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Sugarless SugarLady  作者: アベシ
第一章
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第3話

「アヤちゃん、お疲れさま」


 委員会の仕事が終わり、教室に戻る途中で声をかけられた。

 呼びかけに応えて顔を上げた瞬間、彼女の髪からこぼれた、きちんと手入れの行き届いた香りが近くにあって、胸の奥が静かにほどける。


「イブキ先輩、お疲れさまです」

「今日はちょっと眠そうだったね? アヤちゃん」


 緩くウェーブがかかったロングヘア、柔和な表情、何より彼女の声は、澄んでいるのに冷たくなくて、柔らかい布を一枚挟んだ向こうから呼ばれているみたいな――私が落ち着くトーンで、知らず廊下のざわめきが薄まるのを感じた。

 澄川(すみかわ)依風希(いぶき)――私のふたつ上の先輩だ。同じ委員会に所属していて、入学後から今に至るまでとてもお世話になっている。


「寝不足で……」

「クマできちゃってるよ?」


 背の高いイブキ先輩が、私の長い前髪を指先でそっと掻き分け、少し身を屈めた。覗き込まれた距離が近すぎて、胸がふいに高鳴る。

 額に触れた温もりが、爪先までじんわりと広がる。

 目を逸らそうとするのに、先輩の潤んだ瞳が下からじっと私を追い、体まで支配されそうだ。呼吸が微かに早くなり、全身が勝手に意識を引き寄せられている。こんなに近くにいるだけで、心が落ち着かず揺さぶられた。


「き、昨日、遅くまで起きてて……」

「可愛い顔が台無しね」

「ごめんなさい」


 謝る流れで、ようやく視線を外した。この心地よい距離感は、尻込みするには充分すぎた。

 イブキ先輩は、どうしてか私にかまってくれる。優しくて頼りになるし、私としては嬉しい限りだけれど、こんな美人な人を前にすると緊張もひとしおだ。


「謝らないでいいんだよ。けど意外。アヤちゃんも夜更かしするのね」

「は、はい……その、た、たまにですけど……」

「それくらいなら、温かいタオルで覆えばすぐ消えるかな。あまり肌に良くないことはしちゃ駄目だよ」

「髪で隠せば……なんとかなるかなって……」

「ふふっ、でも私には気づかれちゃったね?」


 思いがけない笑みに、きちんと答えられなかった。たぶん……その表情は、ただの後輩に向けていいものじゃない。


「いい? アヤちゃんはちゃんと可愛いんだから、自分をもっと大切にするように、ね?」

「はい……」

「それじゃね」

「お疲れさまでした」


 くるりと踵を返したイブキ先輩が、遠ざかっていく。

 穏やかな余韻を残して。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 一昨日はお母さんの帰りが早かったので、ふたりでお蕎麦を食べた。

 昨日から残業だと漏らしていたので、今日もきっと帰りは遅い。そうなると早く帰ってもひとりぼっちだ。とはいえ、雑踏の中を練り歩くのは、私には厳しい。せめてスバルちゃんが纏う強い色がないと――ううん、そんなフィルターみたいに例えちゃ駄目だ。


 そんなことを考えながら学校を出ると、目の前に彼女がいるのが見えた。

 そういえば、一緒にすすきのに行ってライブハウスを覗いたとき、「へえ、金曜のライブに行きたい」と呟いていた。ここで声をかけないほうがいいかもしれない。

 ためらいが先に立ち、踏み出す足を迷わせ――


「アヤ?」


 ――た。その瞬間、予兆もなく、スバルちゃんが振り向く。


「なに、どしたん?」

「う、ううん……なんでもないです。お疲れさまです、スバルちゃん」

「はいはい、お疲れ。今、帰り? 委員会あった?」

「ありました。これから帰るつもりでした」

「ふーん、アタシはこれからライブ。BRLO(ブラリオ)出んだって。あれ、言ったっけ? BRLO(ブラリオ)ってインディーロックのニュークイーンって呼ばれてんのさ。ビジュもエグいんだけど、演奏がガチ気合入ってるし」

「エグ……? ガチ……?」


 内容や意味は通じたが、ぐんと速度の上がった会話に置いていかれた。


BRLO(ブラリオ)知らん?」

「スバルちゃんから聞きました」

「あはー! 変なこと口にすんなよー!」


 バシ、と肩を叩かれた。


「でもアヤ、うるさいの無理くない? じゃ、ひとりで行くかー」

「……えっと? あれ? 今、私誘われていましたか?」

「ん? そりゃそうでしょー。アヤは変な奴だなぁ」


 この会話の中で、一緒に行こうというワードは出てきただろうか。それとも失礼にも聞き逃しただろうか?

 下校の波は痛々しい雑音だ。目がチカチカする。大事な言葉が届かないなんて、ほんと情けない。


「や、誘ってなかったわ。BRLO(ブラリオ)エグいって話だけだわ」


 誘われてなかった! 誘われてなかったのに自分を省みてしまった!


「ライブハウスうるさいよ? ワンチャン来る?」

「その……」


 私は音楽を聴かない。小さい頃のことは覚えていないけれど、今はもうまったく。ストリーミングサービスなんてスマートフォンに入れてないし、テレビも見ないから流行には乗れていない自信がある。スバルちゃんが語っていたパンクとロックの違いも知らない。――そうだ。高校では、それが選択科目だった。それは、進学してよかった理由のひとつだ。

 きれいと称される旋律は、確かに美しく映るタイミングがある。けれど、望まない形で目に飛び込む情報は、とにかく苦しいのだ。


「渋い顔してんなー、アヤ。無理に来いって言わんってー」

「はい……けど、その……」

「ん?」

「ほんのちょっとだけ興味はあります」

「…………」


 スバルちゃんは驚きに目を丸くする。

 私の自己主張がそんなにおかしかっただろうか。音楽を聴かないと知っていたから、変な発言だと受け取られた?

 難しい。

 もし踏み込みすぎたのだとしたら、謝らなきゃいけない。


「す、スバルちゃん……」

「なんだよー! それならそうってさー! なー?」


 眩しいぐらいに破顔して、何度も体をぶつけてくる。


「なーんかおかしいって思ったんだよー。今日のアヤ、いつも以上にキョドってたし。てか、好きじゃないのに行ってみたいって、どういう風の吹き回しだー? いいことあったかー?」

「いつも以上……?」

「目覚めちまったな、ロックによ」

「は?」


 スバルちゃんのテンションが一段と上がったけれど、そうまでさせた理由は不明だ。少し関心があると告げただけで、果たしてこうまでなるだろうか?


「でもガチうるさいよ、ライブハウス。狭いし。FRONTって音響設備はいいけどさ。あとBRLO(ブラリオ)出るから、ぎゅうぎゅうになるかも。それでも?」


 私は――ぽっかりと空いたフローリングの空白を埋める何かがほしい、そう考えている。

 灰色の日常を、まぶたにざらつく砂嵐を、塗り替える何かがほしい、そう思っている。

 でも窮屈だから。あやふやな境界にいるのは、苦しくなるから。

 ライブハウスに行くのが正解かは、どうだっていい。もしかすると衝撃で頭がおかしくなるかもしれない。頭が弾けて爆発するかもしれない。……それでもいい。何もない灰色に塗りつぶされて窒息するくらいなら、いっそひどい色で滅茶苦茶にされたほうがマシだ。それは怖いけれど、踏み込んでみなければ先へは進めない。


 これが間違いだったら、今のうちに未来の私にごめん、とだけお詫びしておこう。

 だから、自信はないけどスバルちゃんの問いかけに頷いた。


「ほーんと、どしたん? ま、いっか。こっからだと一時間ぐらいかかるけど、どする? や、歩くかー。どうせまだライブハウス開いてないし。あ、これライブ用の耳栓ね。新品未開封。ナイスでしょ? ヤバかったらこれつけて、外出なね」

「……ありがとうございます、スバルちゃん」

「えー? 何さ? そんな遠慮すんなよー。アヤはいい子ちゃんだなー」



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 委員会の仕事があったから、いつもより少し遅い時間。もう日は沈み、街灯が灯っている。

 大通を越えたあたりで、視界がざわつき始めた。均されていた明るさが崩れて、それぞれ勝手な方向に伸びている。目を動かすたび、追いつくはずの像が遅れ、足元と視線が微妙にずれて疲れる。


 舗道には僅かな雪。角が立ち、踏むたびに短い音を返す。その振動が、靴底から脛、膝の裏へと伝わり、途中で途切れずに残った。息を外へ出そうとすると、途中で引っかかる。吐いたはずのものが戻ってくる感覚に、肩が自然と上がる。

 人の密度が増し、空間が突如として窮屈になる。笑い声や呼び込みが、言葉になる前の塊でぶつかってきて、耳の奥に沈殿した。私は無意識に前を見る。横を向いたら、視界が剥がれ落ちる錯覚に陥ったからだ。


 すすきのは、立ち止まるのを想定していない歓楽街だ。流れに乗ったまま通過しなければ、身体のほうが置いていかれる。さまよいながらも、私はまだ知らない入口を探していた。


「やっぱさみーねぇ」

「……ごめんなさい」

「なんで謝んの。やめなー」


 こんな季節、路上の吹きさらしに挑むのは、おすすめされない。

 だって、札幌駅からすすきのへは地下道で繋がっているんだ。冬の札幌における正解は、大通までは『チ・カ・ホ』で、そのまま『ポールタウン』を進むことだ。少なくとも今よりは寒さをしのげる。

 でも、あの閉ざされた箱の中で反響する無数の足音や空調の唸りは、私の脳内で混ざり合い、逃げ場のない泥水になって視界を濁らせる。それなら同じ「ウルサイ」でも地上のほうがいい。つらい冷気――ビル風が頬を切りつけ、思考を凍らせていくけれど、余計な色が混ざらないぶんだけ救いがあった。


 スバルちゃんは、私が地下を嫌っていると察している。それを駄目だと言ってはない。だから何となく感づいているんじゃないかな。文句ひとつこぼさず、付き合ってくれる寛大さに申し訳なさを覚えつつも、意に介した素振りをみせない姿には驚きを禁じ得ない。聖人君子。


「そろそろじゃね?」

「そうですね」


 学校から一時間近く、ようやく辿り着いた国道三六号線(サブロク)

 交差点の頭上では、あの有名な髭の紳士が、鮮烈なネオンを背負って夜を眺めている。その足元を流れるヘッドライトの川は、暴力的なまでの輝度で網膜を焼いた。じわじわと灰に染まる。


 私たちはその輝きの濁流を泳ぎ、さらに南へと下っていく。

 目指す雑居ビルは、賑やかな色が少しずつ澱み始めた、通りの外れにあった。

 口を開けた地下への階段は、まるで光が届かない深い井戸だ。一段降りるごとに、札幌の強い乾きが湿り気を帯びる。埃と、何かが焦げたような古びた匂い。これは煙草だろうか? あまりよくわからない。あの日、スバルちゃんと降りたときは警戒心と緊張ばかりで、記憶していなかった。


「着いたー! お疲れ、アヤ。――って鼻赤すぎじゃん」

「はい……」

「後悔してる顔だ」

「かもしれません」

「チケ取り置きだから。ワンドリンク適当に頼んじゃって。もう開演だし、入っちゃお」

「えっ、あ、チケ……チケット代は――」


 私が返答するより早く、スバルちゃんが金色のドアハンドルを握り込む。

 そして――


 黒ずんだ重たい鉄の扉が、飲み込んでいた明かりをさらした。

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