第1話
姿見の前で、静かに息を止める。肺の活動が沈むと、私の耳は内側に向かって開きはじめる。
トクン、という音は浅葱色。
私は家を出る前に、毎日そんな確認をしていた。
鼓動を確認し終えると、鏡の中の少女に向かって、口角を数ミリだけ持ち上げる。
「行って参ります」
完璧な敬語。完璧な仮面。化粧なんてしていないのに、浅葱色の音が分厚いファンデーションの下に隠れていくのを感じる。心音と一緒に、意識も深く潜り込んでいく。
大丈夫。今日も良い子だ。
地下鉄の時間が迫っているけれど、私は靴を履けない。外の空気を吸うのが、一秒でも惜しい。こんなギリギリになるのが日常。
お父さんにあげたお線香の煙が完全に消えて、部屋の匂いが戻るまで動けなかった。
「行ってくるね」
挨拶ひとつを絞り出すのに、一〇分も使ってしまった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
学校までの三〇分は、灰色の砂嵐だ。地下鉄のひどい金属音も、他人の無遠慮な話し声も、まぶたの裏にザラザラした嫌な質感として溶け出してくる。
イヤホンから流れるホワイトノイズだけが、私をこの砂嵐の暴力から守ってくれる。
地上へ這い上がると、北一三条の冷気が容赦なく私の「仮面」を剥がしにかかってきた。校門までのわずかな距離が、永遠のように長い。
「アヤ!!」
校舎に入る直前、ちょうどイヤホンを外したタイミングで私を呼ぶ声がした。
振り返る前に肩をポン、と叩かれる。
「おはよっ!」
「おはようございます、スバルちゃん」
「もー、敬語やめなー」
「でも……」
「寒すぎ。つい最近まで夏だったのになー。てかアヤ、髪ボッサボサ! どしたん」
彼女は琴似昴――私のひとつ年上の先輩だ。どこか違う世界の太陽を浴びて育ったような、彩度の高すぎる笑顔が眩しく、だからどこか後ろめたい。
何より会話の速度にまったくついていけない。ラリーでもキャッチボールでもなく、一方的に打ち込まれている状況だ。
「あ、放課後空いてる? 遊びに行こ」
スバルちゃんはいつだって強引で、私の返答なんて待ってくれやしない。何か紡ごうとする前に、「あとでねー」と残して走り去っていってしまった。私が空いてなかったら、どうするつもりなんだろう?
両親同士の仲が良かった影響で、幼い頃からの知り合いだから、気兼ねないといえば聞こえはいいのかな……
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
誰に言い訳するわけでもないけれど、私にも友達ぐらいはいる。
放課後、たまにだけど一緒にカフェに行くし、なんだかよくわからないプラッシュキーホルダーのために何時間も並んだこともある。机の横にかけられた鞄を膝で小突くとユラユラ揺れる。本当にこれは何のキャラクターなんだろう?
今の日常がキライなわけじゃない。変わり映えしない日々を生きるのは、人の常なんだ。
けれど――、そうだけれど、チョークが走る音とか、先生に聞こえないようボリュームを落とした私語、クリーム色の暖房から漏れるパチパチという響き。輪郭のないノイズが、私を不安にさせる。
灰色だ。灰色の世界は、何もかもがつまらない。そんなおかしさが怖いから、私は息を潜める。世界に迎合して、灰色に溶け込む。
あんまり上手に喋れないし、勉強も運動も得意じゃない。この学校に進学できたのは、一生分の奇跡だったから、卒業までの我慢だと思うしかない。
みんなには何が見えているのか、わからないけれど。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ホームルームから解放されてすぐ、教室前のロッカーで靴を履き替えた。
放課後はそこかしこが雑踏で、私にとっての危険地帯だ。
この場所を早く抜け出したくて、鞄の奥に押し込んだイヤホンを探りながら、足早に進んでいった。
室内と打って変わって、外はやはり冷える。
寒いのはキライ。でも、うるさいのはもっとキライ。
「アーヤ!」
「……スバルちゃん」
髪を乱しながら、走ってきたスバルちゃんを見て、あ、と声が漏れる。
いや、忘れていたわけではない。
――覚えていなかったのだ。
覚えていないなら、忘れようがない。最強の理論。だから私は、たぶん悪くない。
ひまわりみたいな色の声に雑音が混ざり合ったせいで、記憶できなかった。私はいつもこうだ。いらないものばかり拾ってしまう。自分の要領の悪さを呪うしかない。
「ごめん、遅れた! あ、待っててくれたんだ?」
「えっと……はい」
「ね、行こっか。あれ、アヤ、髪ボサボサじゃね?」
「あの、どこに……?」
「どこって……どっか行きたいとこある? カラオケ? アヤ、カラオケ無理じゃない? じゃ、適当にぶらつくかー」
スバルちゃんのトークスピードは、私の感覚と合わないことだらけだ。
相も変わらず、口を挟む余地はない。この速度についていくには、競技レベルの特訓をしなければならない。最短距離で「フラペチーノが飲みたいです!」と言う練習だ。
……諦めよう。自分はちょっとばかりどんくさいから。うん、ほんのちょっとばかり。
でも、そんなスバルちゃんはキライじゃない。ううん、たぶん好き。まぶたの裏が濁らないから。それは、私の判断基準で、大事な価値観だ。小さい頃から知っているというのもあるかもしれない。
この視界には、いっぱいの無遠慮が溢れている。
他人の声。雑踏。耳障りの良い言葉とか。中身のない称賛や、当たり障りのない励まし、心無い優しさ、全部色を持たない砂嵐。いつも、ぼんやりと輪郭を持たない。意味がないものに覆われている。
幼い頃は知らなかった。みんな同じだと思っていた。
お父さんが、違和感に気づくまでは。
「お父さんの声は、薄い水色だね」
そう言った。お父さんはずっと私に優しかった。呼吸。幼少時に抱きしめられたときの心音。覚えている。柔らかく、正しい。
私が見ているものを打ち明けたのは、お父さんにだけ。
お父さんは、一瞬だけ困惑したあとに、フフッと笑って言った。
「アヤは、きれいなものを見るために生まれたんだね」
「わたしは、きれいなものを見られるの?」
「ああ、きっと。アヤは優しいから、誰かがプレゼントしてくれたんだよ」
――今の私には、それが真実なのかわからない。
お父さんがいなくなって、余計に悪化してしまったから。急激にお腹が冷えたときのような、風邪で寝込んだときのような、境界のない曖昧さに取り残された。
心の問題? そうなのかも。でも、知るのは怖い。私は、私が変な人間だと思われるのを、純粋に恐れている。お父さんの言葉が否定されるのが、嫌だ。
日常にあふれるありとあらゆる音が砂嵐で、世界はドロドロに溶けていた。いや、もしくは無機質な灰色。外は灰色だ。
目を閉じて、呼吸を整えても、ここじゃ自分の心臓の音が聞こえない。
青は大事だ。生きている色。生の実感。
「アヤさ、あっこの新作食べた?」
急激に意識を引っ張られて、私の逃避は終わった。
あたりを軽く見回すと、いつの間にか大通を抜けようかというところまで来ていた。
「あ、あっちにランジェリーショップできたの知ってる? アヤ絶対似合うじゃん。行く?」
「ら――っ、こ、こんな人通りの多いとこで、そんな――」
「誰も聞いてないって! アヤは心配性だなー。てか身長伸びたよね? アタシ、一五五でもう止まったっぽいんだけど。無理じゃない?」
「えっと……たぶん三センチくらい高いです」
「そうやって、アタシを置いてくんだなあ。昔はさ、アタシをお姉ちゃんお姉ちゃんって、鼻水垂らしながら言ってくれたのになー」
「は、鼻水……」
「ね、あっち入らん? 寒いし。いちごサンデーがマジ美味いの。奢ったげるよ。バイト代入ったんだ」
「いえ、お金は――」
またしても、私の反応を待たず先へ先へと進んでいった。
やっぱり、ラリーの練習をするべきなのかもしれない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ごちそうさまでした」
「気にすんなよー、いいのいいの! てかあんなちょびっとで良かったん?」
「あれでもお腹いっぱいになるので……」
「や、もっと食べなきゃさー。おっきくなれないって」
田舎のおばあちゃんみたいなことを言われても。
喧騒と打って変わって静かな店内で、少しだけ落ち着けたのは助かったけれど……結局、私はスバルちゃんに押されてご馳走になってしまった。
「アタシ、アヤを太らせて完全な球体にするのが夢なんだけどなー」
「球体……!?」
「や、ウソだから。アヤは今がガチで一番可愛いよ」
「うぅっ……」
カフェを出た頃には、すっかり日が暮れていた。せいぜい一時間ぐらいしかいなかったのに。
寒さが一段と強くなった。肌がピリピリする。タンスの奥に片付けていたマフラーを、今日こそ出さなきゃいけない。
「ね、アヤ、帰る前に寄りたいとこあんだけど、いい?」
「はい」
「ごめんなー」
「どこに行かれるんですか?」
「ああ、いや、ライブハウス」
「ライブ……? 歌うんですか?」
「あはー! 変なこと言うなよー!」
ひときわ高い笑い声。最後に喉が閉まってキュッという音が漏れるのが可愛い。
けど、笑わせようとはしていない。そんなウケるなんて。
「アタシ、バンド好きなの。言ったくない? 特にロンドンパンクとガレージ・ロックなんて痺れるし」
「ロンドン……?」
パンクという音楽のジャンルはうっすら知っているけど、手前に地名がつくとは知らなかった。オックスフォードパンクとか、ケンブリッジパンクもあるのだろうか?
「でさ、インディーもインディーなんだけど、いいバンドが札幌にもいんのね」
札幌パンク。いよいよ地名の分類が地方にまで細分化された。南二条パンクとか出てきたら、きっとその情報量で窒息する。
「FRONTとかアツいから、ちょっと覗いとこうかなって。今日聞くってよりフライヤーもらうだけ!」
「はぁ……」
ここまで出てきた言葉の意味が理解できなかったので、曖昧に頷いておく。
「先、帰っててもいいよ!」
「いえ……」
ご馳走になって先にさようならというのは気が引ける。
だからついていく。
すすきの繁華街の外れのほう。小さな雑居ビルの地下にFRONTと書かれた扉があった。
「うーん、と……ああ、あったあった! へえ、金曜はBRLO出んだ。えー、行きたい。アヤ、どうする?」
「わた、わ、わわ、私ですか……?」
「え、なにキョドってんの」
正直こういうところには、てんで縁がない。
ライブハウスの印象といえば、悪い人たちがたむろしてるとか、そういうイメージだ。しかもここはすすきの。これだけ怖いところにいて、警戒しないほうがおかしい。
「ま、いいや。帰ろ。ごめんなー、アヤ。東豊線っしょ」
「はい。でもスバルちゃんのほうが……」
「アタシは大通まで歩くわー。東西線だし」
「じ、じゃあ……私も行きます……」
「ええ? 気遣うなよー」
「ううん、行きます」
「…………」
スバルちゃんが、ちらりと私の顔を覗き見て、
「あは、可愛いなぁ、アヤは!」
肩をドン、とぶつけてきた。




