第2話
ちょうどテーブルに食器を並べたとき、
「ただいま」と声がリビングに届いた。
パタパタと足音が響く。
壁掛けの時計を見ると、一九時を回ったところだった。
「おかえり、お母さん」
私は反射的に、声のトーンを上げていた。柔らかな「娘」の周波数へとチューニングを合わせるのは、考えるより早い、生存本能なのかもしれない。
ドアが開くと同時に、オフィスの乾いた空気と、デパ地下特有の甘い匂いが流れ込んでくる。
「ごめんねアヤ、遅くなっちゃって」
「ううん、大丈夫だよ」
母が纏っているのは、上質なスーツと完璧な笑顔。それから――たぶん、私への罪悪感。
「ああ、ごはん、用意してくれたんだ。ありがとね。あとは私がやるから、座ってて」
そう言って、軽やかな足音を残して廊下へ出ていった。隣にある、仕事着を脱ぎ捨てるための部屋へ。帰宅一番に私に声をかけてから着替える。それが夜のルーティン。
駅近のマンション。この家は、いつだって完璧だ。
床暖房は足裏から伝わる熱を適温に保ち、加湿器は音もなく白い蒸気を吐き出している。
天井のダウンライトは、部屋の隅々まで影を消し去る明るさだ。埃ひとつないフローリングが、その光を白々しく反射していた。
「ね、見て。アヤの好きなとこのケーキ、新作出てたの」
戻ってきた足音は軽やかで、華やいだ声で掲げた箱は、パステルピンクのリボンで飾られていた。
「わあ、ありがとう! 嬉しい」
お母さんの笑顔は淡い色の綿毛のようで、私の肌を優しく撫でる。
「帰りに覗いたらね、まだ売ってたの。あとで一緒に食べよう」
「うん」
夜ご飯は、お母さんと食べる。これも大事な習慣。私と違って忙しいから、朝は一緒にいられないことが多い。だからせめて夜だけでも、と。
どんなに忙しくても、疲れた顔を見せない。私なんか登下校だけでヘトヘトなのに。
お父さんは二年前に病気で亡くなった。だからここは、ふたりだけの空間だ。父を失った年月で、僅かに変化が訪れた千歳家の日常。
「明日は早く帰れそうだから、お母さんが夕食作るからね。明後日は……残業かな」
「この前、話してた出張は?」
「断ったよー、そんなの。アヤを置いていくわけにいかないでしょ。お父さんいたら、お父さんにお願いしたのにね」
「ふふっ……そうだね」
お母さんは、出版社に勤めるバリキャリだと、お父さんが言っていた。そして「お父さんよりずっと稼いでるんだ」と漏らしては、苦笑いしていたのを覚えている。
私が高校に通えているのも、生活に苦労しないのも、今のお母さんが頑張っているおかげだ。だから早く大人になって少しでも楽をさせてあげたい……と言ったことがあるのだけれど、「やりたいことを見つけなさい。大学に行きたくなったら、それでもいいんだから」とやんわり断られてしまった。
お父さんが亡くなって数日後、お母さんはこのリビングでひとりお酒を飲みながら、啜り泣いていたのを私は知っている。離れた私の部屋に届かないよう、声を押し殺して、静かに――静かに涙をこぼしていた。
私はお母さんが大好きだ。
でも――
「アヤ、また髪切りに行かなかったの?」
「うん……スバルちゃんにボサボサって言われた」
「知ってるわよー、もう。スバルちゃんから連絡来るんだから」
筒抜けだった。私の安全圏は、スバルちゃんに脅かされようとしている。戦わねば。ここが私の分水嶺。
「スバルちゃん、今度ライブ見に行くんだって。アヤも――ああ、アヤは音楽聴かないもんね。小さい頃は、よく歌ってたのよ」
「着てく服もないし……人も多いでしょ……」
「だってアヤ、お父さん譲りでズボラだから。服だってずっと同じの着ちゃうでしょ。お小遣いが足りないなら言いなさいよ」
「ぐっ……」
あまりにも分の悪い戦いだった。こんな言い訳も、お母さんには通じない。
正直なことを言えば、おしゃれに興味はある。でも難しすぎるのだ。オーバーサイズのアウターを着たら、パンツはタイトにしなさいとか、このカラーリングでまとめないと駄目だとか、差し色だとか、まるでゴールのない迷路だ。その点、制服はいい。これ以上ない正解だから。
私の服は、そのほとんどがお母さんのチョイスによる。上下セットで、選んでくれたとおりしまってある。自由に組み替える勇気はない。
「アヤ、ちゃんとしてたら可愛いんだから。ね?」
「そんな……普段ちゃんとしてないみたいに……」
「してないでしょ」
「そ、それは……」
優しげな視線が痛い。身内からもそう見られているのは、いよいよ深刻だ。
どう返答したものかと悩んでいたところ、お母さんは気にした素振りもなく、
「ご飯食べたらお風呂入っちゃいなさい。ケーキはその後でね」
そんなことを言った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
リビングから廊下を抜けて反対側に、自分の部屋がある。
ケーキの甘い香りを連れてドアを閉ざし、その扉に背を預けると確かな重みが伝わって、ようやく肺の活動が戻ってくる気がした。
ここは私のために設えられた、ちぐはぐな箱庭だ。
部屋の右側――ホワイトアッシュのベッドフレームには、リネンのシーツ。枕元のサイドテーブルには、お母さんが「リラックスできるから」とアロマディフューザーを置いていった。ガラス瓶から伸びたスティックが、ラベンダーの香りを静かに広げている。
視線を左へ移すと、そこには、小学生の頃から時が止まったままの学習机が少し色褪せて鎮座していた。
木の天板の上には、お母さんが私の身だしなみを気遣って買ってきた、プラチナのように輝くヘアアイロン。隣には、黒い英字が整然とプリントされた、生成りの巾着袋が無造作に置かれている。
オーガニックな優しさを主張する布地の中身は高級なハンドクリームだけれど、まだ封も切っていない。ヘアアイロンだって、使い方がよく分からないまま、冷たいオブジェになって横たわっている。
机の足元には、有名セレクトショップのロゴが入った厚手のショッパーが、直置きされていた。
しっかり自立するその紙袋の中を覗くと、学校の教科書やプリントが雪崩みたいに放り込まれている。本来なら服が入っていたはずのいい袋は、私にとっては頑丈な物入れでしかなかった。
お母さんが選ぶものは、どれも洗練されていて可愛い。
けれど、それを受け止める机の上には、塗装の剥げた青いシャープペンシルと、中身がバラバラの色鉛筆が入った缶ケースが転がっている。
新しくてキラキラしたものと、古くてくすんだもの。
入り口脇にあるクローゼットの扉には、スバルちゃんが私に何も言わずつけていった、極彩色のゴム人形がぶら下がっている。上質なウールのコートの横で、それだけが場違いに賑やかな色を放ち、静かすぎる部屋の中で浮いていた。
私はふらりと奥の窓際に歩み寄り、そのまま窓を開けてバルコニーに出た。
お風呂上がりにはあまりにも痛い気温を受け止めながら、月寒中央通の景色を覗き込む。
一二階の高さから見下ろす国道三六号線は、光の川だ。ヘッドライトの帯が、風音に掻き消されそうなほど静かに流れていく。
ここからドームは見えないけれど、夜空を反射する街の明かりが、雲の底をぼんやりと照らしていた。
音を立てないよう室内に戻る。冬の足音は険しい。少し出ただけで鼻が赤らんでいる。
部屋の隅、ぽっかりと空いたフローリングの空白を見下ろす。スマートフォンの充電ケーブルが、不格好に伸び切っている。本来なら何かが置かれるべき場所なのかもしれないけれど、今の私には、そこを埋めるべきピースの形すら想像できない。
お母さんは優しい。決して押しつけない。
ただ、私が「何でもいい」と頓着しないせいで、この部屋はいつまでも完成しないパズルになった。私の部屋に、私の輪郭がない。
ふとその空虚なスペースに押し潰されそうになって、私は逃げるようにベッドへと倒れ込んだ。
柔らかすぎるマットレスに身体が沈む。
静寂の中で耳を澄ますと、トクン、トクンと、頼りないリズムだけが聞こえた。
私はお母さんが大好きだ。
でも――
私は、自分のおかしさを、お母さんに言えないでいる。




