
土曜日になっても、あの暴力的な音が離れてくれなかった。心の火照りが消えないまま。だから、外を走ると決めた。自分から運動しようなんて、もう何年かぶりだった。
朝の冷え込みのせいで、いきなり帰りたくなったのは内緒だ。踏み固められた雪を蹴り、そのままアンパン道路へ入る。凍った粒が靴底に絡みつき、息はすぐ荒れた。
道が途切れ、視界が広がって白石藻岩通に放り出される。流れの速い音もなんのその、頑張って進むうち、足取りに微かな重みが混じりはじめた。知らないうちに、高さを稼いでいたみたい。
平岸高台公園が見えたところで、ようやく立ち止まる。肩が上下し、冷たい空気が肺を満たす。
距離はたいしたものじゃない。それでも、ここまで来たんだって実感が、私の耳鳴りを抑えてくれた。
そんな達成感とは裏腹に太ももはパンパンで、帰路は歩いた。
そして、風邪を引いた。
まさかの二日連続でお母さんに怒られた。「どうしたの?」と困惑もされた。己の体力を過信した愚か者と罵ってほしい。体育の成績は五段階評価で二。「特に努力を要する」とまで書かれたんだった。
それで週末は潰れた。
寝込んでいると、スバルちゃんから連絡がきた。
「BRLOと撮ったやつ、送っとくね」
送られてきた写真で、はじめてスバルちゃんの好きなバンドが女性三人組だと知った。きっとそれほど混乱していたんだろう。
コートを羽織り、ポケットに手を入れるとそこには使われなかった耳栓があった。スバルちゃんに渡されたものだ。返さなきゃいけない。
いつもどおりに玄関で挨拶を済ませて、家を出た。
いっときの、まるで夢の中にいたかのような時間。もしくは大雪とか台風とか、束の間の荒天。過ぎ去ってしまえば、日常は戻る。それが望ましくないものであっても。
地下鉄の砂嵐。灰色の視界。ドロドロに溶けた目の先には、やはりいい印象がない。
たった一度では、何も変わらなかった。ライブハウスに行ったのは、別に正解じゃなかった。
だけど、あの一瞬の衝撃を私はこれからずっと忘れない。
ひどい色でパチーンと殴られたあの衝撃を。
「はぁ……寒いな」
風邪は治ったけれど、このままじゃぶり返しそうだ。
震える手をポケットに押し込んで、前を向いた。
「――――?」
目を見開く。
「あ、あれ……」
はじめて訪れたライブハウスがある、拾壱号ビルの傍に立っていた。
登校中――と思っていたのは自分だけで、体の動きが脳を裏切る状況に……いや、そんなことを考えている場合じゃない。
どうして? 考え事をしていたって、わざわざこんなところに来るだろうか。
遅刻してしまう。慌てて振り返った。
「うちは、こんな朝っぱらからやってないよ」
「うひゃあぁっ!?」
背後からの声に驚き、つんのめりながら走り出した。
誰に話しかけられたのか、確認もせずに。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
今日は色々と上手くいかなかった。
……それはいつもか。
スバルちゃんに連絡をしたけれど、バイトがあるから会えないらしい。
仕方がないので、まっすぐ帰ろう――そう考えていたのに、改札の前で足が止まった。
まだ帰りたくないと、言っているようだ。
「ちょっと歩こう……」
早めに家に戻って、少し休もう。そのほうがいい。朝のことは忘れなくちゃいけないのに、自然と地上へのぼる階段へと歩き出していた。朝に風邪がぶり返しそうだなんて言っておきながら、この矛盾。学生ってそういう生き物だ。
寒さに耐えながら、大通から歩いて五分ぐらい。風に押されるまま地上を抜け、友達とよく行くハンバーグチェーンを越えたあたりで、天井のある街に放り込まれる。
狸小路は、一本の長い屋根付き通路だ。東から西へ、だらだらと伸びていて、天候だけは平等に遮断してくれる。冬の札幌では、それだけで理由になる場所だ。
ネオン、呼び込み、古い看板と新しいチェーン店。全部が等しく飛び込んできて、整理されず流れていく。
ひとつひとつのウルサイは、だけど色がばらけていて重ならない。音は白く固まらず、赤や黄の欠片になって、視界の端でほどけて消える。私は、その散り方に紛れて、少しだけ息を通した。
無意識に三丁目のほうへ足が向く。ここから狸小路の終わりまで歩いたら、何分ぐらいかかるんだろう?
そう考えながら踏み出すと、コンクリート打ちっぱなしのお店が目に留まる。壁面いっぱいに、店名が重たく載っていた。『SAKURA』楽器&レコード店と。
「楽器……」
今まで気にしていなかったけれど、こんなところにそんなお店があったんだ。
高校に上がるまでに音楽の授業で扱ったのは、リコーダーと鍵盤ハーモニカ。吹奏楽部の同級生が持っていたトランペットを近くで見たぐらい。歌も聴かないから、CDやレコードとは無縁だし……知らないのも無理はない……ハンバーグチェーンと同じビルなので、私の注意力が皆無だっただけか。
漏れてくる曲が、誰のものなのかは知らない。
通り過ぎてもよかったけど、好奇心に負けて店内へと進んでいた。
自動ドアが開くと、ボリュームがぐっと上がる。騒音ではないけれど、無節操にたくさんの色が見えるのがちょっと嫌だ。
一階はCDやミュージック系雑誌を取り扱っている。小走りでそこを抜けて、階段を下った。
地下の入口には豪華なドラムセットのディスプレイがあって、右にも左にもずらりと楽器が展示されている。黒い天井から、細い光がまっすぐ降りてきて、その輪郭を強調している。
種類もたくさん。こんなに近くにあるのが、ほんのちょっといい気分。上と違って静かだ。
「いらっしゃい」
「あ、どうも……」
当然といえば当然だけど、店員さんに声をかけられた。すらりと背の高い女性だ。
「駅向こうの制服だねぇ、ギターやるの? ベース?」
「いえ、その……やったことはなくって……」
「ほう! ほうほうほう!」
お姉さんは嬉しそうに目を輝かせる。
「それと……お金はなくて。その……値段を……」
「ああ、そういう! うんうん、いいね、学生ちゃん! うちは品揃えだけなら、ヨソにも負けないからさ! あっ、こっち側が新品で、あっちが中古。新品列の前に初心者用セットがあるよ! 楽しんでいってね~」
「ありがとうございます」
店員さんが奥のほうに消えていくのを確認する。
咄嗟に嘘をついてしまった。覗きに来たのは本当。でも値段なんて――想像すらつかないし。
ああいった手前、このまま去るわけにも行かない。
ええっと左側が新品。
確かに「エントリーモデル」と書かれた札がかけられたギターが並んでいる。
ギターだけじゃなく、必要そうなものが最初からまとまっていて、この値段。数字を追っているうちに、背中の力が少し抜けた。
自慢じゃないけれど、私は毎月のお小遣いをちょっとずつ貯めている。それと一度も使っていないお年玉がたっぷりある。この程度なら何本も買える。――そこまで本数は必要ないと思うけど。
せっかくなので、その列の間にできた細い通路へ足を踏み入れる。左右の壁いっぱいに吊るされたギターに挟まれながら、ゆっくり奥へ進んでいった。
まったくの素人だってわかる。エントリーモデルと書かれたものとは違う。理由は説明できない。きれいというか、整っているというか……。
「きゅうじゅ――ッ!?」
軽い気持ちで見たギターの価格は、とんでもなかった。私の貯金では到底太刀打ちできない強さだ。九万円の間違い……ではないみたい。その他も軒並み何十万円、特殊なディスプレイで展示されているものに至っては、桁がもうひとつ多い。隙だらけで乗り込んだ自分が悪いけど、数字が並んでいるだけなのに、読めない言語を突きつけられた気持ちだ。
びっくりして来た道を引き返し、そのまま反対方向の中古楽器ゾーンへと向かう。
「に、ににににひゃく――ッ!!」
新品よりも高い、尋常じゃない金額が目に飛び込んでくる。
「あぁ、それはヴィンテージってやつだね。ふふっ、中古なのにって顔だ?」
「は、はい……だ、だってボロボロですし……」
「そういう世界なのよねぇ。困った話さ。これはこの状態に価値があるんだ」
「へえ……」
信じられない。だけど彼女の声は、澄んだ色をしているから、たぶん嘘じゃないんだろうと感じた。
「気になったのはあった?」
「あっ、いえ……よくわからなくて……また改めて来ようかと……」
刺激が強すぎた。理解できないところに身を任せるには、私はあまりにも弱すぎる。
「うんうん、悩むのは大事だよ。いつでも来てね」
「ありがとうございました……」
頭を下げて、階段へと――
振り返ったときにふと目に入ったギター。
見たことがないカタチの、ぼてっとした……いや、ふっくらした……。
その刹那が、私にとっての新しい出会いだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
帰宅した私は、着替えもせずにベッドに飛び込んだ。
布団を頭まで被って、顔を枕にうずめる。
布の感触が思いのほか鮮明で、思った以上にはっきりしていて、 肌のどこが触れているのか、線を引かれたみたいにわかってしまう。
呼吸を止めれば心音が届くはずなのに、今日はその音が胸の内側から押し戻されて落ち着かない。柔らかいはずのあたりが、内側からそっと形を取り戻すみたいに、脈打つたび皮膚の裏をなぞってくる。
一定のはずのリズムは、胸を押しては引き、押しては引き、まるで、そこに確かに在るか確かめるみたいに、同じ地点を何度も往復する。そのあり方がやけに具体的で、私は今、自分の体を、内側から静かに意識させられていて、どうにも気持ちが定まらなかった。
あのとき感じた、泥のような、でも生きている色。
鉛のように重たく、輝いてもいない。
苦しくて呻いていたのか、居場所を求め声を枯らしたのか、その答えは得られていない。
頑張って踏み出した一歩では人生は変わらなかったけれど、心の隙間に住み着いたものが離れなくなった。
だから――
「あああぁぁぁぁぁぁ――――っ!!」
枕に顔を押しつけたまま、記憶にある限り一番大きな声で、叫んだ。
耐えていれば過ぎていくと考えていた。
我慢だけが私を守るものだと思っていた。
不自由な生存戦略は、私の欠落。
カサカサと乾いた砂嵐のような無彩色や、澱んだ灰色ばかりが溢れているのは、やっぱり苦しい。
みんながどんなものを見ているのかは知らない。それでも自分が普通じゃないことぐらい……理解できる。
「きれいなものを見るために生まれたんだね」とお父さんは言った。
それだけを信じ続けてきた。
だけど動かなければ、私はここに沈んでしまう。布団と一体化して、もう起き上がれない。




