第3話
「アヤちゃん、お疲れさま」
委員会の仕事が終わり、教室に戻る途中で声をかけられた。
呼びかけに応えて顔を上げた瞬間、彼女の髪からこぼれた、きちんと手入れの行き届いた香りが近くにあって、胸の奥が静かにほどける。
「イブキ先輩、お疲れさまです」
「今日はちょっと眠そうだったね? アヤちゃん」
緩くウェーブがかかったロングヘア、柔和な表情、何より彼女の声は、澄んでいるのに冷たくなくて、柔らかい布を一枚挟んだ向こうから呼ばれているみたいな――私が落ち着くトーンで、知らず廊下のざわめきが薄まるのを感じた。
澄川依風希――私のふたつ上の先輩だ。同じ委員会に所属していて、入学後から今に至るまでとてもお世話になっている。
「寝不足で……」
「クマできちゃってるよ?」
背の高いイブキ先輩が、私の長い前髪を指先でそっと掻き分け、少し身を屈めた。覗き込まれた距離が近すぎて、胸がふいに高鳴る。
額に触れた温もりが、爪先までじんわりと広がる。
目を逸らそうとするのに、先輩の潤んだ瞳が下からじっと私を追い、体まで支配されそうだ。呼吸が微かに早くなり、全身が勝手に意識を引き寄せられている。こんなに近くにいるだけで、心が落ち着かず揺さぶられた。
「き、昨日、遅くまで起きてて……」
「可愛い顔が台無しね」
「ごめんなさい」
謝る流れで、ようやく視線を外した。この心地よい距離感は、尻込みするには充分すぎた。
イブキ先輩は、どうしてか私にかまってくれる。優しくて頼りになるし、私としては嬉しい限りだけれど、こんな美人な人を前にすると緊張もひとしおだ。
「謝らないでいいんだよ。けど意外。アヤちゃんも夜更かしするのね」
「は、はい……その、た、たまにですけど……」
「それくらいなら、温かいタオルで覆えばすぐ消えるかな。あまり肌に良くないことはしちゃ駄目だよ」
「髪で隠せば……なんとかなるかなって……」
「ふふっ、でも私には気づかれちゃったね?」
思いがけない笑みに、きちんと答えられなかった。たぶん……その表情は、ただの後輩に向けていいものじゃない。
「いい? アヤちゃんはちゃんと可愛いんだから、自分をもっと大切にするように、ね?」
「はい……」
「それじゃね」
「お疲れさまでした」
くるりと踵を返したイブキ先輩が、遠ざかっていく。
穏やかな余韻を残して。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
一昨日はお母さんの帰りが早かったので、ふたりでお蕎麦を食べた。
昨日から残業だと漏らしていたので、今日もきっと帰りは遅い。そうなると早く帰ってもひとりぼっちだ。とはいえ、雑踏の中を練り歩くのは、私には厳しい。せめてスバルちゃんが纏う強い色がないと――ううん、そんなフィルターみたいに例えちゃ駄目だ。
そんなことを考えながら学校を出ると、目の前に彼女がいるのが見えた。
そういえば、一緒にすすきのに行ってライブハウスを覗いたとき、「へえ、金曜のライブに行きたい」と呟いていた。ここで声をかけないほうがいいかもしれない。
ためらいが先に立ち、踏み出す足を迷わせ――
「アヤ?」
――た。その瞬間、予兆もなく、スバルちゃんが振り向く。
「なに、どしたん?」
「う、ううん……なんでもないです。お疲れさまです、スバルちゃん」
「はいはい、お疲れ。今、帰り? 委員会あった?」
「ありました。これから帰るつもりでした」
「ふーん、アタシはこれからライブ。BRLO出んだって。あれ、言ったっけ? BRLOってインディーロックのニュークイーンって呼ばれてんのさ。ビジュもエグいんだけど、演奏がガチ気合入ってるし」
「エグ……? ガチ……?」
内容や意味は通じたが、ぐんと速度の上がった会話に置いていかれた。
「BRLO知らん?」
「スバルちゃんから聞きました」
「あはー! 変なこと口にすんなよー!」
バシ、と肩を叩かれた。
「でもアヤ、うるさいの無理くない? じゃ、ひとりで行くかー」
「……えっと? あれ? 今、私誘われていましたか?」
「ん? そりゃそうでしょー。アヤは変な奴だなぁ」
この会話の中で、一緒に行こうというワードは出てきただろうか。それとも失礼にも聞き逃しただろうか?
下校の波は痛々しい雑音だ。目がチカチカする。大事な言葉が届かないなんて、ほんと情けない。
「や、誘ってなかったわ。BRLOエグいって話だけだわ」
誘われてなかった! 誘われてなかったのに自分を省みてしまった!
「ライブハウスうるさいよ? ワンチャン来る?」
「その……」
私は音楽を聴かない。小さい頃のことは覚えていないけれど、今はもうまったく。ストリーミングサービスなんてスマートフォンに入れてないし、テレビも見ないから流行には乗れていない自信がある。スバルちゃんが語っていたパンクとロックの違いも知らない。――そうだ。高校では、それが選択科目だった。それは、進学してよかった理由のひとつだ。
きれいと称される旋律は、確かに美しく映るタイミングがある。けれど、望まない形で目に飛び込む情報は、とにかく苦しいのだ。
「渋い顔してんなー、アヤ。無理に来いって言わんってー」
「はい……けど、その……」
「ん?」
「ほんのちょっとだけ興味はあります」
「…………」
スバルちゃんは驚きに目を丸くする。
私の自己主張がそんなにおかしかっただろうか。音楽を聴かないと知っていたから、変な発言だと受け取られた?
難しい。
もし踏み込みすぎたのだとしたら、謝らなきゃいけない。
「す、スバルちゃん……」
「なんだよー! それならそうってさー! なー?」
眩しいぐらいに破顔して、何度も体をぶつけてくる。
「なーんかおかしいって思ったんだよー。今日のアヤ、いつも以上にキョドってたし。てか、好きじゃないのに行ってみたいって、どういう風の吹き回しだー? いいことあったかー?」
「いつも以上……?」
「目覚めちまったな、ロックによ」
「は?」
スバルちゃんのテンションが一段と上がったけれど、そうまでさせた理由は不明だ。少し関心があると告げただけで、果たしてこうまでなるだろうか?
「でもガチうるさいよ、ライブハウス。狭いし。FRONTって音響設備はいいけどさ。あとBRLO出るから、ぎゅうぎゅうになるかも。それでも?」
私は――ぽっかりと空いたフローリングの空白を埋める何かがほしい、そう考えている。
灰色の日常を、まぶたにざらつく砂嵐を、塗り替える何かがほしい、そう思っている。
でも窮屈だから。あやふやな境界にいるのは、苦しくなるから。
ライブハウスに行くのが正解かは、どうだっていい。もしかすると衝撃で頭がおかしくなるかもしれない。頭が弾けて爆発するかもしれない。……それでもいい。何もない灰色に塗りつぶされて窒息するくらいなら、いっそひどい色で滅茶苦茶にされたほうがマシだ。それは怖いけれど、踏み込んでみなければ先へは進めない。
これが間違いだったら、今のうちに未来の私にごめん、とだけお詫びしておこう。
だから、自信はないけどスバルちゃんの問いかけに頷いた。
「ほーんと、どしたん? ま、いっか。こっからだと一時間ぐらいかかるけど、どする? や、歩くかー。どうせまだライブハウス開いてないし。あ、これライブ用の耳栓ね。新品未開封。ナイスでしょ? ヤバかったらこれつけて、外出なね」
「……ありがとうございます、スバルちゃん」
「えー? 何さ? そんな遠慮すんなよー。アヤはいい子ちゃんだなー」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
委員会の仕事があったから、いつもより少し遅い時間。もう日は沈み、街灯が灯っている。
大通を越えたあたりで、視界がざわつき始めた。均されていた明るさが崩れて、それぞれ勝手な方向に伸びている。目を動かすたび、追いつくはずの像が遅れ、足元と視線が微妙にずれて疲れる。
舗道には僅かな雪。角が立ち、踏むたびに短い音を返す。その振動が、靴底から脛、膝の裏へと伝わり、途中で途切れずに残った。息を外へ出そうとすると、途中で引っかかる。吐いたはずのものが戻ってくる感覚に、肩が自然と上がる。
人の密度が増し、空間が突如として窮屈になる。笑い声や呼び込みが、言葉になる前の塊でぶつかってきて、耳の奥に沈殿した。私は無意識に前を見る。横を向いたら、視界が剥がれ落ちる錯覚に陥ったからだ。
すすきのは、立ち止まるのを想定していない歓楽街だ。流れに乗ったまま通過しなければ、身体のほうが置いていかれる。さまよいながらも、私はまだ知らない入口を探していた。
「やっぱさみーねぇ」
「……ごめんなさい」
「なんで謝んの。やめなー」
こんな季節、路上の吹きさらしに挑むのは、おすすめされない。
だって、札幌駅からすすきのへは地下道で繋がっているんだ。冬の札幌における正解は、大通までは『チ・カ・ホ』で、そのまま『ポールタウン』を進むことだ。少なくとも今よりは寒さをしのげる。
でも、あの閉ざされた箱の中で反響する無数の足音や空調の唸りは、私の脳内で混ざり合い、逃げ場のない泥水になって視界を濁らせる。それなら同じ「ウルサイ」でも地上のほうがいい。つらい冷気――ビル風が頬を切りつけ、思考を凍らせていくけれど、余計な色が混ざらないぶんだけ救いがあった。
スバルちゃんは、私が地下を嫌っていると察している。それを駄目だと言ってはない。だから何となく感づいているんじゃないかな。文句ひとつこぼさず、付き合ってくれる寛大さに申し訳なさを覚えつつも、意に介した素振りをみせない姿には驚きを禁じ得ない。聖人君子。
「そろそろじゃね?」
「そうですね」
学校から一時間近く、ようやく辿り着いた国道三六号線。
交差点の頭上では、あの有名な髭の紳士が、鮮烈なネオンを背負って夜を眺めている。その足元を流れるヘッドライトの川は、暴力的なまでの輝度で網膜を焼いた。じわじわと灰に染まる。
私たちはその輝きの濁流を泳ぎ、さらに南へと下っていく。
目指す雑居ビルは、賑やかな色が少しずつ澱み始めた、通りの外れにあった。
口を開けた地下への階段は、まるで光が届かない深い井戸だ。一段降りるごとに、札幌の強い乾きが湿り気を帯びる。埃と、何かが焦げたような古びた匂い。これは煙草だろうか? あまりよくわからない。あの日、スバルちゃんと降りたときは警戒心と緊張ばかりで、記憶していなかった。
「着いたー! お疲れ、アヤ。――って鼻赤すぎじゃん」
「はい……」
「後悔してる顔だ」
「かもしれません」
「チケ取り置きだから。ワンドリンク適当に頼んじゃって。もう開演だし、入っちゃお」
「えっ、あ、チケ……チケット代は――」
私が返答するより早く、スバルちゃんが金色のドアハンドルを握り込む。
そして――
黒ずんだ重たい鉄の扉が、飲み込んでいた明かりをさらした。




