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Sugarless SugarLady  作者: アベシ
第二章
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第5話

 姿見の前で、静かに息を止める。

 浅葱色の音が聞こえてきて、私は生きていると感じる。

 大切なルーティン。


 つい先日のことだ。

 はじめてライブに触れた。

 ――というより浴びたといったほうが正しいかもしれない。名状しがたい攻撃だった。音に殴られたのは、はじめての経験だった。見知らぬ人の叫びが、まぶたにこびりついた。


 その後は、よく覚えていない。我に返ると、行列のできるラーメン屋で味噌ラーメンをすすっていて、ラードに守られたスープの熱で舌を火傷していた。スバルちゃんは、興奮しながらBRLO(ブラリオ)について話していた。どんな音楽だったのか、申し訳ないけれど記憶にない。

 私がぼんやりしていたのに、スバルちゃんは気づいていたはずだけど、問われなかった。別れ際にチケット代とドリンク代を渡さなきゃと声をかけたのに、嬉しげに笑って「今度、メシ奢って」と残して去っていった。大切な友人の、大切な時間を邪魔しなかったかだけが、心配だ。


 ロックというものは、今もよくわからない。

 帰り道、体の内側だけが、置き去りにされた振動で揺れていた。熱に浮かされてふわふわで、いつも不安になる地下鉄の砂嵐が、あのときだけは映らなかった。衝撃が頭で反響していたから。

 遅くに帰ったことを、お母さんに怒られた。すっかり連絡を忘れていた無精を反省する。


 土曜日になっても、あの暴力的な音が離れてくれなかった。心の火照りが消えないまま。だから、外を走ると決めた。自分から運動しようなんて、もう何年かぶりだった。


 朝の冷え込みのせいで、いきなり帰りたくなったのは内緒だ。踏み固められた雪を蹴り、そのままアンパン道路へ入る。凍った粒が靴底に絡みつき、息はすぐ荒れた。

 道が途切れ、視界が広がって白石藻岩通に放り出される。流れの速い音もなんのその、頑張って進むうち、足取りに微かな重みが混じりはじめた。知らないうちに、高さを稼いでいたみたい。

 平岸高台公園が見えたところで、ようやく立ち止まる。肩が上下し、冷たい空気が肺を満たす。


 距離はたいしたものじゃない。それでも、ここまで来たんだって実感が、私の耳鳴りを抑えてくれた。

 そんな達成感とは裏腹に太ももはパンパンで、帰路は歩いた。

 そして、風邪を引いた。


 まさかの二日連続でお母さんに怒られた。「どうしたの?」と困惑もされた。己の体力を過信した愚か者と罵ってほしい。体育の成績は五段階評価で二。「特に努力を要する」とまで書かれたんだった。

 それで週末は潰れた。

 寝込んでいると、スバルちゃんから連絡がきた。

BRLO(ブラリオ)と撮ったやつ、送っとくね」

 送られてきた写真で、はじめてスバルちゃんの好きなバンドが女性三人組だと知った。きっとそれほど混乱していたんだろう。


 コートを羽織り、ポケットに手を入れるとそこには使われなかった耳栓があった。スバルちゃんに渡されたものだ。返さなきゃいけない。

 いつもどおりに玄関で挨拶を済ませて、家を出た。


 いっときの、まるで夢の中にいたかのような時間。もしくは大雪とか台風とか、束の間の荒天。過ぎ去ってしまえば、日常は戻る。それが望ましくないものであっても。

 地下鉄の砂嵐。灰色の視界。ドロドロに溶けた目の先には、やはりいい印象がない。

 たった一度では、何も変わらなかった。ライブハウスに行ったのは、別に正解じゃなかった。


 だけど、あの一瞬の衝撃を私はこれからずっと忘れない。

 ひどい色でパチーンと殴られたあの衝撃を。


「はぁ……寒いな」

 風邪は治ったけれど、このままじゃぶり返しそうだ。

 震える手をポケットに押し込んで、前を向いた。

「――――?」

 目を見開く。


「あ、あれ……」


 はじめて訪れたライブハウスがある、拾壱号ビルの傍に立っていた。

 登校中――と思っていたのは自分だけで、体の動きが脳を裏切る状況に……いや、そんなことを考えている場合じゃない。

 どうして? 考え事をしていたって、わざわざこんなところに来るだろうか。

 遅刻してしまう。慌てて振り返った。


「うちは、こんな朝っぱらからやってないよ」

「うひゃあぁっ!?」


 背後からの声に驚き、つんのめりながら走り出した。

 誰に話しかけられたのか、確認もせずに。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 今日は色々と上手くいかなかった。

 ……それはいつもか。


 スバルちゃんに連絡をしたけれど、バイトがあるから会えないらしい。

 仕方がないので、まっすぐ帰ろう――そう考えていたのに、改札の前で足が止まった。

 まだ帰りたくないと、言っているようだ。


「ちょっと歩こう……」


 早めに家に戻って、少し休もう。そのほうがいい。朝のことは忘れなくちゃいけないのに、自然と地上へのぼる階段へと歩き出していた。朝に風邪がぶり返しそうだなんて言っておきながら、この矛盾。学生ってそういう生き物だ。


 寒さに耐えながら、大通から歩いて五分ぐらい。風に押されるまま地上を抜け、友達とよく行くハンバーグチェーンを越えたあたりで、天井のある街に放り込まれる。

 狸小路は、一本の長い屋根付き通路だ。東から西へ、だらだらと伸びていて、天候だけは平等に遮断してくれる。冬の札幌では、それだけで理由になる場所だ。


 ネオン、呼び込み、古い看板と新しいチェーン店。全部が等しく飛び込んできて、整理されず流れていく。

 ひとつひとつのウルサイは、だけど色がばらけていて重ならない。音は白く固まらず、赤や黄の欠片になって、視界の端でほどけて消える。私は、その散り方に紛れて、少しだけ息を通した。


 無意識に三丁目のほうへ足が向く。ここから狸小路の終わりまで歩いたら、何分ぐらいかかるんだろう?

 そう考えながら踏み出すと、コンクリート打ちっぱなしのお店が目に留まる。壁面いっぱいに、店名が重たく載っていた。『SAKURA』楽器&レコード店と。


「楽器……」

 今まで気にしていなかったけれど、こんなところにそんなお店があったんだ。

 高校に上がるまでに音楽の授業で扱ったのは、リコーダーと鍵盤ハーモニカ。吹奏楽部の同級生が持っていたトランペットを近くで見たぐらい。歌も聴かないから、CDやレコードとは無縁だし……知らないのも無理はない……ハンバーグチェーンと同じビルなので、私の注意力が皆無だっただけか。


 漏れてくる曲が、誰のものなのかは知らない。

 通り過ぎてもよかったけど、好奇心に負けて店内へと進んでいた。


 自動ドアが開くと、ボリュームがぐっと上がる。騒音ではないけれど、無節操にたくさんの色が見えるのがちょっと嫌だ。

 一階はCDやミュージック系雑誌を取り扱っている。小走りでそこを抜けて、階段を下った。

 地下の入口には豪華なドラムセットのディスプレイがあって、右にも左にもずらりと楽器が展示されている。黒い天井から、細い光がまっすぐ降りてきて、その輪郭を強調している。

 種類もたくさん。こんなに近くにあるのが、ほんのちょっといい気分。上と違って静かだ。


「いらっしゃい」

「あ、どうも……」


 当然といえば当然だけど、店員さんに声をかけられた。すらりと背の高い女性だ。


「駅向こうの制服だねぇ、ギターやるの? ベース?」

「いえ、その……やったことはなくって……」

「ほう! ほうほうほう!」

 お姉さんは嬉しそうに目を輝かせる。


「それと……お金はなくて。その……値段を……」

「ああ、そういう! うんうん、いいね、学生ちゃん! うちは品揃えだけなら、ヨソにも負けないからさ! あっ、こっち側が新品で、あっちが中古。新品列の前に初心者用セットがあるよ! 楽しんでいってね~」

「ありがとうございます」


 店員さんが奥のほうに消えていくのを確認する。

 咄嗟に嘘をついてしまった。覗きに来たのは本当。でも値段なんて――想像すらつかないし。

 ああいった手前、このまま去るわけにも行かない。

 ええっと左側が新品。

 確かに「エントリーモデル」と書かれた札がかけられたギターが並んでいる。


 ギターだけじゃなく、必要そうなものが最初からまとまっていて、この値段。数字を追っているうちに、背中の力が少し抜けた。

 自慢じゃないけれど、私は毎月のお小遣いをちょっとずつ貯めている。それと一度も使っていないお年玉がたっぷりある。この程度なら何本も買える。――そこまで本数は必要ないと思うけど。


 せっかくなので、その列の間にできた細い通路へ足を踏み入れる。左右の壁いっぱいに吊るされたギターに挟まれながら、ゆっくり奥へ進んでいった。

 まったくの素人だってわかる。エントリーモデルと書かれたものとは違う。理由は説明できない。きれいというか、整っているというか……。


「きゅうじゅ――ッ!?」


 軽い気持ちで見たギターの価格は、とんでもなかった。私の貯金では到底太刀打ちできない強さだ。九万円の間違い……ではないみたい。その他も軒並み何十万円、特殊なディスプレイで展示されているものに至っては、桁がもうひとつ多い。隙だらけで乗り込んだ自分が悪いけど、数字が並んでいるだけなのに、読めない言語を突きつけられた気持ちだ。

 びっくりして来た道を引き返し、そのまま反対方向の中古楽器ゾーンへと向かう。


「に、ににににひゃく――ッ!!」

 新品よりも高い、尋常じゃない金額が目に飛び込んでくる。


「あぁ、それはヴィンテージってやつだね。ふふっ、中古なのにって顔だ?」

「は、はい……だ、だってボロボロですし……」

「そういう世界なのよねぇ。困った話さ。これはこの状態に価値があるんだ」

「へえ……」


 信じられない。だけど彼女の声は、澄んだ色をしているから、たぶん嘘じゃないんだろうと感じた。


「気になったのはあった?」

「あっ、いえ……よくわからなくて……また改めて来ようかと……」


 刺激が強すぎた。理解できないところに身を任せるには、私はあまりにも弱すぎる。


「うんうん、悩むのは大事だよ。いつでも来てね」

「ありがとうございました……」

 頭を下げて、階段へと――


 振り返ったときにふと目に入ったギター。

 見たことがないカタチの、ぼてっとした……いや、ふっくらした……。

 その刹那が、私にとっての新しい出会いだった。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 帰宅した私は、着替えもせずにベッドに飛び込んだ。

 布団を頭まで被って、顔を枕にうずめる。

 布の感触が思いのほか鮮明で、思った以上にはっきりしていて、 肌のどこが触れているのか、線を引かれたみたいにわかってしまう。


 呼吸を止めれば心音が届くはずなのに、今日はその音が胸の内側から押し戻されて落ち着かない。柔らかいはずのあたりが、内側からそっと形を取り戻すみたいに、脈打つたび皮膚の裏をなぞってくる。

 一定のはずのリズムは、胸を押しては引き、押しては引き、まるで、そこに確かに在るか確かめるみたいに、同じ地点を何度も往復する。そのあり方がやけに具体的で、私は今、自分の体を、内側から静かに意識させられていて、どうにも気持ちが定まらなかった。


 あのとき感じた、泥のような、でも生きている色。

 鉛のように重たく、輝いてもいない。

 苦しくて呻いていたのか、居場所を求め声を枯らしたのか、その答えは得られていない。

 頑張って踏み出した一歩では人生は変わらなかったけれど、心の隙間に住み着いたものが離れなくなった。

 だから――


「あああぁぁぁぁぁぁ――――っ!!」


 枕に顔を押しつけたまま、記憶にある限り一番大きな声で、叫んだ。

 耐えていれば過ぎていくと考えていた。

 我慢だけが私を守るものだと思っていた。


 不自由な生存戦略は、私の欠落。

 カサカサと乾いた砂嵐のような無彩色や、澱んだ灰色ばかりが溢れているのは、やっぱり苦しい。

 みんながどんなものを見ているのかは知らない。それでも自分が普通じゃないことぐらい……理解できる。


「きれいなものを見るために生まれたんだね」とお父さんは言った。


 それだけを信じ続けてきた。


 だけど動かなければ、私はここに沈んでしまう。布団と一体化して、もう起き上がれない。


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