序章
ざらついた結晶が落ちてきたのは、つい先日のことだった。薄手のパーカー一枚では、体温を奪う外気はしのげないと思っていた頃に、初雪が来た。
通りすがりのガソリンスタンドが、慌ただしく「タイヤ交換を承ります」という看板を出していたのを見て、もうそういう季節かと実感する。
アメリカにいた頃に薄れていたものが、この五年で蘇った。喜ばしくも悲しくもないが、気持ちを見透かす空模様には嫌気が差す。
かじかんだせいでフリント・ホイールが虚しく音を立て――ようやく赤みを帯びた煙草の先端は鈍色には似つかわしくなかった。
職場に辿り着くまでにある路上喫煙所は、足を止める価値がある。最近はどこもかしこも禁煙で居心地が悪い。
些細なことで気づく時代の流れに身を任せた結果が、地方都市歓楽街の一角――ライブハウス『FRONT』の店主だった。もうデニムを腰で履く年齢じゃないことぐらい、理解している。
「いや、やっぱさみぃわ……」
携帯灰皿に吸い殻を押し込み、踵を返して歩き出す。
国道三六号線の喧騒が、潮が引くように遠のいていった。交差点の頭上で往来を睥睨する、あの大仰なウイスキーの看板を尻目に、篠路照途は夜の濁りへと足を向ける。
拾壱号ビルの入り口。そこで口を開けた地下への階段が、光を拒む喉笛さながらに静まり返っていた。一段、また一段と降りるごとに、札幌の乾いた冷気が、行き場のない澱んだカビと、幾層にも積み重なった煙草のヤニの匂いに取って代わる。
コンクリートの壁は、何年もかけて音圧と湿気に燻されたことで、本来の色彩を忘れ、曖昧な黄ばみに染まっている。剥き出しの電球の無機質さが足元を照らし、踊り場に落ちる影を無慈悲に穿っていた。
滑り止めの鉄板が擦り切れたその段差を踏みしめるたび、膝の奥に鈍い痛みが走る。それは齢を重ねてしまったことへの、あるいは音楽という名の劇薬を裏切ったことへの、微かな、しかし確かな報いだった。
かつて、ストラトキャスター一本を携え、アメリカの荒野を音で切り裂いた男にとって、この階段はあまりに狭く、あまりに静かすぎる。
階段の底、行く手を塞ぐように立ちはだかるのは、艶を失った重厚な鉄の扉だった。
過去の栄光を葬り去った墓標のようでもあり、世間の光から転がり落ちた先にある、地下牢の入り口のようでもある。長年、内側から爆音で叩かれ続けたせいか、その表面は硬い皮膚を思わせる強張りを帯びていた。
金色のドアハンドルを握り込む。冬の気配を吸い込んだ金属の芯まで凍みる温度が、触覚を通して照途へと伝わった。
この僅かな痛みは、すべてを捨てて飛び出したあの日から少しも変わっていない。
「ああ! やっと来た! テリーさん、遅いよ!」
「悪い、深酒した」
「それはいつもの――ああ、ここ禁煙だって! 何度言ったらわかってくれんの!」
「馬鹿。わかりたくねーこともあんの。それに俺は店長だからな」
照途に食ってかかってきたのは、昨年の春にFRONTへ転がり込んできた、PA卓の若者だ。
まだ二〇代の半ば。色素の抜けた髪と、耳に残る無数のピアスホール。以前はどこぞのパンクバンドでギターを振り回していた男だ。「伝説のギタリストがいる店で働きたい」などという、若さゆえの無謀さと熱量で、この沈みかけた船への乗船切符を強引にもぎ取っていった。
だが、今のこいつに当時のパンクの精神など見る影もない。あるのは、だらしない店主に呆れ果てた口うるさい母親の、もしくは小言の絶えない姑の、妙に所帯染みた世話焼きの性分だけだ。
「没収ですからね! 指定場所以外での喫煙禁止を決めたのは、誰でしたっけ!?」
「チッ、シケたこと言うなよ。店の格が落ちるだろ。ロックがルールに縛られてどうすんのよ」
「あんたがルール決めたんでしょ! ビルのオーナーに泣くほどキレられたって! マジで情けねーな、テリーさん。ほら、さっさと準備して」
奪い取られたセブンスターを惜しみながら、照途は嘆息する。紫煙が与えてくれる肺への痺れがなければ、全くもって頭が働かない。
あれほど自分に心酔して押し掛けてきた男が、今では自分の生活態度を更生させるべく奮闘する保護者気取りなのだから、つくづく時は残酷だ。
「ん? ちょっと待て。準備って何だよ。俺、あっちのもぎりだろ?」
「ブッキングしたバンドが一個飛んだんだよ」
「はぁ……おいおい、マジかよ……うちノルマなんて設定してねーぞ」
ヨソではままあることだが、ここでは珍しい。
ライブハウスにおける『チケットノルマ』とは、即ち箱を維持するための防衛策だ。
チケット――つまり紙片を金に変える力がなければ、演者自らが身銭を切ってその不足分を贖う。夢を見るための場所代、あるいは実力不足へのペナルティ。
非情だが、それがこの世界における一般的な「契約」であり、インフラを守るための必要悪だ。
払えなければ借金でもするか、行方をくらますか。若者たちがその重圧に恐怖するのも無理はない。
「いや、待て。リハは?」
「リハのときはいたんだよ! 一番手だからリハは最後でしょ? 細かい指示もあって、結構気合入ってんなーって思ったんだよ」
「リハやって蒸発って、なかなかだな。客呼べねーからか? 違うか……」
「だから困ってんですって」
「どっちの話?」
「今日の穴埋めもライブハウスの運営も、どっちもだよ!」
照途の口癖は、『金がないなら客を呼べ、客が呼べないなら腕を磨け』だ。ノルマはないし、チケットが売れれば売れた分だけバックもやる。だから客を呼べ、と。
今回ブッカーが声をかけたのも、ひとつを除きそういう連中だった。興行のリスクはこっちが被るから、掴み取れよということなのだが、いかんせん伝わらないこともある。
「なのにバックレたんだよ。BRLOが一発目のリハだったから、ビビったのかもしんねーけどさ。とにかく穴埋めしておきたいんだ」
「対バン相手は殺すつもりでやれって、二〇年前は言われたもんだけどなぁ」
FRONTにとって痛手とは言い難い。後ろに集客が見込めるバンドがいるからだ。とはいえ、迷惑であることに変わりはない。
「で、なんぼ入ってんの。フロア」
「まあ、一五人かな。BRLOが後ろだから、埋まるにしても遅いだろうね」
「人気バンドが出るってときは、開演から前を取ろうって躍起になる連中もいたんだけどなぁ」
「昔話は酒の席で聞くからさ、テリーさん」
リスクのない舞台を用意したのに、それすら棒に振るとは。照途は深い溜め息とともに、着古したパーカーを脱ぐ。
奴らは金よりも重いプライドという代価を支払う覚悟すらなかった。そういうことだろう。残念ながら、うちでは今後、彼らとの縁はなさそうだ。
「埋めなくていいだろ。適当にCDでも流しとけよ。次の奴早めるとかでもいいけどさ」
「それができりゃなんぼほどいいか。次もその次もリハ終わりで飯食ってくるってさ。薄情な奴らだよ……」
「よし」
「悪いね、テリーさ――」
「お前がやってこい。店長命令だ」
「マジでふざけんなよ! じゃあ、誰が卓やるんだよ!?」
「マネージャーは? 今日来てないの? あいつ、一昨日飲み屋で俺がすすきののカール・パーキンスだって叫んでたぞ」
「往生際悪いよ、テリーさん。最善を尽くした結果、最悪に頼んでんだって」
「俺、ギターなんてもう五年も――お前、俺を最悪って言ったな」
鈍色の空は、これを示唆していたのだろうか。逃げ場はない。昏い地下の牢獄だ。
「そもそもギターなんて持ってきてないよ。五年も弾いてないと、指も赤ちゃんぐらい柔らかいし」
「ES-335があるよ。ブッカーの前田さんのやつ。使っていいって」
「ハコモノかよ。好みじゃねーんだよなぁ。仕方ねーや。お前、卓は合わせろよ」
「またそうやって――えっ!? いいの!?」
「お前が言い出したんだろ。四方八方駆けずり回って最悪に辿り着いたってんなら、もう諦めてやってやるよ」
弾きたくもないし、声も出したくない。だがもうやるしかない。今日はそういう日なんだろう。
やると言った瞬間、若者の目が輝いたのを照途は見逃さなかった。期待されるのには弱い。応えてやらねばならないのが、少し重いけれど。
「ありがとう、テリーさん。チューニングも終わってるからさ!」
「……ああ」
観念して首を鳴らし、事務所の奥へと向かった。
ギタースタンドには、待ってましたと言わんばかりに一六インチの大ぶりなボディが鎮座している。ヴィンテージではない。無造作に貼られたステッカーの痕跡。打痕だらけのボディ。持ち主の雑な愛情が染みついた、鮮血のようなチェリーレッド。今の自分の心象風景とは、最も乖離した色だ。
旧い相棒だったストラトキャスターの、手に吸い付く繊細なシェイプとは程遠い、無骨な握り心地。
弦を押さえてみる。指先が痛い。赤子の柔肌に戻った軟弱者に、スチールの冷徹なテンションが食い込み、拒絶の意志すら伝えてくるようだった。五年のブランクとは、即ち楽器との「和解」をやり直すための時間なのだと痛感する。
「鳴りはいい……悪かったな……お前、大事に使われてんだ」
「テリーさん、もういける?」
「いいよ」
シールドを一本掴み、照途は事務所を出る。
若者は、水を得た魚のようにPAブースへと駆け込んでいった。
ステージに立つのが自分ではないというのに、あの無責任な期待の眼差しはどうだ。
もう考えるのはやめたとばかりに、彼は諦観の念で、ステージへ進んでいく。
瞬間、肌にまとわりつく空気が変わった。
籠もった湿気。床にこびりついた酒と埃の匂い。ステージ上では、無遠慮な照明が視界を白く焼き尽くした。眩しさに目を眇めながら、フロアを見下ろす。
まばらに散らばる一五の影。腕組みをして、不機嫌そうに壁にもたれる男。スマホの画面に没頭して顔も上げない女。誰も、急遽穴埋めで現れた薄汚い中年になど興味はない。そこにあるのは「お前は誰だ」という無言の問いかけと、値踏みするかのごとき冷ややかな静寂だけだ。
だが、その沈黙には重たい鉛のような質量があった。僅かな段差で区切られた、俺とお前たち。この隔絶こそが、あのとき感じていた絶対的な支配と孤独。
――ああ、これだ。




