第4話
「――っ」
重たい鉄の扉が動いた瞬間、音を拾うよりも先に、歪んだ気圧が私の耳の奥を重く圧し潰した。
空気が、違う。
閉じ込められていた熱が溢れ出して、冷え切った廊下へ、どろりと濃度の高い何かがなだれ込んでくる。突然、喧騒から切り離されたせいか、妙にまわりが暗い。
はじめて訪れたライブハウス。
境界線をまたいだ私の目の前を、大きなギターらしきものを握ったひとりの男性が通り過ぎていった。今度は明らかにわかる煙草の匂い。
「バーカンは右ね。ドリンク注文できるよ」
「ありがとうございます」
スバルちゃんから、ドリンクチケットを受け取る。バーカンがどういう意味かは知らないけれど。
周囲を見回すが、狭い通路には人がまばら。くすんで黄ばんだ壁には、無数のチラシが重なり合って、無造作に貼られている。
不思議な空間だ。
「演奏が聞こえてきません。まだなんですか?」
「そ。これから。ま、やってたとしてもそんな音漏れしないけど。せっかくだし入っちゃう?」
「スバルちゃんが話してた、エグい? バンドはまだなんですか?」
「BRLOはトリ。四バンドだから、二時間後ぐらいかな」
「二時間……」
「BRLOはまあ、ワンマンやるバンドだし、小さいイベント出んの珍しいんだ。ちょっとしたらフロアが一気に埋まるぞー」
なるほど、と頷いて、再びあたりに目を向けた。
思っていたよりも、ノイズはない。灰色に澱んだ視界だけが、不安だ。
「無理すんなよー?」
「大丈夫です」
「不安そうな顔してんの」
「そ、それは……」
「駄目なら言うこと。これ約束」
「はい……」
場違いになってしまっているだろうか。スバルちゃんはきっとそんなことは言わないだろうけど。そういう優しさに甘えるのは、本意ではない。
「ドリンクいらん? じゃ、入ろ。先にいいとこ――いや、ドア付近にしとくか」
「は、はあ……」
スバルちゃんが重そうなドアを開いて、暗がりに消えていく。慌てて私はそのあとに続いた。
そこは奥へ奥へと続く、真っ黒な空洞。天井も、壁も、床も。黒で塗りつぶされていた。どこまで続いているのかを錯覚するほどの、縦に細長い場所だ。その一番奥にあるステージが唯一、ぼんやりとライトに照らされて浮かんでいる。
一〇人ほどの人影が、床にへばりついて沈黙している。誰も喋らない。広すぎる闇に点々としていて、間の抜けた配置が、余計に無彩色を際立たせていた。
靴底が、ぺたり、と床に吸いつく。
誰かがこぼしたジュースかお酒が乾いて、そのまま貼りついている。何層にもなったそのベタつく感触が、足の裏から伝わってきて、背中がぞわっとした。
逃げ場のない密閉感。古いカビと埃、焦げた匂いが染み付いた空気は、肺の奥に垂れ下がる古布のように重い。
怖くて、頼りなくて、私は無意識に、スバルちゃんの服の袖を指先で強く摘んでいた。そうしていないと、この黒い沼に飲み込まれてしまいそうだった。
音はない。ただステージの両脇を固める巨大な塊が、私を押し潰そうとする重量感を持って、ただそこに鎮座している。
――ステージの明かりが、静かに細くなる。
「お、始まるね」
スバルちゃんの言葉に、私はじっと前に意識を向けた。
自分が歌うわけじゃない。自分が注目されたわけでもない。なのに、心臓が、肋骨の裏側を何度も強く叩いている。呼吸のリズムが、それに引きずられて乱れていた。
「あれ……?」
暗幕の向こうから、さっきすれ違った男性が出てきた。あのとき手に持っていたギターを、今は肩からさげている。
ステージを横切った男性は、私たちから見て右手に積み上がった黒い箱の前に立つと、肩から垂れた細い線を、ためらいもなく差し込んだ。
立ったまま、流れるような動き。
その仕草だけで、胸の奥が、ひやりとした。
男性は振り返らない。
マイクにも触れない。
ただ、ステージの中央へ戻り、足を止める。
照明が強くなって、顔の輪郭が白く抜けた。目は、こちらを捉えている。というより――数えられている。ううん、値踏みされる感覚。
ちらりとステージを見た拍子に、壁にもたれかかって俯いている人影が認識の端を横切った。別の端では、手元だけが小さく光っている。色々だ。
たぶん私たちより年齢の低い観客はいない。
制服姿で来るものじゃないのかもしれない。
「あれ店長じゃね」
「店長……」
私たちを隔てる鉄パイプの、その上のステージにいた男性が、にやりと笑った。
嫌な予感が、遅れてやってくる。
呼吸を止めたその一瞬で、私の退路は完全に断たれていた。
男性が、ギターに、ほんの少し触れ――
キィィン――――
「うぅ……っ!?」
耳を突き抜けたのは、頭の芯まで串刺しにする鋭利な高音だった。
鋭い一本の何かが、脳の中心に突き立てられたような――不快感。まぶたの裏が明るく弾けて、足元がぐらりと揺れる。
ううん、音、じゃない。
こんなもの、聞いたことがない。
「あはー、エグいハウってんじゃん」
声が遠い。
いつの間にか、指先で摘んでいたはずのスバルちゃんの制服を、ぎゅっと握り込んでいた。
――そのステージの主が、大きくギターを掻き鳴らし、マイクに向かって声を張り上げた。
叫びだ。でも声じゃない。警報だ。でも意味がない。
これが音楽――ロックだっていうのなら、私はやっぱり爆発するかもしれない。
わからない。
胸が苦しい。
息が浅くなる。
心臓がウルサイ。
わからない。
怖くて、怖くて、怖くて――
逃げろと脳が叫んでいるのに、足が床に縫い付けられ、眼球までもがその場に固定されていた。
隣にいるはずのスバルちゃんの気配が、急に遠くなる。今、話しかけられた――なのにそれを言葉として受け入れられない。全部、あの鋭さに削り取られてしまう。
男性が、こちらを睨みつけていた。
表情までは不明だ。暗くて、ライトが眩しくて、姿さえも曖昧だ。
だけど、その目だけが、はっきりしていた。
この視界には、いっぱいの無遠慮が溢れている。他人の声。雑踏。耳障りの良い言葉とか。中身のない称賛や、当たり障りのない励まし、心無い優しさ。どれも色を持たない砂嵐で、いつも輪郭がぼやけている。
たぶん、意味のあるものじゃない。
全部、灰色。
そんな世界にいるのが怖くて、私は息を潜める。迎合するみたいに、灰色に溶け込む。
でも――
響き渡るノイズは、とてつもない力で私からまばたきさえ奪い去った。
冷たい温度に染まった眺めを、大きな音が埋め尽くす。
何を歌っているのか、何が鳴っているのか。
わからない。
でも、全部をひっくるめて、こう言っている。
「なあ、世界。俺は――ここにいる!」
地下深くの、他人の叫びが、私の頭の奥を容赦なく揺さぶった。
床にこぼれた甘い香りと、壁に染みた煙草の匂い。積み重なった夜の痕跡すべてが、その声で吹き飛んだ。
苦しいけれど、理解できないけれど、悲鳴にも似た音だけが届いていた。
その人はまるで、もう輝きを失ったところにいて、最後の声を上げた――
灰色を塗り替えるのは、鉛色の断末魔。
「来い」と呼びかけられた気がした。
「来るな」と拒絶された気がした。
私の知らない世界。灰色じゃない世界。
そんなものに、突然、殴られた。
そうだ。
私が初めて見た色は、だれかの衝撃だった。




